＊＊＊

　世界は、この箱の中にある。
　そして、閉じた夢を見続けている。
　夢は覚めない。もう、夢自体が人格を持ってしまったから。夢は、声にならない声で叫び続けている。閉ざされた箱の中で。  

＊＊＊

　電源を入れると、ぶんと低い音がして空気が震えた。ドライブが起動する耳障りな音が、追い掛けるように幾重にも続く。スピーカーの電源を入れていないから、ＢＧＭは本来聞こえないはずなのに、微かに喘ぐようにそれが聞こえる。
　まるで、目覚める前の夫の不機嫌な吐息のようだ。私はふいに思う。夫は、ただ朝が苦手だからと言い訳するけれど、いつもいつも理不尽なまでに不機嫌に目覚める。そして、大袈裟な溜息をついてのろのろと起き上がる。私はあの吐息を聞くと身を切られるように感じる。私が全ての原因なのかと自分を責めたくなってしまう。だから、朝が来るのが嫌いだった。夜中に目覚めて、このまま朝が来なければいいのにと何度願ったことだろう。
　が、それももう長らく聞いていない。…やめよう、今それを考えるのは。
　私はコーヒーを飲み、パンを齧りながら、ＰＣ（パソコン）が目覚めるのを待っている。自分が作った壁紙の「おはよう」の文字に、「おはよう」と答える。少し前まで、音声も入れていたのだけど、あまりに悲しくなってそれはやめた。
　私は、独り言を言う。意味のない事を一々口にする。意味が無さ過ぎて、意味を考える前に何を言ったか忘れてしまう。夫はそんな私の癖を嫌悪している。ＴＶやモニターに向かって、独り言を言っているのを聞きとめると、すかさず「独り言はやめなさい」とやんわり言った。口調は優しかったけれど、夫の目は冷たかった。だから私は「淋しいからなのよ」と言い訳する事が出来なかった。
　いけない。繰り言は自分を惨めにするだけだ。
　メーラーを開ける。ターミナルアダプターが点滅しながら、私の元に『世界』を連れてくる。
　来ていた１９通のメールの殆どはダイレクトメールで、私はそれ等をろくに読まないまま機械的に削除していった。今日はそれでも数が少ない方だ。Ｅメールを始めた頃、メールが来ないのが淋しくて、やたらにダイレクトやメーリングリストに登録してしまった。だから、多い時には３０通ぐらい来ることもある。所詮読みもせず捨ててしまうものだから、もうそれらを解除してしまえばいいのに、私は手続きが面倒でそのままにしている。時々、毎朝こうやって殆ど読まないメールをせっせと削除する作業の方が、余程面倒ではないのかと思う。
　いや、私はきっと解除したりはしないのだろう。
　この無意味なメール達が、私と『世界』を結びつけるものなのだから。
　夫からのメールはなかった。
　出張が長引いているのだろう。きっと明日になったら、何時に駅に着くと、メールが入ってくるに違いない。そしたら私は夫を迎えに駅まで行く。車にガソリンを入れておいた方がいいかもしれない。時間が早ければ、食事に行ったり、もしかするとドライブにも行けるかもしれない。
　私は、コーヒーを飲み干すと、キーボードに向かった。近況を知らせる友達のメールに、返信を書く。「元気です。幸せです」と。下らない顔文字なんていれて、思いっきり明るい文面にする。
　嘘はない。ただ、誇張であったり、省略があったりするだけだ。
　３通のメールを書き上げた。夫にも送ろうかと思う。夫は、喜んでくれるだろうか。そして、メールを返してくれるだろうか。
　私は首を振って、そのまま書き上げたメールを送信した。
　夫は、携帯電話からメールを送信する事を嫌がっている。キーボードじゃないから、打ちにくくて仕方ないと不満を口にする。だから、受けるのはいいけど、ほとんど返してはくれない。ただ、自分の用事がある時だけだ。
　夫は、とんでもない身勝手な人なのかもしれない、と私は最近になってようやく思い始めた。夫は自分の都合だけを言い、私の用事は無視する。私はいつだって夫の為に時間を空け、待ち続けていなければならない。
　夫は、自分だけが良ければそれでいいのだ。
　私は苦笑する。気付くのが遅すぎる。
　新しいメールは来てなかった。
　私は一旦閉じて、メンテナンスを起動した。
　さあ、この間に用事をすませよう。  

＊＊＊

　夫がＰＣを買って帰ったのは、丁度１年前のことだ。私が淋しいだろうと、マンションで動物は飼えないから、せめての慰めにと買って来てくれたのだ。私は、夫の思惑通りこれに夢中になった。
　ネットの中では、なにもかもが思いのままだ。私は、世界中を旅し、沢山の人に出会い、軽い恋愛ゲームを楽しんだ。
　洗濯と雑な掃除を終えて戻ってくると、ＰＣのメンテナンスは終りスクリーンセーバーが、はらはらと花びらを散らせていた。
　私は、またメーラーを起動させメールを確認した。メールは来てない。
　私は溜息をつき、プロバイダーに接続した。
　『世界』が私の前でその扉を開ける。
　そこでは「私」は、夫の浮気に悩む健気な妻であり、またある所では、昔の恋人が忘れられなくて独身でいるハイミスであり、また違う所では、１８歳で出産した２０歳のヤンママである。
　簡単な事だ。誰も他人に興味はないし、わからないことを聞かれたら無視すればいいのだから。誰も、本当のことなんて知らないし、知りたくもない。
　夫の浮気に悩む妻として書き込みをしたＢＢＳには、沢山のレスが書き込まれていた。
　どれも、私に同情的な文面で、自分の経験を語っている人までいた。世の中には、ドラマよりドラマティックな人が一杯いるものだと思う。もっとも、それが本当のことかどうかなんて、全くわからないのだけど。
　レスの幾つかは、私の煮え切らない態度に、腹を立て即座に離婚すべきだと断言していた。無責任な…。と言うか、無責任だからこそ、言える事なんだろう。私だって、そういう無責任な大勢の一人なのだから、それを責める気はない。ただ、軽い失望感を覚えるだけだ。
　私はレスに返事を書き込む。
「>ＡＬＬ　心配してくれてありがとう」
　なんて。適当な事を。
「離婚という選択は、ある意味で前向きなことなのだと　　　　　　　　
わかっています。
このままでは、駄目なのだということも、わかっています。
けれど、私の気持ちはまだ夫にあり、浮気という事実を前にしても、それは変わりません。
だったらこんな愚痴を書き込むなと言われそうですね。
でも、どうしても誰かに聞いてもらいたかったのです。
ごめんなさい。
でも、皆さんのお話を聞いて、私は自分の気持ちに改めて気づく事ができました。
これからは、この気持ちを大切に、夫に歩みよって行きたいと思います」
　私は送信をクリックした。画面が一瞬閉じて、また開いた。私のレスが、画面の中に表れる。その瞬間に、それは私が書いたものではなく、全く別のものになるのだ。ネットの無名性は、その責任の所在をも簡単に失わせてしまう。
　私は、「お気に入り」からそこのアドレスを削除した。あんな風にまとめるつもりはなかったけれど、あれじゃ反論されるのは必至だし、それを一々ＲＯＭしてヘコムつもりもない。
　次に、２０歳のヤンママの振りをしているＨＰに行った。
　相変わらず、ここは日本語と思えないような言葉が氾濫していた。それでも、季節がら子供の風邪を心配する書き込みが目立っていた。
　私は、不思議な気がする。
　野生の動物が、教えなくても子供を育てるように、彼女達はそれなりにちゃんと子育てをしているのだ。自分の欲望に忠実な分、野生に近いのだろうかなんて時々私は思う。
　でも、私はそんな彼女達が大嫌いだ。
　無知で粗暴で、若いだけが取り得だなんて、間違っている。だから、ＢＢＳには思いっきり、馬鹿っぽく書き込んでいる。底意地悪く、毒を撒き散らしている。たまに「訳わかんねぇよ」とかいうレスがあるけれど、わからない事が恥ずかしい事だとは思ってない彼女達だから、放っておいても大丈夫だった。
　これじゃ、ネットおかまより、性質が悪い。
　とりあえず、今日来た足跡だけは残しておく。
「もう、チビの奴、風邪ひいて、げろげろなんだよ。
キモーイ。
ムカツク。
さっきからナンベン洗濯機回してると思ってんの。
もう、やだーー」
　送って、溜息をついた。やはり、嘘をつく事はイタイ。だんだん痛みが大きくなって、嘘を楽しめなくなってきている自分がいる。
　空腹を感じて、時計を見ると、とうに昼を回っていた。
　私は、一旦接続を切って、ＰＣの前から立ち上がった。

＊＊＊

　冷蔵庫には、何もなかった。
　驚いた。どうしてこんなに空っぽなのか、自分でも訳がわからなかった。私は、どこかに行こうとしていたのじゃないだろうか？　どこかに行かなければならないのだろうか？　考えてみるけれど、思い出せない。
　そもそも今日は何日なんだろう。わからない。
　私は、冷凍庫に残っていた食パンを、オーブンに入れた。コーヒーを用意する。けれど、豆もほとんど残ってなかった。どうやら、この薄いコーヒーが最後の一杯になりそうだ。
　そうだ。思い出した。私はずっと、この部屋にいる。ここから、一歩も出ていない。だって、『世界』はそこにあるのに、どうして外に行かなければならないのだろうか。
　外で「お宅のご主人、今週も出張なの？」なんて、一々聞かれるのはうんざりだ。興味のない事に同意を求められ、重箱の隅をつつくように誰かの粗探しをするのに、同調しなければならないなら、こうやって部屋でぶつぶつと独り言を言っている方が、よっぽどましだ。
　これは、逃避に違いない。
　私は沢山の様々な「箱」に囲まれ、その中で喘いでいる。勿論、囲まれているのは私だけじゃない。世界は全て、何らかの箱の中に入っているものだ。ただ、私は息苦しい。時々、息の仕方を忘れてしまう。
　トーストが焼き上がり、私はバターを塗って食べた。本当はマーガリンの方があっさりしていて好きなのだけど、夫はどうしてもバターでないといけないと言う。夫は、いかにバターが栄養的にすぐれていて、マーガリンがどれほど劣っているかを語った。そして、「所詮、まがい物はまがい物だから」と言って、買ったばかりのマーガリンをゴミ箱に捨てたのだった。結婚して最初の朝だった。
　変だ。どうして３年も前の事を、急に思い出したのだろう。それも、こんなに鮮明に。
　トーストをコーヒーで流し込むと、私は居間に戻り、ＰＣの電源を入れた。

＊ ＊＊

　メールが来ていた。嬉しかったけれど、送信者に見覚えがなかったので、すぐ不安な気持ちになった。件名も空白だ。
　とりあえず、添付ファイルはついてなかったので、ウィルスではないだろうと思い、開いた。
「お前は、嘘つきだ」
　たった１行、それだけが書いてあった。
　私は、しばらく何の事かわからず、茫然としていた。ふと我に帰ると、右手が激しく震えていた。バレたんだと思った。私が、色々なサイトでついてきたたわいのない嘘。それらが、全部ばれてしまったんだ。
　私は、左手で右手を掴んだ。右手の震えは、激しさを増す。まるで、私とは違う別の生き物のようだ。
　頭の中を、ネットトラブルの様々な例が飛び交う。どうすればいいのだろう。私は、電話を手に取った。夫の携帯に連絡して、どうすればいいか聞こう。きっと夫は、自分が招いた事じゃないかと、怒るだろう。でも、必ず最後には、いい方法を教えてくれるはずだ。
　私は、夫の番号を押そうした。が、手が震えて上手く出来ない。
　…嫌。違う。
　ふいに、震えが止まった。
　私は、どのＢＢＳにも自分のアドレスを残していない。ハンドルネームも全て変えている。あのサイトの「ＡＫＩ」とあそこの「天使の羽根」と、またあそこでの「雅桜」等が、「私」である証なんてどこにもないはずだ。確かに、アクセスログを辿っていけば、個人にたどり着く事も可能ではあるけど、安易に勝手には調べられないはずだ。
　なんてことない、ただの悪戯。嫌がらせなのだ。
　私は、それを削除した。
　削除してしまってから、夫に見せればよかったと思った。やはり怒られるだろうけど、これから何をどう気をつければいいか、ちゃんと教えてくれる筈だから。
　私は、気を取りなおしてネットに繋いで、ハワイの海岸に行った。モニターに広がる海には、触れる事こそ出来ないけれど、まるでそこにいるような臨場感がある。なんて不思議なことだろう。モニターの中が現実で、私の方が仮想にいるようだ。ああ、誰かが私の前を歩いている。姿は見えないけれど、砂に足跡が一つずつ増えていっている。私は、その人に呼びかける。その人が立ち止まり、ゆっくり振り返った。
　この『世界』なら、声は届く。
　なのに、夫には届かない。

＊ ＊＊

　電話が鳴っていた。
　なんだか、耳慣れなくて何の音かしばらくわからなかった。さっき私が適当に置いてしまった為、受話器が見つからない。切れてしまえと、心の中で思いながら、私はのろのろと受話器を探した。
　途中、１回コールが止んだ。
　私は、ほっとしてＰＣの前に座ろうとした。が、直ぐにまたコールが響き始めた。
　机の下の受話器を取り上げ、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「そこにいるんでしょ？」
　いきなり、ヒステリックな女の声が聞こえた。私が返事に困っていると、女は夫の名前を口にし、
「そこに、いるんでしょ。出してよ」
　と、早口に言った。
「あの、どちら様ですか？　それに夫は出張中ですので、ここにはいませんけど」
「嘘言わないでよ」
　女は、私の言葉を遮った。そして、断言するように続けた。若い女のようだ。少し舌足らずな発音だが、妙に高飛車で命令することに慣れた感じがあった。
「彼がそこにいるのはわかってるのよ。出張なんて嘘なんだから。早くだしなさいよ」
　私は、彼女の口調に腹が立ってきた。どうして、私がこの人に命令口調で言われなければならない？　こんな見知らぬ人に。
「夫は、ここにはいません。それに、あなた失礼でしょう。名乗りもしないで、人の夫をまるで…」
　言葉が続かなかった。まるで、なんだというのだ。
「名乗っていいの？」
　ふいに彼女は、冷ややかに言った。女は効果的に一呼吸空けると話し始めた。
「私は、あなたの夫の愛人よ。もう、四年。つまり、あなたと結婚する前からの付き合いなの。彼はね、出張だって言っては私の所に来ていたの。本当にあなたって、鈍いのね」
　私は身体が冷たくなるのを感じていた。知らなかった。いえ、本当は知っていた。気付いていた。ただ、夫が恐くて気付かない振りをしてきた。でも、こうやって彼女から知らされたのは不可抗力だ。だから夫は私を許してくれるだろうかと気休めに思う。私の夫への怒りより、夫が私に対する怒りの方が、安易に想像できるから私はそれが恐かった。
「とにかく、夫はここにはいません。帰ったら、貴方に連絡するように伝えます。それでいいでしょう」
　私は、出来るだけ決然と言った。電話の向こうは無言だった。私は、それを承諾の返事だと思い、電話を切ろうとした。
「待って」
　声が聞こえて、反射的に手を止めてしまった。
「お願い、彼と別れて」
　彼女の声は震えていた。
「それは」
　私の声は掠れていた。言葉がなかなか出てこない。
「それは、貴方と夫の問題であって、私には関係ないわ。それに、夫が本気で貴方との結婚を考えているなら、私にその話をしている筈よ」
「それはないわ」
　彼女の声には、微かな嘲笑があった。
「彼は、あなたのことを恐がっているもの。彼から、離婚なんて絶対言い出せないわ」
「恐がっている…？」
　私は、聞き間違えたのかと思った。あんな暴君の夫が、私を怖がっているなんて、嘘にきまっている。そうやって、同情してもらうことで、夫は彼女を引き留め続けていたのだろうか。なんて下らないことを。夫も所詮、その程度の人間だったということなのか。
　私は、鼻で笑ってしまった。
「そうよ。あの人はあなたが、恐いのよ。あなたが、何を考えて何を思っているのが、全然わからないって。突然、独り言を言い出したりするし、目つきが変わるし。とにかく、恐いって」
　だって、夫はほとんど家にいないもの。接触がないから、お互いの事が解からないのは当然だ。なのに、それを私のせいにするのか。私だけのせいに、夫は。
　目頭が、熱くなった。
　もっと早く、色々なことに気付いていればよかった。そうすれば、こんなに深く傷つく事はなかっただろう。
　いや、ＰＣが家にこなければ、私は相変わらず、夫という世界の中でだけで、生きていったのかもしれない。閉ざされた空間であっても、壁に気付きさえしなければ、閉じていると思ったりはしない。
「本当に、彼はいないの？」
「ええ」
　彼女の声は、涙声になっていた。ズルイね。先に泣くなんて。
「でも、携帯も出ないのよ。もしかしたら、事故にあってるとか…」
「それなら、それで、警察から連絡があるでしょう。わかったわ。とにかく何処からにしても、連絡があったら、貴方にも知らせるわ」
　私は、彼女の電話番号を控えた。家だけでよかったのに、携帯まで無理矢理聞かされた。
「じゃ、お願いします。すみません。ご迷惑かけて。でも、やっぱり…」
　最後の言葉は、聞き取れなかった。彼女は言いながら、電話を切ってしまったのだ。
　やっぱり、なんだと言いたかったのだろう。やっぱり恐い人だと？　やっぱり愛人はいけないとか。まさか。
　私は、彼女の電話暗号を書いた紙を、綺麗に引き千切った。私は、馬鹿なのかもしれない。夫はいつも、私のとこをそう言っていたから。でも、わざわざ愛人に連絡してやるほど、私は御人好しじゃない。

＊ ＊＊

　気がつくと、部屋は暗くなっていた。モニターが明るいから、こんなに暗くなるまでわからなかった。私は、立ち上がり電気をつけた。蛍光灯の下で、部屋は一瞬廃墟のように見えた。ＰＣでさえ、まるで太古の遺物であるかのようだった。
　モニターの中の向こうの『世界』で、ハンドルネームだけを知っている誰かが、私を待っている。その人は、嘘っぱちの「私」の人生を親身になって励ましてくれている。特に今日は、さっきの電話でささくれ立っていた私なのに、そのせいで暴言を吐き続けていた「私」なのに、親切に丁寧に慰めてくれた。
　それには感謝する。
　でも、私の求めているのは、慰めではない。
「ＲＩＫＡ>もっと自分に正直になればいいのよ」
「さくら>でも、その勇気がないの」
　チャットの文字が、表示される。ＲＩＫＡはタイプが早いけれど私は遅いから、どうしても私は簡単な返事だけ入れるようになる。それは、微妙なプレッシャーだ。
「ＲＩＫＡ>勇気って、バンジージャンプするよりは簡単じゃない？（笑）次元が違うかもしれないけど、本質的なものは一緒だと思うよ」
「さくら>そうかもしれないね（笑）」
「ＲＩＫＡ>そうだよ。大丈夫。本当に必要な時には、ちゃんと勇気が出せるように、人間ってなってるものだから」
「さくら>そうかな？」
「ＲＩＫＡ>そうよ。絶対」
　だんだん、馬鹿らしくなってきた。ＲＩＫＡの理想主義に私は辟易してきた。どうしたんだろう。この間まで、彼女とのチャットはとても楽しかったのに。私が変わってしまったのだろうか。私は、これ以上続けることが出来ないと思った。
「さくら>ごめん、ＲＩＫＡ
　　　　　お客が来たみたい。落ちます。またね」
　私は、接続を切った。
　又、メーラーを開けた。来ていた十通のメールの中に、さっきと同じものがあった。
「お前は嘘つきだ」
　そんな風に責められても、私にはどうすることも出来ないのに。確かに、ネットでは嘘ばかりだし、愛人の電話番号も破って捨てた。でも、そもそもの原因は夫なのだ。夫が、愛人なんか作るから。夫が、私を一人ぼっちにしておくから。夫が、私の自我を摘み取ってしまったから。私は、語るべき自分を持たず、だから夫を奪われ…。
　悪循環とはいえ、上手く回るものだ。
　空腹を感じた。
　私は、ネットを繋ぐとピザの宅配を頼んだ。
　ふと、今日は誰にも会わなかったなと思う。
　洗面所に行く。注文はネットでも出来るが、持って来るのは人間だ。いくら、ピザ屋の店員でもこんな顔も洗ってない髪もといてない状態で顔を会わせるのは、気の毒というものだ。私は洗面台で顔を洗った。顔を上げると、鏡の中に陰気な女が映っていた。自分の顔だとは思いたくないぐらい酷い表情だった。目の下の隈が目立つ。肌も乾燥してがさがさしている。
　私は服を脱いだ。どうせピザは３０分かかるのだから、シャワーぐらいさっと浴びられる。
　浴室の引き戸を開けた。
　夫がいた。
　夫は浴槽の中にいた。
　四角い浴槽に綺麗に納まった夫は、不思議と穏やかな顔をしていた。血の気がなくなった顔は灰色をしていて、まるで彫像のようだ。確かベージュ色だったセーターが、どす黒い褐色に変わっている。その胸の真ん中には、包丁の柄が突き刺さっていた。夫はその柄を大事そうに両手で握っていた。
　体当たりの一撃は、上手くいき過ぎた。
　そんなつもりはなかったのだ。でも夫が包丁を持ち出した私を、馬鹿だと言うから、身の程をわきまえろなんて言うから、ついやってしまった。
　上手くいくなんて思ってなかった。今まで、何一つとして上手くいった試しがなかったから、失敗するとしか思っていなかった。上手くいった後のことなんて少しも考えなかった。
　私は、夫の額に触れる。夫の鼻に、唇に、指先をあてる。夫の身体は冷たいけれど、その冷たさは以前のように私を傷つけたりはしない。
　今、私は幸せだ。
　私は、夫との繋がりを感じている。

＊ ＊＊

　箱の中で、私は叫び続ける。
　でも、聞いて欲しいのは、夫だけだった。そして、決して聞いてくれないのも、夫だった。
　『世界』は、閉じている。  

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