＃１　7,oct 3:20pm

　私の嫌いな人は、私を名前で呼ぶ。
　いや、それは正確ではない。私を名前で呼ぶから、私はその人を嫌いになる、というのがきっと正しい。でも、そんなことはどうでもいいことだ。嫌いな人が私を名前で呼ぶ、という現実の前で、その原因を探ったところで何も変わらないのだから。
　テレビの中では女優とアイドルが今夜から始まるというドラマの話をしていた。そうか、もうそんな時期なんだな、と私は思う。その思いは軽い痛みを伴っている。そして痛みは名前への嫌悪をいっそう駆り立てる。
「ハラへったなあ」
　と、眠っていた彼が伸びをしながら起き上がり、テレビのヴォリュームをあげた。
「……実際、里見さんには同じ年頃のお嬢さんがいらっしゃいますね」
　キャスターの声が鳴り響いた。女優は微笑み、
「ええ、高校２年生、１７歳です」
　と答えた。
「御自慢のお嬢さんなんでしょうね。デビューの予定とかは、ないのですか」
「いえ、地味な子なので、本人にその気がないみたいですね」
　女優は笑っていたけれど、目が冷ややかになっていた。彼女は、目の前の人間が自分以外に興味を示すと、プライドを傷つけられたと感じる人なのだ。
「私はとても幸せなんです。仕事で、私生活で、まほちゃんと麗奈という素敵な娘に恵まれて、本当に感謝していますわ」
　女優の大袈裟な言葉に、もう６年も彼女の娘役を演じている、アイドル鳥居まほは、頬を紅潮させた。こういう絵は、高感度が高いのだろう。そして視聴率は、こういうことで上がるものらしい。
　ばからしくなって、彼の手からリモコンを取ると、電源を切った。
　彼は肩をすくめ、バスルームに行ってしまった。シャワーの水音が響き始めた。ふいに、その音が大きくなり、
「サトミ。サトミもおいで」
　と、彼が呼んだ。
「うん、いく」
　私は、立ち上がった。
　私の名前は、里見麗奈（さとみれいな）という。ふざけたシロモノだ。私を「麗奈」と呼ぶのは、学校の教師の何人かと付き合ってしばらくたってずうずうしくなった男と、さっきの女優だ。
　私は、彼女を憎んでいる。そして、原因もはっきり知っている。それは彼女が、麗奈と名付けた張本人であり、何よりも私の母親だからだ。


  　　

＃2　9,oct  6:45pm

　父は、別れた女房のパネルを、それもヌードの奴をオフィスに飾っている。
　いくらそれが父の出世作だとしても、私には悪趣味にしか思えない。確かに、写真としてはいいものなのだろう。２２歳の母の裸身は完璧なバランスで、ただ無防備に立っているポーズなのに全身から光を放っているようだ。引き結んだ唇と、射抜くような瞳の輝きが、とてつもない意思の強さを感じさせていた。写真の中の彼女は、女王だった。
　父がこの写真で成功を手にしたように、綺麗なだけのアイドルだった里見今日子も、この１枚で女優へのステップアップに成功したのだ。
　もっとも、それに付随してきた結婚、出産、離婚、という過程は、彼女には計算外のことだったのかもしれない。
　父がこれを撮らなければ、私は生まれなかった。運命を操るものの存在を、私はこれを見る度に思う。
「サトミ」
　思いっきりセンチメンタルに浸っていたので、父が入ってきた瞬間、身体が震えた。気付かれないように笑って振り返ったけれど、頬の筋肉が引きつっていた。
「撮影が押してしまって、遅くなって悪かったね。今日はどこへ行こうか？」
　私と父は、月に１回会うことになっている。それが、離婚の時の条件だったらしい。でも、それをどちらがどういうニュアンスで言い出したのか、私は知らない。知ればきっと傷つくだろうと、１０歳にしてわかっていた。
　ともあれ、近頃は食事をするだけになってしまったけれど、母親が不誠実な分、父は役割を果たしてくれている。でも、これが父の限界なのだ。彼に月に１度の父親以上の責任を負うことは無理だ。
　今日は、やたらセンチメンタルになっている。
「学校には、きちんと行くんだよ。最近、行ってないそうじゃないか」
　父は、苦言を呈するというのが、父親の役目だと思っているらしい。けれど、それ以上叱咤したり脅したりなんかしないから、なんの効力もない。だからといって、無視するのも気が引けるので、娘の役割として私は反省しているような表情をして見せる。
　今夜の店はオフィスの側の小料理屋で、目の前には肉じゃがとか飛竜頭とかが並んでいる。父も歳を取っているんだな、と思う。２、３年前までは、圧倒的に焼肉だったのにね。
「とりあえず、学校に行くだけは行って、出席が足りなくて留年なんか、格好悪いだろう」
　私は、笑ってうなづいた。
「大袈裟だよ。ここんとこ、体育大会とか遠足とか、そういう行事が多かったから、さぼっちゃっただけだよ」
　父の秘書の娘が同じ学校に通っている。その娘が、私のことを一々母親に言い、それが父の耳に入るという、伝達としては最悪のパターンだ。もっとも、ちゃんと行かない私が悪いと言えばそれまでだが。
　その秘書も、娘も、私を「麗奈」と呼ぶ。
　大嫌いだ。バツいちの秘書は、父との再婚を目論んでいるようだけど、思うようには絶対させない。
「それと、水口圭とは、まだ付き合っているの」
　ちょっと急だったから、食べていた湯葉巻きがむせた。どうして知っているのだろうと、咳き込みながら考えた。もしかして、写真週刊誌からリークされたんだろうか。
「お付き合いさせてもらってるよ」
　開き直って言ったけれど、何か問題でもあるの？って具合に、目に力を込めた。
「好きなの？」
「好きだよ」
　父は、小さく息をついた。
　圭は、ロック系のボーカリストだ。昔は、バンドで活動していたけど、今はソロで仕事をしている。バンド時代に一生生活できるぐらい売れたらしいけど、そういうことに疎い私は、父のオフィスの新年会で始めて会った時、アパレル関係の御曹司なのだろうと思い込んでいた。そんな風に、お互いがお互いのことを、へんに知らなかったのが良かったのか、なんとなく付き合い始めて、１年近くになった。
　父は、もの言いたげな表情をしたが、言葉にはならないようだ。
「写真週刊誌と、淫行条例には気をつけるから」
　気をきかせて言ったつもりだったけど、どうやら違ったらしい。父の苦い表情が更に険しくなった。大人には、こういうブラックジョークが通じないから疲れるよ。
「君は、芸能人が嫌いだったよね。それに彼は、３０過ぎじゃないか」
「３４歳だよ」
　そんなことが問題じゃないのはわかっていたけれど、一応突っ込んでおいた。父は、わかっていない。どれだけ、私の世界が狭い閉鎖されたものであるかが。その窮屈な中に、親とそれに付随する世界がどれだけ強引に押し入っているかが。
　普通の家庭に育ったなら、圭と付き合ったりしてなかった。   　　

＃3  15,oct  9:03pm

　家の中に常に他人がいると、やたら愛想がよくなるか、反対に無関心に徹するか、どちらかだ。私は、間違いなく後者だ。でも、血の繋がりのある他人がいれば、そうならざる得ない。私は、傷つきたくなかった。ただ、それだけだ。
　玄関には靴が溢れ、リビングからは喧騒が響いていたので、私はそのまま二階に上がった。何が可笑しいのか、壁越しに天井越しに母親の笑い声が聞こえている。
　と、ドアがノックされた。
　返事をすると、康子さんが顔を覗かせて、
「お帰りなさい。食事、持って来ましょうか」
と、聞いた。私は首を振った。
「着替えたら、キッチンに行きます」
　康子さんは、支度しますねと言って、部屋を出て行った。
　私は、わからなくなる。食事や洗濯や参観日に行くことが母親の役目なら、私の母親は康子さんだ。でも、彼女は住み込みの家政婦であって、私とは他人なのだ。では今、階下で沢山の取り巻きに囲まれて笑っている人は、本当に私の母親なのか。
　考えると滅入るだけだ。滅入ると、自分だけを責めてしまう。大人はずるい。間違っていることを知っていても、それを正当化する理屈と言葉を振りかざして切り付けて来る。
　台所の隅で、一人で、向こうの部屋の馬鹿騒ぎを聞きながらの食事は、何かの罰なんだろうか。
　食事を終えて、キッチンを出たところで、母親と出くわした。かなり酔っているらしい。若い、２０代後半にしか見えない男に支えられるようにして、なんとか立っている。ミッドナイトブルーのドレスに紅潮した肌の色が鮮やかに映えている。娘が見ても色香を覚えるのだから、母親の若い恋人は当然欲情しているのだろう。
「麗奈。元気だった」
　これが同じ家に住んでいる親子の会話だなんて、情けないよ。
「あんた、ドラマ見た？初回視聴率がすごくてさぁ、皆で祝杯上げてるの」
　よかったねとか、言えばいいんだろうけど、もう私にはそんな余裕はない。母親はいつものように、私の返事も反応を気に止めず、自分の言いたいことだけを話す。ドラマのストーリーにおける自分の重要性とか、取材に来た週刊誌のおべんちゃらとか……。いい加減にしてあげないと、恋人が困った顔になってるよ。
「……麗奈、誰と付き合おうと、あんたの自由だけど私の足引っ張るようなのはやめてよ」
　何の脈絡もなかったので、何のことを言っているのかわからなかった。
「もし、写真でも撮られたら、あんたと彼の問題だけじゃなくなるんだからね」
　一瞬、怒りで頭の中が真っ白にスパークした。
「でも、３４歳だって。あんた、ファザコンなの？」
　掴みかからなかったのは、鳥居まほが姿を見せたからだ。きっとすごい顔をしていたのだろう。鳥居まほは、私を見て驚いたような表情をした。でも、次の瞬間には何もなかったように、
「今日子さん、ここにいたんですか。皆待ってますよ。ねぇ、行きましょう」
と、甘えるような優しい声で言った。母親は美しい笑みを見せる。ドラマの中の虚構の母娘なのに、現実よりも本物らしく美しいなんて、皮肉だとしか言い様がない。
　私は２階へ上がった。
　用事がないから２階へ上がっただけなのに、何故か逃げ出したような気がしていた。  

　＃4　 23,oct  2:56pm

　頭を冷やそう。
　しばらく父の所へ行くと言って、圭のマンションに転がり込んだ。マンションは高校の近くで、ちょっとマズイかなと思ったけれど、私の行く場所なんて他にはない。
　本当は、父の所へ行くべきなんだろうけど、父の気の使い方が気の毒で行く気になれない。私の為に、仕事をずらしたり、デートの約束を反故にしたり、そういうことが積み重なっていくと、私の存在が父に犠牲を強いてるように思えてくる。
　圭ならいい。彼は、私がいようといまいと、自分のペースを崩さない。だから、私も猫のように寛いでいられる。
　レコーディングが佳境に入っている彼は、規則正しい完全夜型生活になっている。いつも私が朝起きる頃に帰宅して、学校が終わって帰った頃に出掛けて行く。
「ＣＭするんだよ」
　土曜日で、彼は朝食を、私は遅いめの昼食を食べていたら、彼が笑いながら言った。
「曲だけかと思ってたら、俺も出るんだって」
「何のＣＭなの？」
　聞くと、彼は首を傾げた。
「よくわからないんだ。関心ないし、任せてるから」
　親の、特に母親の仕事に一喜一憂する様をずっと見ていた私には、彼のそういう鷹揚さが最初信じられなかった。それから、視聴率とか好感度とか、そんな実態のないものに振り回されて躍起になっている母親が憐れに思えるようになった。
　けれど、そう思うのは一瞬だけだ。
「でもさ、共演者は知ってるんだ」
　彼は、ちょっと間をあけて言った。
「里見今日子」
　まるでパブロフの犬だ。名前を聞いたとたん、身体が強張る。
　彼が、私の手を取って握り締めた。
「マスコミに出るのはもう少し先になると思うけど、サトミには誰からどんな風に聞かされても穏やかじゃないだろう」
　彼の手の温もりに、身体の緊張が緩んでいく。彼の優しさに、目が潤んでくる。
　私の母親への憎しみを受け止めてくれたのは、彼だけだった。どうしようもなく憎んでいることを責めずに、かといって肯定もせずにいてくれたのは、彼だけだった。
　例え、それが年齢からくる狡猾さであったとしても嬉しかった。
　ここに、私の場所がある。   　　

＃5   31,oct   8:15pm

　いい時は長く続かない。
　２週間ぶりに着替えを取りに帰ったら、康子さんが青い顔で待ち構えていた。
「どこにいたんですか。心配して…」
　父の所へ行くという嘘は、次の日に父が電話を掛けてきていて、直ぐにばれていた。
「そんな、嘘までついて」
　康子さんはだんだん涙声になっている。さすがに悪いことをした気分になった。康子さんはいい人だ。誰よりも、私のことに親身になってくれる。そして、私をここまで育ててくれた。そんな人に心配かけたり、悲しませたりするなんて、私は犬にも劣る。
「ごめんなさい。でも、男の所へ行くなんて、言えないでしょう」
　私は、唇を噛む。どうして、もっと素直になれないのだろう。
　康子さんは、驚いた顔をして私を見た。私の中に、里見今日子をダブらせているような気がした。
　私は、彼女のようないい加減な男をとっかえひっかえするような女じゃない、と言いたかったけど、人から見れば大差ないことなのだろう。実際、圭の前の彼氏達は長くて５ヶ月ぐらいしか続かない上に、終わって１ヶ月ぐらいしたら次の彼氏がいた。いくら、子供同志の交際だとしても、表面上は母親と同じなんだ。
「彼の所へ行くにしてもです。ちゃんと、私には所在を正直におっしゃって下さい」
「はい」
　うなづくと、康子さんは私の頭を子供みたいに撫でた。私は微笑んだ。康子さんも笑っていた。そんな風に優しくされると、思わず、「お母さん」って呼びたくなってしまう。
　康子さんに言われたので、父に電話した。
　結局、父はだしにされたことに怒りを覚えているのだろう。表面上は私のことを心配しているけれど、根底にあるのは父の自己愛であり、自尊心を傷つけられたという思いだ。この自己愛というやつが、多分、父と母親と私との唯一の共通点なのだろう。だから、二人は子供を持つべきではなかったし、そんな家族から抜け出した父の選択は賢明だった。
「とにかく、こんなことは二度とないように。水口圭の所へ行くなら行くで、ちゃんと言って行きなさい」
　理解のあるところを見せ様としているのだろう。でも、それは逆効果なんだよ。
「ごめんなさい。今後、改めます」
　そうやって公認になっていくということは、新たな囲いが出来るということなんだ。私がまだ１７歳だからいいけど、もし２０歳だったら結婚しろとかって迫ってくるのだろう。
　嫌な感じだ。
「大体、２週間も帰らなくて、今日子は一体何をしていたんだ」
　私がとりあえず謝ったことで、父の怒りの矛先が変わった。
「さあ、知らない」
「知らないって。康子さんは？　そこにいるんだったら、ちょっと代わってくれ」
　そこにいたわけじゃなかったけど、私は受話器を康子さんのところまで持って行って渡した。
　聞く気はなかったけど、康子さんの短い「はい」とか「いいえ」とかの返事で、母親が何も知らずにいたことがわかった。きっと、２週間家にいなかったことすら、気付いていなかったのだろう。   　　

＃6　7,nov  12:40pm

　「麗奈」というのは、母親が昔飼っていた猫の名前だ。
　私が生まれる少し前に死んだその猫の墓は、今も庭の隅にある。母親は、いわゆる月命日には必ず線香を立てキャットフードを供えている。
　つまり、母親にとって「麗奈」はそれ程かけがえのない存在だったということであり、そして娘は同じ名前を付けるぐらい愛しんでいるということらしい。
　猫と娘を同じレベルで考えること自体おかしいのに、母親はそれを変だとは思っていない。
　小学校の時、自分の名前の意味を知りましょうという授業があった。両親が離婚する前だったから、３年生だった筈だ。
　「麗奈」の話はよく聞かされていたけれど、漠然とした違和感があって、私は適当な話で誤魔化そうとした。が、担任が母親のファンかなんかで「麗奈」の話を知っていて、それを授業中に言ってしまった。私は恥ずかしかった。そして、惨めだった。自分は猫ぐらいの存在でしかないのかと思った。
　私は、名前も自分自身も好きになれない。
　離婚が成立して、姓が里見になって少し安心した。同じ小学校の子がいない中学に進んで、息がつけた気がした。それが、芸能人の子供やタレントやチャイドルばかりの学校でも良かったのだ。私の名前を、私が猫並みの存在だということを知らない人達が、私には必要だった。
「サトミ、これ見てみなよ」
　昼休みにクラスメイトが差し出した週刊誌には、母親の名前が大きく出ていた。どうやら、バッシングされているみたいだ。
「サトミも大変だね」
　彼女は親身な表情で言った。
「こういうのって、こじれると面倒なんだよ。うちなんて裁判沙汰になっちゃってさ。なんで、ああも大人気ないんだろうね。弱い犬ほどよく吠えるって奴なのかねぇ」
　不幸なのは、私だけじゃない。親達が華やかである分、子供達にしわ寄せが来ている。離婚や家庭内別居や不倫や隠し子や、そういったことがごく普通にここには存在している。家庭が崩壊しているのに、カメラに向かって理想的な家庭を装わなければならない彼女に比べれば、私なんて、ましな方だ。
　怒りを押さえる為に数を数えるように、私は自分自身を見捨ててしまわない為に、私より不幸なクラスメイトを数える。
「この週刊誌、今日発売なの？」
「うん。今頃、荒れてるかもね」
　私は、シニカルに笑った。
　人生も捨てたもんじゃないと思える日が来るかも知れないなんて、これっぽっちも信じられない。   　　

＃7  8,nov  2:06pm

　酒も、薬も、男も、本当の救いにはならない。
　母親は身を持って、それを教えようとしているのだろうか。   　　

＃８　12:nov   2:06pm

　母親の最低の気分は伝染する。でも、母親はそれをマネージャーや付き人やありとあらゆる周囲の人間を巻き込んで発散することができるけれど、私には発散する場がない。それは、ワインの中の澱のように、私の中に沈んでゆき積み重なっていく。
　ﾋﾞﾃﾞｵを見る。
　どうしようもなくなって、もう息をするのさえも辛くなると、私はそのﾋﾞﾃﾞｵを見る。
　ハワイの絵の具を搾り出したような青空の下で、４歳の私と父と母親が笑っている。それは、１時間半のまるでプライベートのように撮影された旅行番組だった。画面の中で、両親はいつも笑顔で仲が良く、私は愛されて育った子供のように両親にじゃれつき無邪気に笑っている。
　きっと、何もかもが上手くいっていい時だったのだろう。
　１時間半の間に、私は安堵し微笑み切なくなり滅入り、そして失望する。それでも、心は平静になるのだ。苛立ち憎んで荒んでいるよりも、失望と共に平静であることの方がずっといい。
　私は、あの無邪気さと何を引き替えにしたのだろう。
　たった１７歳で、過去を懐かしんでいる自分を、私は嫌悪する。ちょっと辛いからとﾋﾞﾃﾞｵを見てしまう自分の弱さに怒りを感じる。諦めきれない自分の執着が醜いと思う。
　私は、誰に何に、答えを助けを、請えばいいのだろう。
　それだけでいい。教えて欲しい。   　　

＃9　　15,nov  7:00pm

　今月は、四川料理だった。
　私は、もともと油っぽいのは好きじゃないし、辛いのも苦手だった。けれど、この店は完全に小部屋に仕切られているから、父は人に聞かれたくない話をする時には、いつもここを使う。
　だから、ここに連れて来られた瞬間、最近の自分の行動を思い返してみた。でも、人目を避けてまで言わなければならないことなんて、思い付かない。むしろこのところは、とても真面目な生活を送っているのだ。
　まさか、再婚するなんて言うつもりなんだろうか。
　料理が運ばれて来るのを待つ間、ゆっくり、でも同じペースでビールを飲んでいる父を見ていた。再婚して私との関係を断ち切るつもりなんだろうか。表現としては、何も変わらないと言うのだろう。でも、現実は違う。一緒に住む家族ができれば、側にいない者はただの血縁でしかなくなる。多分、父はそこのところがわかっていない。
　一緒に暮らして、互いに思いやっているから家族なのであって、私と母親のように一緒に暮らしていても、ただの血縁になることだって可能なのだ。繋がりを絶つということは、とても簡単なことなのだ。
　料理が来ると、父はクリスマスに何が欲しいかなんて、呑気に聞いた。私はすごく緊張している。心臓の動悸が耳元でしているように聞こえる。
「やっぱり、グッチとかがいいのかな。カルティエやティファニーは、遠慮してくれよ。そういう類は彼の方に請求しなさい」
　父は笑い、オフィスの若い子が揃ってカルティエのブレスレットとリングをしているのを、可笑しそうに話す。
「たまたまなのに、よっぽど流行っているんだなって、思ったよ。まるで、社章のようだったからね」
　どう受け答えすればいいのかわからない。食事に集中しようとするけれど、胸がつかえて飲み込めない。
　そんなに、私は父にも捨てられることを恐れているのだろうか。
「でも、何にしようか？　もう、ぬいぐるみがいいってわけじゃないだろう」
「考えて、連絡する。今は思い付かない」
　こんな生殺しのような会話に耐え切れなくて、きつい口調で言った。父の表情が瞬間硬くなる。お願いだから、そんな表情で脅かすようなことをしないで欲しい。感情全てを完全にコントロール出来なければいけないなんて勝手に思わないで。
　父は硬い表情のまま、鞄を探っている。再婚相手の写真でも見せるつもりなんだろうか。見たくなんかない。言う言葉もない。指先が、嫌になるぐらい冷たいよ。
「これ、今朝のスポーツ新聞なんだけど、見たの？」
　父の取り出した紙面には、母親と圭の名前が大きく出ていた。予想外の展開に私は戸惑う。
「見たの？」
　首を振る。記事は、新しいＣＭについてだった。圭が、誰にどう聞いても穏やかじゃないだろうと言ったけれど、その通りだ。さっきまで冷たかった指先が、今度は燃えるように熱い。
「そういうのは、あおりって言って、話題作りの為に故意に書かせてるんだからね」
　記事は、ＣＭが官能的であることから、二人を恋人同志であるかのように書いてあった。写真の中で、母親は極上の笑みを浮かべていた。誰もが瞬間に虜にされると言われている微笑だ。
　確かに、こういう記事だとダメージが大きい。
「何かと大袈裟だし、何もない所から出してくるんだから、お前は何も心配することはないんだよ」
　父にそんな風に言ってもらわなければ、声を上げて泣いていたかもしれない。
　私は、父の思いやりに感謝すると共に、父の愛情を疑った自分を恥ずかしく思った。  

　＃10　　16,nov  1:00am

　私には、男の生理はわからない。
　精神の高揚が、性欲に繋がっているのはわかる。けれど、それには一貫性というものがあるようには思えない。肉体的な疲労の間にも、関連性があるとは感じない。
　今夜は、ちょっと性急だった。それは、さっきのライブに関係あるのだろうけど、満足しているからなのか、歯痒いからなのか、私にはわからなかった。
　どっちにしろ、私に男の生理がわかるわけがなく、わかったところで何も変わりはしないだろうと思う。大体、女の生理だって、個々で全く違うもので、たいして参考になるものじゃない。
　結局は、自分の生理だけで、手一杯なのだ。自分の肉体と精神と、そのバランスを取ることに必死で他人の事にかまっていられない。
　そんなことを寝た後に思ったりする私は、圭の恋人としては最低なのかもしれない。
　圭が、音を消したテレビの画面をくるくると変えていく。音が無いと、画面の中の俗っぽいのも残酷なのも偽善的なのも、皆現実味がなくて許せそうな気がしてくる。でも、そうやって現実感が乏しくなっていくと、肌が触れ合っている彼の存在さえもだんだん希薄になっていく。
　私は怖くなって、彼にすがりついた。
　彼は快感を得、私は安心を得る。とても同等な関係だと思っている。誰も、全てを差し出したり全てを奪うことなんて出来ない。自分の欲しいものと提供できるものと、それがはっきりしていてバランスがとれていることが大切なのだ。愛とか、恋とかの曖昧な感情に振りまわされるのは、うざったい。
　彼が、私の乳房を弄び始める。
　でも本当は、同等なんかじゃない。あのスポーツ新聞の記事に狼狽えながら、それを彼に問うことができないのだから、私達が本当に同等の感情であるなんて言えない。
　私のバランスを崩させたのか、１００％圭であればよかったのに。こんなことまで、母親の影がさしてこなければよかったのに。   　　

＃11　　28,nov  10:17am

　このまま付属の短大に進むべきなのだろうか。進路希望の空白を見詰めて、溜息をついた。
「地方の学校行くのはやめときなよ」
　ふいに、前の席の子が振り向いて言った。
「地方は芸能人珍しいから、子供だからっても容赦ないってさ。しかもサトミは、お母さん似だから、余計大変だよ」
「御忠告、ありがとう」
　私はふざける様に答えた。又溜息が出る。
「いっそさ、デビューしちゃったら」
「無茶言わないでよ。私なんかが、芸能界に入れるわけないでしょ。そんな話、出たことないんだから」
　私の言葉に、彼女はちょっと驚いた顔をした。
「うそー。里見今日子のところに、色んなプロダクションが娘さんを預からせてくれって言ってるって聞いたよ。里見今日子が娘を出さないのは、出し惜しみして契約金を上げるつもりだって」
　一応こっちの母親なのに、守銭奴のように言う。もっとも、言われたことが、あまりに意外で何も言えなかった。彼女の親はワイドショウのリポーターをしているから、そういう話の信憑性はかなり高い。私には、そこのところが気に入らない。
　芸能界に入りたいなんて、母親を見ているとさらさら思わないが、何故母親がそんな小細工をしているのかがわからなかった。わからないが、それなりに不快感があった。
　進路希望は、空白のままだ。
　どこかに、母親と「麗奈」の呪縛から逃れられる道がある筈なのに、私にはどれも否定的に感じられる。   　　

＃12　　6,dec  5:30pm

　父が、クリスマスプレゼントを買ってやるというので、デパートで待ち合わせた。
　何にするか、思い付かなかったけれど、こうなると仕方ないから、服にでもしておこうと二人でＤＣブランドのコーナーをぶらついていた。でも、父は服にこだわりがあるらしい。さっきから、あれは色のバランスが悪いとか、ラインが死んでるとか、ぶつぶつ言っている。失敗だったなあと思ったけれど、今更急変する訳にはいかないだろう。それこそ、そういう気紛れなところは母親に似ているとか、言われるに決まっている。
　ふいに、私の幼い頃の写真、七五三や入園式や入学式の服を決めたのも父だったのだろうかと思った。そんなこと、どうでもいいことだけど。
　父がこれがいいと言うブランドは贅沢過ぎるから、無視して行こうとした瞬間、母親の名前が目に入った。立ち止まってしまったので、父もそれを見つけた。
　ショップの中央に飾られたスーツには「里見今日子が着用（先週分）」と大きく貼られていた。
　二人で、何故かそれに見入ってしまった。
　スーツは淡いアイスブルーで、シンプルだけどかなりウエストを絞ったシルエットをしていた。襟元のブルーの濃淡の鮮やかなスカーフが、一層華やかな印象にしている。
　こうやって、ドラマの中の衣装が店頭に並び、アピールに使われているということは、ドラマは高視聴率をあげ、母親は支持されているということなのだ。では、あのバッシングは何だったのだ？　転んでもただでは起きないなんて、彼女の為にあるような言葉だ。
「青、っていうのは、一番波長が短いんだよ」
　突然、父が言った。私は何の事かわからないから、何も言えない。
「波長が短いから、一番遠くまで届くんだよ。他の色が届かなくなっても、青だけは届くんだよ。だから、空も海も、青いだろ。それは他の色が、そこまでたどり着けないからなんだ」
　父が、どうしてそんな話をしたのかわからなかったけど、父の言いたいことはわかるような気がした。でも私は、父と母親の間にあったことを全部知っている訳じゃないし、これからも知らないから、わかるのはその雰囲気だけなのだ。
「行こう」
　父は、私の腕を掴むと、半ば強引に歩き始めた。
　その後、父は無口になってしまった。機嫌が悪いというのではなく、ただ黙ってしまい何か別の事を考えているようだった。
　父は一人になりたいのだと思うと、私はたまらなくなった。そのまま、もういいよって別れたらいいのに、それはそれで父を傷つけると思うと出来ない。胃が、疼いてくる気がする。
　なんとか、セーターを買った。それが限界だった。食事に行こうというのを、胃が痛いからといって断った。
　父の側から逃げるようにタクシーに乗り住所を告げると、やっと息がつけた。後を見やると、まだ見送っている父が小さく見えた。
「いいねえ。あのおじさんと、援助交際してるの？」
　私には、タクシーの運転手の無礼な言葉に反撃する気力も残ってなかった。（でも、苦情用のハガキを持ち帰って出しておいた）   　　

＃１３　　10,dec  1:00am

　「…現在、電波の届かない所にあるか、電源が入ってません」
　受話器を戻しながら、どっちなのか考えた。電池が切れているということもあるが、圭の居場所がわからないと一番困るのは圭の事務所だから、そういうバックアップは完璧にしている筈だ。
　別に、携帯が繋がらないことは珍しいことじゃないのに、今夜はちょっと嫌な感じがした。
　そういうのを妄想と言うんだよと、私は自分に忠告してやる。それに、もし今妄想した通りのことが起こっているとしても、私に何ができる？　どうせ私には何もできやしないし、彼の周囲の女性の誰と比べても所詮勝ち目なんかないのだから、クールでいることだ。そうやってクールでいることが、一番自分らしい。
　もう、忘れて眠ろう。   　　

＃１４　　15,dec   3:14pm

　熱っぽかったので、早退して帰った。
　家は、不思議と人の気配がなかった。康子さんがいないからだ。その空虚な感じが怖くて二階に上がろうとした時、小さな声が聞こえた。空耳かと思った。が、音の伝わった余韻に空気が震えているのが首筋に感じられた。
　私は耳を澄ませた。
　そして、玄関からリビングに入った。又、声がした。それは、さっきより大きかった。私は引き寄せられるように、母親の部屋へ通じる廊下へ向かった。サンルームを兼ねている廊下は、満開に咲いた冬薔薇の濃い甘い匂いに溢れていた。その匂いが、何故か怖い。
　いや、怖いのは匂いじゃない。何か別のものが怖いのだ。何なのか、わからないけれど。これ以上近づいてはいけないと、本能がけたたましく警告を発している。
　声が大きくなる。そして、何の声なのか気がついた。
　どうして、そこで引き返さなかったのだろう。どうして、そのまま廊下を進み、母親の部屋のドアを開けてしまったのだろう。
　ドアはちゃんと閉められてなかったので、ノブを回さなくても静かに開いた。昔の外国映画に出てくるような天蓋のついた大きなベッドで、母親が男と性交していた。
　男の顔は見えなかったけれど、私には誰かわかっていた。その肩も背中も指も、私がよく知っているものだった。
　これは悪い夢なのかもしれないと、御決りのように思った。身体が硬直して声も出なければ、動くことも出来ない。そうか、人間は強いショックに対してこうやって自分を守るメカニズムを持っていて、ちゃんと作動するものなんだな。
　と、母親がひときわ大きく叫んだ。そして終わった。
　余韻に微笑んだ母親が、やっと私に気付いた。でも、その微笑みを崩すことも、慌てて身体を隠すこともしなかった。
「サトミ」
　圭が気付いて声を上げた。ベッドから出ようとするのを、母親が優しく手で押し留めた。圭が私を見ているけれど、私は母親から目が離せなかった。
「残念ね、麗奈。彼はあんたより、私を選んだのよ。わかったでしょ。わかったら自分の部屋へ行って勉強でもしなさい」
　母親は、何故か勝ち誇ったような顔をしていた。私は辛い。男を取られたことより、母親にそんな顔をされることが、身を切られるように辛い。
「なによ。文句でもあるの。あんたの価値なんて、若いだけだったのよ。そんなものには、何の意味もないの。彼の選択は正しいのよ。所詮、あんたはそれぐらいの女でしかないのよ」
　ふいに涙が零れた。やっとわかった。彼女は、ずっと若さに嫉妬していたのだ。そしてその対象を自分の娘にまで向けていたのだ。愛される訳がない。彼女には、女は誰もが自分のライバルなのだから。
「さっさと、行きなさいよ。麗奈」
「…私は、あなたの娘なのよ」
　それ以外の言葉がなかった。ずっと、私は里見今日子の娘であることを否定してきたけれど、どうしたって娘をやめることは出来なかった。
「私は、あなたの娘なのに…」
「それが、なんだっていうの」
　母親の言葉に、身体が震えた。私はゆっくりと背を向け、部屋を出た。そのまま、家を出て行った。   　　

＃15　　16,dec   10:50pm

　男と逃げて自分を捨てた母を娘はやっと許した。けれど、病魔に侵されていた母は、娘に見取られてそのまま帰らぬ人となった。
　ドラマが終わった。
　大袈裟な音楽が、流れている。普通だったら、泣くのかもしれない。
　ホテルのテレビは小さくて、それがよかった。私は、ずっと冷静だった。
　明日は、父と弁護士に会う。私は、私なりの方法で自分を守るしかないのだ。   　　

＃16

　何もなかったように振舞うのは、簡単なことだ。
　私は、毎日学校に行き、ひたすら勉強している。酒も薬も男も、所詮慰めにはならない。少なくとも勉強は余計なことを考えなくてもいいし、気を紛らわせてくれる。
　私の親権は相変わらず母親にある。けれど、弁護士は私の沈黙を条件に母親の元にあった私の信託財産を私自身のものにしてくれた。
　マンションは父が手配してくれた。狭いけれど、日当たりだけはいい部屋だ。でも、私はずっとカーテンを閉めたままにしている。私は空を見るのが嫌だった。
　私は、父のした青の話を思い出す。その度に胸が締め付けられる。私は悪くないのだと、言い聞かせても、私は何処かで自分を責めてしまう。この孤独は私への罰なのだと思ってしまう。
　私は、誰かを愛したかった。誰かに愛されたかった。それが、母親であって欲しかった。愛情も憎しみも、あの青以外を拒絶する空のように、決して届かないなんて思いたくなかった。私は、子供でいたかった。
　夜、鏡に向かっていると、私は泣きたくなる。
　鏡の中の私は、少し痩せて、母親によく似ていた。

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