kiss you

   麗な青年だと、絢子はまず思った。
 彼は7人の一番後方で、うつむいて立っていた。斜めから当たる照明が、彼のくっきりとしたルックスやしなやかなスタイルを効果的に浮かび上がらせる。ブラックジーンズに赤いシャツは、さっきのライブの時と同じだ。が、今はうたっている時の少年のような雰囲気はなく、むしろ妙に老成した落ち着いた感じがした。ぼんやりとした表情のせいかもしれない。
 絢子は納得する。
 このアンバランスさが、彼の魅力の源なのだ。多分顔立ちだけなら、リーダーの小諸やベースの立花の方が、よほど端正なものを持っている。でも、彼には人に美しいと思わせる気配みたいなものがあった。人目を引く「華」があった。
「妻の絢子です」
 夫が皆に座るように示しながら、絢子を紹介した。
「どうも」
「今晩は」
 7人がバラバラに言って頭を下げ、ばらばらっと座った。絢子は可笑しかった。ロックバンドで肩につくような長い赤い髪をしているのに、妙にお行儀がいい。リーダーの小諸がお坊ちゃん育ちだからその影響があるのだろう。それとも、今時のバンドはこういうもので、過去の粗暴な不良のイメージは流行らないのだろうか。
 絢子は、肩まで広く衿ぐりの開いたローズレッドのソフトコンシャスのワンピースを着てきたことを少し後悔した。髪も束ねていれば良かった。絢子はロックバンドというものに、無意識の先入観を持っていたのだと思う。
 彼は絢子の斜め向かいに座り、小諸以外のメンバーが緊張した顔をしているのに、ぼんやり小首を傾げるようにして遠くを見ている。二重の大きな目の美しさが際立つ。
 小諸が絢子にメンバーを紹介する。その度絢子はスポンサーの妻に相応しい寛大な笑みを見せたが、興味は湧かなかった。元々、夫が売り言葉に買い言葉で始めたバックアップだ。夫は「事業」として「投資」するのだと言っているが、それは言い訳にしか取れなかった。確かに、さっきのライブは素晴らしかった。よく知らない絢子にさえレベルの高さを思わせるパワーとスピードに満ちていた。だからプロとしてやれるかといえば、それは全く別の問題だ。そもそもデビューできるかどうかだって定かではない。一応デビューまでという約束の夫の「投資」が、夫のポケットマネーですむうちはいいけれど、と絢子は思う。音楽は金がかかる。金と時間をつぎ込まなければならない贅沢な遊びだ。しかも小諸の目指しているらしいマニアックな同期を駆使したものは、質の向上を求めればキリがない。
 やはり子供が欲しかったのだろうか? 絢子は問いを飲み込む。
「あやちゃん、ボーカルの宇津木」
 最後に紹介された彼は、絢子を見ながら小さく頭を下げた。多分ブリーチしているのだろう。赤っぽい長めの前髪がふわっと揺れた。絢子が微笑むと、宇津木は一瞬困ったような顔をした。少年のような表情だ。
 ビールが運ばれてきて乾杯になった。絢子は一口だけ飲むと、ペリエを注文した。
 夜8時以降は基本的に飲食はしない。夜10時以降の飲酒は絶対しない。そうやってストイックでなければ、42歳の肉体は瞬く間に崩れてしまう。そして失ったものを取り戻すには倍の、いやもっと、3倍も4倍もの努力がいる。自分を形作るものは、自分自身なのだと綾子は思う。
 夫は小諸とメインギターの土屋と、音楽談義に夢中になっている。といってもしゃべっているのは小諸がほとんどで、夫は頷いているばかりのようだった。目を輝かせて手振りを交えながら早口に話す小諸は、幼い頃と少しも変わらない。不思議に冷静な計算高いところもだ。対して、土屋は23歳で最年長ということもあるのだろうか、落ち着いて要点を区切るように話す。小諸とは育ちも性格も対照的な土臭い典型的なギタリストの雰囲気を持っていた。
 それは他のメンバーにもいえる。見ていると、土屋のタイプと小諸のタイプに二分できる。さっきからひたすら箸を動かしているベースの立花やサブギターの河野は、土屋に似ている。そしてキーボードの曽根の話に笑っているドラムの松本や宇津木は小諸の雰囲気に近い。
「学生だそうね」
 宇津木がふっと顔を上げた瞬間に聞いた。
「はい」
「何年生なの?」
「3年です」
 緊張しているからという訳ではなく、寡黙なのは性分のようだ。綾子はそれを新鮮に感じた。ここ最近の若い子の自己主張の強さにはうんざりしている。
「3年に上がるまでは、簡単なんだよな」
 やはり学生だという松本が、宇津木に言った。宇津木は頷きながら笑った。
「ウツギの大学、転地したんだろ。お前、行ってるのか?」
 松本のイントネーションは少し変だ。四国の方の出身だからなのだろうか。宇津木が答える前に、曽根が笑った。
「行ってない、行ってない。ウツギ、ここんとこ俺んち入りびたりだもんな。昨日なんか、お袋がマジで宇津木くんは家出でもしたのって聞くんだぜ。俺んちとウツギんちって1キロも離れてないってのにさ」
 曽根の饒舌に、宇津木は笑っているだけだ。
 悪くはないと思う。夫が「投資」するだけの資質を彼等は持っている。
 絢子は苦笑した。
 その判断は共同経営者としてのもので、あくまで事業の採算を考えていた自分を絢子は淋しいと思った。

    週間ほどたった夕刻、絢子は偶然宇津木を見た。
 新店舗予定地を下見しての帰りだ。駅に向かう学生達の中で、ブルージーンズに白いシャツの後ろ姿は思っていた以上に長身だったが、髪型と雰囲気ですぐに宇津木だとわかった。
 絢子は車を止め、クラクションを鳴らした。
「宇津木くん」
 ウィンドから呼び掛ける。宇津木は赤いポルシェの絢子を見ると、あれっという表情をした。それから、
「こんにちは」
 と、頭を下げた。
「偶然ね、こんなところで」
 言いながら、絢子は宇津木の大学がこの近くなのをようやく思い出していた。
「少しは大学にも行かないと…」
 宇津木はシニカルに笑った。
「乗らない? 練習行くんでしょう。送って行くわ」
 絢子はドアを開けた。宇津木は躊躇うこともなく、すっと助手席に滑り込んできた。
「どうも、すみません」
 と、断わるところに、絢子は宇津木の育った家庭を感じた。小諸と同じように大切に育てられたのだろう。温厚な雰囲気は育ちの良さを語っている。
 車が走り始めると、宇津木は車を珍しそうに見回していた。若い子を乗せると大抵こういう反応をする。絢子はそれを楽しむ為にこんな派手な車に乗っているように思う時がある。
「車、好き? 運転してみる?」
 が、宇津木は首を振った。
「俺、免許持ってないから」
 意外な言葉だった。
「珍しいわね、今どき」
「うん」
 宇津木が笑う。
「危ないから絶対取るなって、周りから言われて。それに曽根や小諸が車に凝ってるお陰で、必要性も感じないし」
 うたっている声は高かった。が、今こうして話している声は低く、耳に心地良かった。若い娘がいると場が華やぐというが、若い男でも同じだ。それが綺麗で寡黙ならなおのことだ。
 絢子は楽しくなる。道は適当に空いていて、全開の窓からは風が入ってくる。宇津木の端正な横顔の前で、前髪が揺れている。
「練習、何時からなの?」
 バンドは会社の倉庫を練習場にしている。夫は以前から月に2、3回は見に行っていたらしいが、絢子はまだ行ったことはなかった。送ったついでに見て帰ろうと思った。もう一度、宇津木のうたっているところが見たかった。
「6時からだけど、今日は行かない」
 宇津木は笑いながら言った。
「行かないって?」
「まだ、オケができたないから、行っても仕方ない」
 当然のような口調だ。
「練習、嫌いなの?」
「うん。特にちんたらするのはね」
 絢子は吹き出した。宇津木もつられるように笑う。
「まるで、プロみたいな言い方ね」
「でも、小諸ほど高飛車じゃないよ」
 絢子はアクセルを踏み込んだ。
「じゃ、ドライブでもする?」
「うん」
 宇津木は軽く頷いた。頷き方が自然だったので、絢子は嬉しかった。考えてみると絢子の前でこんなにリラックスしている人を、絢子は久しく知らない。取締役だという肩書きが、多分並よりは上の外見とスタイルが、そして年齢の重みが、常に人に緊張感を与えている。絢子はそれを間違っているとは思わないし、むしろ当然のことだと思う。が、人の緊張感に自分が疲れてしまうのには閉口している。
 宇津木は窓に肱を乗せ、外を見ている。絢子はその横顔に引き付けられている自分に気付きたじろぐ。もっと、もう2、3年もすれば頬のラインもシャープになり、少年っぽさもなくなるのだろう。けれど今、この青さが目立つ未完成の中でさえ輝くものは何なのだろう。
「宇津木くん、3年っていったら21歳?」
「うん、10月になったらだけど」
「そう、丁度私の半分ね」
 絢子はむしろ自分に言い聞かせるつもりで、嘲笑するように言った。
 5月の海はまだ風が冷たい。絢子の長い髪を、ジョーゼットのスカートを舞い上がらせる。橋のイルミネーションは光り、サーチライトを点滅させたジェットが空を横切って行った。
 絢子は車にもたれて缶コーヒーを飲んでいた。宇津木は隣にいる。何もしゃべらない。
 絢子はそうやって黙っていられる自分に驚く。話をするのもさせるのも得意だ。ほとんどその話術だけで、大きな契約を取ったこともある。が、本当は沈黙が恐いだけなのだ。恐いから、間が持てないから話す。話していれば、コツみたいなものが自然身に着いた。
 宇津木は絢子が話しかけても簡単な変事しかせず、自分から話すことはなかった。これも一種の自己主張なんだろうか? 黙っていても、黙っているからこそ、宇津木の強烈なキャラクターが伝わってくる。それも何のカバーもない、生のままの個性が。言葉は弾幕と同じなのだと絢子は思う。そして、それを張らずにいられる宇津木の若さを羨ましいと思う。
 ふと、気付くと宇津木が覗き込むように絢子を見ていた。
「…何?」
 引きつった笑みを浮かべながら身を引くと、宇津木は強い視線のまま、真顔で、
「きれいだなと思って」
 と、言った。絢子は息が詰まるような気がした。
「いやねぇ、からかわないでよ」
 わざと軽いふざけた調子で言ったが、宇津木は真顔を崩さなかった。絢子はその強い視線に耐え切れず目を反らせた。
「こんな、おばちゃん、からかわないでよ」
 掠れた声で言うと、宇津木は驚いたように目を丸くした。そして小さく首を振った。
「からかうなんて。白石さんはきれいだし、おばちゃんなんかじゃない」
 強いはっきりした声だった。
「じゃ、おばちゃんじゃなかったら、何?」
 宇津木は困ったような表情をした。その表情が一番少年っぽくて好感が持てた。
「親子ぐらいだものね、丁度」
 宇津木の拗ね顔が、絢子に近づく。妙な緊張感に口が勝手に動き始める。
「小諸くんのお母さんと私、2つしか違わないのよ。きっと君のご両親とも―」
 キスは缶コーヒーの味がした。

    はまだ帰宅していなかった。
 絢子は留守番電話の録音を聞きながら、冷蔵庫からペリエを取り出すとビンのまま飲んだ。録音はほとんどセールス関係だ。
「あやちゃん、尚美です」
 姪の声がいきなり飛び込む。
「来週の土曜に中間テストが終わるの。又、一緒にランチして欲しいなぁ。お願いします。じゃ、またね」
 絢子はソファに身体を沈めて、来週の土曜のスケジュールを思い出そうとしたが、思い出せなかった。今すぐスケジュール帳に書いておかないと尚美との約束そのものも忘れてしまうかもしれない、と思うのに身体は動かなかった。年齢は確かに記憶力を奪う。でも、それより問題なのはこうやって留めておこうという努力をしようという気力が失われることだ。
 それがわかっていながら動かない自分に、絢子は苛立つ。
「絢子、私だ。今夜は遅くなる」
 夫の言葉はそれだけだった。愛人とも限らないが、女性と会う時夫はいつの遅くなるとしか言わない。他の用件の時は、例えば誰と飲みに行くとか、接待だとか、具体的に話す。具体的でないのは後ろめたい場合だ。それを無意識に(多分自分では気付いていないのだろう)してしまう夫を、絢子は可愛いと思う。
 絢子にだって恋人はいる。そろそろ手を切ろうと思っているが、同じ歳の建築家とは1年ぐらい続いている。けれど絢子は夫を愛している。きっと夫を愛しているということを確認する為に、恋人を必要としているのだ。そしてそれは夫も同じなのだと思う。そういう夫婦のあり方もあると思う。
 電話が鳴った。取ると、例の建築家だった。
 「絢子」と呼び捨てにされ、最近冷たいとぐちぐち言われるのに絢子はうんざりして、とりあえず3日後に会う約束をして、夫がいるからと嘘までついて電話を切った。
 とたん大きな溜息が出た。
 ふいに宇津木の無口が懐かしく思えた。
 絢子は勢いをつけて立ち上がると、バスルームへ入って行った。

   

   れて来た男は「仕事がせっていて」と言い訳をしながら、アイスコーヒーを頼んだ。絢子はすっかり冷めてしまった紅茶をゆっくり飲み、男の言い訳を聞くともなく聞いていた。言い訳は次第に仕事の愚痴に変わっていく。
 1年前はこんな事を言う人ではなかったのに。
 絢子は小さく溜息をついた。甘えられているのだ。男は馴れ合った女にすぐに甘えてくる。甘え合うのが愛情だと思っている。が、女は違う。少なくとも絢子には、甘えは甘えでしかなく、馴れ合いはべたついて不快感を残すだけだ。
 男は一気にしゃべるだけしゃべるとアイスコーヒーを飲み干し、部屋へ行こうと言った。絢子は今度はわかるように、大きく溜息をついた。
「もう、逢わないから」
 簡単に言って、立ち上がった。
「絢子」
「夫を愛しているのよ。だから。紅茶、ごちそうさま」
 男の唖然と下顔に見送られてラウンジを出るのは快感だった。ロビーのガラスにエメラルドグリーンのスーツを着た自分が映っている。
「大丈夫」
 と、絢子は無意識に呟いていた。呟いて何が大丈夫なのか考えてしまった。ともかく、それが何であるにせよ、そうやって大丈夫だと自分に言い聞かせなければならなくなったことに気付いた。
 絢子は早足にホテルを出ると、2ブロック先の公衆電話から会社に連絡を入れた。変わったこともなく明日のスケジュールを確かめて電話を切った。時計を見ると、6時8分だった。なんて中途半端な時間だ。絢子はむっとした気分で、自宅にコールし留守電を聞く。
「今夜は、――社の接待だから。なるべく早く帰ります」
 夫の録音に笑った。
 本当に、夫はこの癖に気付いていないのだろうか? それともそうやって弾幕を張っているのだろうか。9歳年上の夫には、それが歳の差だとは思いたくないけど、よくわからないことが多い。本当は何を考えているのか、絢子は全てを知りたいと思うと同時に、知るのは恐いと感じる。それはきっと自分自身の全てを知られたくないと思うことに似ているのだろう。
 だから、ふっと例の倉庫に行ってみる気になった。建築家の饒舌に宇津木を思い出したせいかもしれない。
 デパートでさんざん迷った末肉まんを買うと、絢子は倉庫に向かった。車の中でスポンサーの妻らしい笑顔を探す。が、宇津木の真顔を思い出すと、それは貼り付いたような不自然なものに変わるような気がした。今夜もサボっていてくれたらいいのにと思う。けれど実際来ていなければ落胆することはわかっていた。絢子は自分の気持ちを持て余し、たった二十歳の唇に惑わされている自分を嘲笑する。
 倉庫からは規則正しいドラムの音と、無秩序なギターやシンセサイザーの音が漏れていた。そして、勢いをつけて車を降りると、明るくドアを開けた。
「今晩は。差し入れ持ってきたんだけど」
 倉庫の中は、手前に大きなテーブルとパイプ椅子が、その奥に楽器やエフェクターが散乱していた。
「あやちゃん」
 小諸が、シンセサイザーの前から立ち上がり絢子に近づいた。
「わぁ、嬉しいなぁ。丁度、休憩しようと思ってたんだ」
 小諸が笑うと幼稚園の頃と変わらなくなる。だから余計に赤く染めて立ち上がらせた髪に違和感を覚える。小諸の才能を伸ばしてやりたいと思う夫の気持ちもわかるが、そんな過激な格好で先のわからない事に夢中になっている息子に不安を感じている小諸の両親の気持ちも絢子はわかる。できれば病院を継いで、でなければ普通にと、彼等は願っている。少しづつ増えはているスタジオミュージシャンとしての仕事を、親はどうしても認めることができない。
「自分の息子というだけで、息子の才能のあるところが見えなくなるものだろうか。息子は自分のレプリカだと思ってしまうのだろうか」
 夫がバックアップをすると言った夜、溜息と共に呟いた。
 それは子供のない夫婦には頭で理解できても、決して本当にわかることではない。けれど子供の成長には、不安や悲しみを感じられる喜びみたいなものがあるのではないかと絢子は思う。
「休憩、休憩しようよ。ねえ、缶コーヒー買って来てよ」
 小諸の視線が順に廻って、ベースの立花の上に落ちた。と全員の視線が彼に集まった。立花が「俺?」というリアクションをすると全員がうんうんと頷いて見せる。立花は肩をすくめるとスタスタと倉庫を出て行った。
 宇津木はいない。サブギターの河野もいなかった。絢子は思っていた通り、安堵し落胆した。
「わーい、肉まんだ」
 小諸がさっさと包みを開けている。他のメンバーもテーブルに集まってくる。
「今晩は」
 相変わらずばらばらに、でもお行儀良く挨拶する。絢子は余裕のある笑みで挨拶を返した。
「小諸、今日、休憩ばっかだなぁ」
 曽根が茶化すように言う。
「べつにそねくんは休憩しなくていいよ。だからボクのかわりに、アレ全部打ち込んでよ」
 曽根が思い切り嫌そうな顔をした。缶コーヒーを抱えて立花が帰ってくる。リンプルを開ける音が谺の様に響いた。
「どうぞ」
 絢子にも差し出され、絢子は礼を言って受け取った。大量に買った肉まんが見る間に減っていく。絢子はのんびり缶コーヒーを飲みながら若い男の子の食欲は気持ちいいものだと思っていた。スタイルを気にかけてばかりの女の子との食事は、いつも絢子を不快にさせる。ストイックであるべき所が間違っているのだ。そしてそれは食事だけでなく生活全般に言える。絢子はそういう同性が好きじゃない。むしろ嫌悪感を持っている。
「でも、小諸、早いとこ打ち込んでしまわんと今夜宇津木来るんじゃないのか」
 松本の急な言葉に、絢子のコーヒーを運ぶ手が止まった。
「え、来るの?」
「あ、俺、電話したよ。明日は来いって。小諸、サンプリングがどうのって言ってたじゃない。やっと捕まえたんだぜ」
「そねくん、こないだどうせ来ないよって言ってたでしょうが」
「知るかよお。俺、あいつのお守じゃないぞ」
「幼馴染みでしょ」
「関係ないって」
 曽根と小諸の早口の掛け合いに、土屋が肩を震わせて笑っている。
「どっちにしろ、来週のライブの練習せんと」
 松本がまとめた。全員がうんうん頷く。
「でも、来ないですねぇ。ま、遅刻はいつもだけど、遅過ぎやしませんか」
 立花の口調は場違いなほどのんびりしている。
「又、女のところじゃないのか?」
「昨夜は、家にいたぜ」
「わかんないって。ウツギ、足も速いけど手も早いから…」
 絢子は口元に笑みを置いてはいたが、噂は聞きたくないと思った。コーヒーを飲み干し立ち上がった。
「じゃ、私はこれで。がんばってね」
 小諸がドアのところまでついて来る。
「あやちゃん、今夜はありがとう。又ライブ来てよね」
 絢子は頷き倉庫を出た。明るい笑い声が背中に響いた。若い子といて疲れるのは年取った証なのだろうか。絢子は貼り付くような疲労感に思った。若いつもりでも、実際常に5歳から10歳近く若く見られていても、積み重ねてきた年月はそれなりに奪っていくものがあるのだろうか。
 車を出し、通りに出る為止まった所で、ふいにヘッドライトの中を宇津木が横切った。
 一瞬絢子は幻かと思った。
「宇津木くん」
 呼ぶと宇津木は屈託のない笑顔を見せた。
「今晩は」
 その屈託のなさに、絢子は3日前のことを忘れてしまったのかと思った。
「このあいだはどうも」
 宇津木は笑いながら頭を下げた。覚えているのなら、この屈託のなさは一体何なんだろう。
「差し入れ…」
 何を言ったらいいのかわからなくて、絢子はどうでもいいことを口にしてしまう。
「差し入れ、もう食べられちゃってるわよ」
「じゃ、今頃、証拠隠滅作業してるね」
「……乗る?」
 絢子は精一杯何気ない声で言った。やはり綺麗な子だ。もっと間近で見ていたい気にさせる。
 宇津木は少年のように笑うと首を振った。
「今夜は、練習に行きます」
「そう、ね」
 宇津木は頷き、
「じゃあ、また」
 と言った。素っ気無く手を振り、倉庫に向かって歩いていった。絢子はウィンドを閉めるとアクセルを踏み込んだ。  

   

 がつくと梅雨になっていた。
 クロールで500m泳いだ後、バックに変えるとガラスのルーフを叩く雨がいきなり目に飛び込んできた。梅雨入りを聞いたのはもう10日も前のことだ。なのに絢子は、この瞬間まで梅雨の実感を覚えずにいた。
 ゆっくり水をかきながら、なぜだろうと考えた。
 雨は毎日降っていた筈だ。会社で秘書が「雨以外の天気予報を聞きたいですね」といっていたのを思い出す。
 ああ、そうか。
 絢子は50mのターンをする。雨に濡れてないせいだ。家、会社、パーキング、絢子の頭上にはいつも屋根があった。そして行き届いたエアコンディショナーは、いつも乾いた空気を送ってくる。こうやって雨の中の室内プールでようやく季節を感じるなんて、皮肉だと思う。
 雨を見ながら500m泳いで、絢子はプールを出た。
 少し遅れて待ち合わせのレストランにつくと、夫はテーブルでファックスを読んでいた。
「ごめんなさい、遅くなって」
 夫はファックスを畳みながら、こちらの仕事が早く片付いたのだと言った。オーダーを取りに来たウェイターにランチを2つ頼む。最近オープンしたこの店は始めてだった。
「昼はランチメニューだけだそうだよ」
「それで、若い子が多いのかしら?」
 テーブルとテーブルの間を広く取っているせいで、満席の割りに窮屈な感じはない。その席のほとんどを埋めた若いOL達が、店の落ち着いた内装をかえって引きたてている。
「いい、雰囲気ね」
「そうだね。この内装は良く出来ているね。今度の新しい店に使えないかな」
「ちょっと、あの場所には渋すぎるでしょ」
 オードブルが運ばれて、絢子は仕事の話を止めた。流行の洋風懐石で、野菜のテリーヌ、サーモンマリネ、ラティユが上品に盛り付けられている。ヘルシー指向を踏まえているようなそれは、いかにも若い子が飛びつきそうなものだった。
「あら」
 絢子は無効のテーブルに建築家を見つけて声を上げた。建築家は若い娘といた。皿はもうデザートになっている。向こうは絢子に気付いていない。
「どうしたの」
「ほら」
 絢子は建築家の方を指差した。夫は建築家の姿を認め頷いた。
「この内装は、彼の仕事かな」
「さあ」
 考えてみると建築家の話なんかろくに聞いてなかった。というよりベットや食卓では仕事の話なんか聞きたくないだけだ。
「彼にしては地味なんじゃない」
 夫は頷きながら笑った。
「そうだね。彼ならもっと光り物を使うね」
 今度は絢子が笑った。
「…でも、彼には娘はいなかった筈だが」
 一瞬何のことかわからなかった。
「ほら、一緒にいる娘。親子ぐらい歳が離れているのじゃないかな」
「隠し子だったりしてね」
 そんな訳ないと思いながら、絢子は口にした。チコリの苦さが舌に残っていた。
 メインのチキンソテーヴィネガーソースが運ばれて、その話はそこで打ちきりになった。        新店舗の契約を終えた時も雨はまだ降っていた。
 気付かずにいるのも問題だったけれど、気付くとやはりこの時期の雨は見ているだけでうっとおしい。
 会社に電話を入れ契約が上手くいったことを告げる。
「おめでとうございます」
 秘書は甲高い声で言った。
「今日はこのまま帰宅しますから、後よろしくね」
 電話を切ると絢子は首を軽く回した。水泳の疲労感は残っていたがそれは不快ではなく、むしろもっと泳ぎたい気分だった。
 とりあえず、車を雨の中泳がせた。
 駅へ続く道であの日宇津木に会ったことを思い出して微笑んだ。今日は学生達の姿はない。時間が中途半端なんだろう。絢子は少し残念に思った。
 あれから何度か夫がライブに誘ったが、絢子は行かなかった。なのに、宇津木の笑顔は鮮明なままで残っている。人を引き付けるというのは、多分こういうことなのだろう。
 と、鮮やかなブルーのシャツが目の中に飛び込んだ。雨に濡れている長身の背中。ブリーチした肩に届く髪。絢子はブレーキを踏むと車を止めた。
「宇津木くん」
 呼ぶ。宇津木は驚いた顔を向けた。
「すごい偶然!俺、学校来たの10日振りなのに」
 余程驚いたらしく一息にしゃべった。
「乗りなさいよ。こんなに濡れちゃって。傘はどうしたの?」
 宇津木は笑いながら助手席に乗り込んできた。絢子は水着を入れたバックからフェイスタオルを取り出すと宇津木に渡した。
「ちょっと湿っているけど、ないよりはましよね。どうしたの、本当に」
 宇津木はやはり笑ったままタオルで髪を拭いている。濡れたシャツが身体に貼りついて絢子は目のやり場に困ると思う。せめてスポーツタオルを持ってきていれば良かった。
「傘さすの、大嫌いなんだ」
 宇津木は濡れた髪を掻き上げながら言った。意外なほど長くしっかりした指が、柔らかい髪に絡む。
「嫌いだからって……こんなに濡れたら風邪ひくわ」
 宇津木は肩をすくめた。実際、ブルーのシャツの色が映っているのか、宇津木の顔は青白く、唇は紫がかっていた。フェイスタオルは雨を吸って重たくなっている。でも宇津木の髪からはまだ雫が落ちている。
 絢子は車を出した。
「とにかく、タオル買って、その濡れたのを何とかしないと」
「シートが濡れちゃうね」
 宇津木は心から気の毒そうに言った。
「車なんてどうでもいいの」
 ついきつくなった口調に、宇津木は拗ねた顔をした。シートに身体を沈めてしまう。拗ねた目は少し不安げで、迷子の子供か叱られたネコのようだった。
 道は混んでいる。思うように走れないことに絢子は苛立つ。心なしか宇津木の顔色がさらに悪くなったようだ。
「寒くない?」
「…うん」
 と、返事をしたものの、濡れた服が冷えてきているのがわかる。湿った体臭が、宇津木の体温を奪うように漂って来る。それは未熟な果実のそれに似ていた。
 絢子は焦る。でも車を止めるきっかけを見つけられない。のろのろと、それでも途切れることなく車の流れは続く。
 宇津木が絢子の横顔を見詰めている。視線を強く感じるのは、宇津木の目そのものがはっきりした造りだからだと思う。
「ね、そこの方が早くない?」
 ふいに宇津木が指差した。その先にはラブホテルの派手な建物があった。
「そうね」
 宇津木の口調が自然だったので、絢子はつられるように答えてしまった。
「そうね」
 今度はうろたえた心を隠すように言った。タイミングを計ったように、車の流れがさらにゆるやかになった。絢子は息と共にウインカー上げ、車を入れた。どうってことはない。濡れた髪を乾かすだけ。相手は息子といえる歳だ。絢子は嘲笑して言い聞かせる。
 部屋に入ると、宇津木はスタスタとバスルームへ入ってしまった。それがあまりにも無防備だったので、かえって絢子に「慣れ」を感じさせた。
 シャワーの音が響き始める。
 ふいに涙が零れた。絢子は自分自身に驚いて指で涙を押さえると、冷蔵庫から缶ビールを取り出しリンプルを開けた。立ったまま一口飲んだ。苦さが身体に染みる。
 あの無防備さは人を傷つけるものだと思う。
 喉が乾いていた。2口飲むとビールは半分ぐらいになった。絢子はベットの端に腰を落す。
 時折老成した大人の顔を見せながら大部分を無邪気な少年のような瞳で欺いている宇津木は、そうであるが故に絢子を傷つける。宇津木を見ていると自分が目を閉ざしてきたもの、自分の年齢や狡猾さに気づいてしまう。自分が夫が、宇津木や小諸の才能に群がる醜い俗物のような気がしてくる。そしてそう感じるのは、宇津木のせいでは決してないのだ。が、むしろその事実が絢子を苛立たせる。
 シャワーの音が止まった。
 絢子はビールを飲み干した。唇を噛む。なら、宇津木のせいにしてしまえばいい。宇津木の無防備も無邪気も奪ってしまえばいい。傷つくのなら、反対に傷つければいい。
 鏡の壁にきつい表情をした自分が映っていた。「恐いことを考えている時の絢子が一番生き生きしている」夫のよく言うことは、確かに当たっている。唇を舐める。紅が濡れて濃さを増す。
 ドアの開く音がして熱い空気と石鹸の匂いが流れてきた。絢子は完璧な笑みを作ると、ゆっくり振り向いた。宇津木は腰にバスタオルを巻いて、フェイスタオルで頭を拭きながら近づいて来る。絢子の笑顔に合わせるように笑う。
「服は?」
「絞って、干しておいた」
 宇津木は暑いなぁと呟きながら、絢子の反対側に腰を降ろす。髪を掻き揚げ熱気を払うように頭を振った。背中に真っ直ぐな背骨が並んでいる。対の肩甲骨が、綺麗な双曲を描いている。宇津木の身体は痩せているが骨ばった感じはなく、大理石の彫刻のようなしなやかさがあった。
 触れてそのしなやかさを確かめたい。
 宇津木が絢子を熱い視線で見た。
「白石さん」
 手を握られた時、絢子は安心感を覚えた。宇津木の熱情を受け入れながら、絢子はこれで宇津木のせいに出来ると思っていた。

 

     店舗の工事は早々と着工されたが、何かと遅れ気味だった。絢子が進み具合を見に行く必要はなかった。けれど、1週間か10日に1度、大学の近くで宇津木を拾うため絢子はまめに出掛けていた。
 既に10月のオープンは怪しいものになっている。「他のテナントとの契約があるから、期日にあげてくれないと困ります」ときつい調子で言いながらも、工事が終わると宇津木と逢えなくなるような気がしていた。
 宇津木は相変わらず無邪気で無防備だ。自分が不倫をしているという認識は全く持ってなく、不自然な年齢の差も気にしているようではなかった。だいたい絢子のこともどう思っているのかさえ読めない。ただあの強い視線だけははっきりと絢子を求めていると訴えている。何も語らない。だからこそ、その熱情は絢子を熱くさせると同時に不安にもさせる。
「来週から前期試験だから」
 派手な柄の入った赤っぽいシャツのボタンをとめながら宇津木は言った。絢子は口紅を塗っていた手を止めると鏡の中の宇津木を見た。シティホテルの窓は大きく、夏の日差しにビルがきらきら輝いている。
「試験終わったら夏休みだし。でも、その前に追試かな?」
 絢子に向かっていたずらっ子のように笑う。日焼けしていない襟元から覗く鎖骨の窪みが、光を留めているように白いと絢子は思う。
「夏休みはどうするの?」
 聞きながら、淋しさは隠せないと感じる。
「バイトと練習とライブ、かな。来月から全部新曲にするって言うから、大変なんだ」
 もう少し前髪を切ればいいのに。絢子は鏡の中の宇津木をぼんやり見詰めながら思っていた。宇津木自身もうっとおしいのか、しきりに手で掻き揚げている。
「切ってあげようか、前髪」
 絢子は化粧ポーチから小さなはさみを取り出した。宇津木はきょとんとした表情で絢子の手を見ている。
「座って」
 立ち上がり宇津木の肩を押した。強い日差しが横顔にあたり、宇津木は目を細めた。絢子は前に回り宇津木の髪を梳いた。眩しそうにしたまま、宇津木は絢子を見上げて嬉しそうに笑う。
「目を閉じていてね」
 薄く垂らした前髪を1センチほど切った。宇津木の柔らかい髪はまだ湿り気を残していて、絢子の手の中に大人しく落ちていく。閉じた目の睫毛が長い。微かに開いた唇が情事の余韻を感じさせる。
「……小諸に、ばれちゃったよ」
 ふいに目を閉じたままで宇津木が言った。その弾みで少し切りすぎてしまった。
「この間送ってくれたところをバッチリ見られちゃった。ごめん。言い訳が下手で」
 絢子は手を止めた。宇津木が目を開けた。
「ごめん」
 と、もう一度言った。絢子は首を振る。嘘が上手いよりはいいわ。言いかけた言葉を飲み込んだ。
 宇津木が前髪を掻き揚げた。落ちてきた髪はふわっと宇津木の額を覆った。
 笑った。
「すっきりしたね」
 さっき言ったことなんか忘れたような明るい声だった。
 その瞬間の宇津木を、絢子は憎んだ。

   

   津木がうたっている。普段のぼんやりした様からは想像できないシャープな顔をしている。少しハスキーな、でも伸びのある声が響く。シャウトする顎から咽喉へのラインが切ないぐらいセクシーだ。オーバーブラウスにした薄手の大きな白いシャツは、ライトにあたって宇津木の身体をかえってはっきり浮かび上がらせている。
 3週間前に切った前髪は、もう伸びて宇津木の額で揺れていた。
 絢子は目を反らせた。最後尾のカウンターにいるのに、2人の間には熱く波打つオーディエンス達がいるのに、絢子は宇津木の体臭を間近に感じる。
 夫はカウンターを叩いてリズムを取っている。楽しそうだ。夫は、親は息子をレプリカのように思うのかと言ったけれど、夫の小諸への期待はそれに近いものがあると思う。
 2人が子供を作らなかったのは、それを選択したのではなく、気付くとそうなっていたというのが一番的を射ている。なのに積極的にそうしなかったことへの後ろめたさをふいに覚えてしまうのは、女の業なのかと絢子は思う。きっとそれは、それこそ老いて枯れ果ててしまうまで絢子を責め続けるのだろう。
 絢子は夫の横顔を見詰める。2人でおこなっているストイックな生活のおかげで、夫の身体は15年前のサイズを保っている。が、輪郭のシャープさは失われ、歳相応の貫禄みたいなものが取り巻いていた。目も昔に比べればずっと温和になった。グレイに変わった髪が、その温和さを更に強調している。
 夫を愛しているのだと思う。共に老いていきたいと願う。なのに絢子は宇津木に感じている自分を否定できない。
 絢子の視線に気付いて夫が顔を向けた。微笑む。
「この前の時と、曲が違うのね」
「そうだね。絢子はあれから来てなかったから、始めて聞くのばかりだね」
 ユーロビートが続いている。宇津木が踊る。若い身体は、音符の一つ一つを正確に刻む。くるっと回った瞬間、汗が飛びオーディエンスの甲高い声が上がった。
「白石さん」
 夫の背後に、いかにも業界っぽい麻のスーツを着た中年の男がいた。
「ああ、今晩は。どうぞ。妻の絢子です」
 夫は親しげに隣の椅子を勧め、絢子を紹介した。絢子は微笑む。
「――音楽産業の――さんだよ」
 紹介された男は名刺を差し出し、
「いやあ噂には聞いてましたが、本当に美しい奥方ですね」
 と、ステレオなお世辞を言った。
「そんな、お上手ですね」
 絢子は営業スマイルのまま答える。男は照れたように笑った。
「白石さん、そろそろウチに預けてくれませんか。彼等の実力なら、たちまちに大スターですよ」
 男はステージを顎で指しながら言う。夫はにやにや笑っている。
「白石さん、今が売り時じゃないですか?」
 絢子は軽い目眩を感じた。そんな話、聞いたことがなかった。
「白石さん、ウチが責任持ってやりますから」
「そう言ってもらえるのはありがたいのですが、一発屋で終わらせることだけにはしたくないんですよ。まあ、あれだけのルックスの揃ったメンバーですから、それだけで十分売れるでしょうけど。とにかく小諸が納得できるまで、出すつもりはないです」
 夫はむしろ自慢気に言った。
「納得って、いつ、どういう風に」
 夫は肩をすくめた。
「さしあたって方向性の統一と、メンバーの整理ですね」
「整理って?」
 絢子はつい、口を挟んでしまった。夫は当然といった調子で、
「7人は多すぎるからね」
 と、言った。それには業界の男も頷いた。
「打ち込みを中心にするなら、2人か3人で充分だからね」
「でも、土屋くんのアナログっぽいハードロックもいいものがありますからね」
 男の言葉に夫は頷く。
「今は、小諸自身もどの方向へ行くか試行錯誤してますからね。とにかく待ってやって下さいよ。焦ってすっぱいブドウを取ることもないでしょう」
 男は苦笑し、
「その時は、絶対ウチに預からせて下さいよ」
 と言って、カウンターを離れた。
「ねぇ、あなた、整理って?」
 もう一度尋ねた声は掠れていた。
「ああ、元々2つのバンドが合体したものだからね。ダブルギターもダブルシンセも本当に必要性がある訳じゃないし、それにルックスの良すぎるボーカルっていうのも問題かもしれない」
 絢子の手が微かに震えた。
「アイドルじゃないのだから、ルックスで売れるのでは問題だろう?」
 絢子は引きつった笑顔のまま頷いた。
 曲が終わった。拍手が歓声が、湧きあがった。宇津木が深々と頭を下げていた。

   

   差しの中のソファで、宇津木は膝を抱えぼんやりしている。ライブのことでも考えているのだろうか。指がリズムを刻み、時々唇が動いている。ここに来る車の中でも歌詞が覚えられないとぼやいていた。
 窓からは海が見えている。8月の終りのリゾートホテルは祭りの後の様に淋し気で、泳ぐ人のいない海は光だけをきらきらと受け入れている。
 夏が終わろうとしていた。
 休暇中に夫とシンガポールに行って日焼けした絢子と対照的に、ずっとコンビニでバイトしていたという宇津木は申し訳程度にしか日焼けしていない。忙しくしていたのだと言う。
 宇津木には連絡が取れないというのを何度か耳にしていたが、実際どうやっても捕まえられなくて絢子は最終的に小諸に頼むことをしてしまった。
「いいよ。わかった。伝える」
 と、普通に小諸は言ったが、絢子は恥ずかしさに流れる程汗をかいた。だから次の日かかってきた宇津木の電話に、
「どうして連絡してくれないの」
 と、恨みがましい口調で言ってしまった。宇津木は気に止める様子もなく、
「電話番号書いたのなくしたから。家にかけてくれれば良かったのに」
 と言った。
「いなかったじゃない」
 泣き声になりそうだった。
「何度もかけたわ。でもなんて言えばいいの。なんて言えるの。名乗ることさえ出来なかったわ」
 電話の向こうで宇津木が黙り込んだ。
 夫は3日の予定で福岡に出張している。絢子の目的は伊豆の土地の下見だ。ただそれにお互いの恋人を伴っている。そういう気配は自然にわかる。
夫が絢子の恋人を知らないように、絢子も夫の愛人を知らない。知りたい気もするが、きっと自分に似た女でも正反対の女でも、どちらにせよ悲しいのだろうと思う。ともかくトラブルにならない限り絢子は夫の自由を縛るつもりはない。けれどもし絢子の恋人がこんなに若い男だと知ったら夫は呆れるだろうか? それとも傷つくだろうか?
 宇津木の前をはだけたいつかの青いシャツが、海の色を吸い取ったように鮮やかに風に揺れている。さっき絢子が切ってやった前髪もふわふわ揺れている。視線に気付いて顔を上げ、絢子を見詰めて微笑む。
「少し歩かない?」
 宇津木は頷くとすくっと立ち上がった。
 海の風はもう秋の気配を持っていた。絢子と宇津木は人気のない砂浜をゆっくり歩いていく。日焼けした肌に白いボディコンシャスなサンドレスは、絢子を若く見せてくれている筈だ。けれど日差しの中で笑う宇津木の内側から溢れてくる本物の若さの前では、それはまがい物でしかなかった。歳を取る事が失うことだけではないと知っているけれど、決して取り戻せないものはいつだって美しく見える。
「あ」
 砂に足を取られた絢子を宇津木が抱き止めた。その腕の力強さは間違いなく男のものなのに、宇津木の年齢が絢子に女としてすがることを躊躇わせる。宇津木はそんな絢子の思いを察したかのように、背中に手を回し絢子の髪に顔を埋めるようにして抱き締めた。
「止めて。人に見られるわ」
 言いながら、宇津木はそんなこと気にしてはないのだとわかっていた。
「お願い止めて」
 絢子はやさしく宇津木の胸を押して身体を離した。又、宇津木は迷子のような顔をした。絢子は微笑み歩き始める。ポケットに手を突っ込んだ宇津木が続く。
「バンド、忙しい?」
「うん。みんながんばってるから」
 絢子は立ち止まって、宇津木の横顔から後ろ姿を見詰めた。2、3歩先に行って宇津木は立ち止まり振り向いた。何? というように小さく首を傾げた。
「夫が、ルックスの良すぎるボーカルは問題だって言ってたわ」
 宇津木は不思議そうな表情をした。
「プロモーターにそう言ってたの」
 宇津木は、破顔した。
「知らなかったの? いつも言われてるよ。ルックスだけのボーカルだって」
 だから気にすることはないのだと言うように宇津木は笑う。
「作ったり弾いたりしてたらそこまで言われないんだろうけど、俺、自分より上手い奴がいるのってヤなんだ」
 絢子が不安な表情をしていたせいだろう。宇津木はいつになくしゃべった。海の方を見る。
「メンバーを削る話も知ってる。きっと俺は削られるだろうね。プロになるって甘いことじゃないってわかってるつもりだし、自分の力量っていうのもわかってる。仮にデビューできてもルックスで売れたんじゃ、小諸の才能のためにならない、むしろ妨げになるだろうしね」
 宇津木の視線は遠かった。冷静な言葉に絢子は驚く。まるで未来を見てきてしまったかのような冷静さだ。そうか、と絢子は気付く。宇津木の無防備さも無邪気も、彼が「今」を見ていないからだ。宇津木は遠くを、未来を見ている。だから「今」に傷つかない。
「とりあえず、俺は人寄せになるし、客が呼べればライブの本数も増える。叩き台でいいから、場数を踏むことが大事だからさ」
 他人のことを話すような口調だった。むしろロマンティストだと思っていた。なのにあの少年のような笑顔に下にこんなリアリストが潜んでいたなんて。
「……それでいいの?」
「うん」
 宇津木の声は明るかった。
「手に入れるために失わなければならない物だってあるでしょ」
 うたっているのは手に入れる為なのか、失う為なのか聞いてみたい気がした。けれど聞いても宇津木は笑って見せるだけだろう。それとも、それは終わってしまわなければわからないと答えるだろうか。
 絢子は同じ問いを自分自身に投げかける。宇津木とこうしているのは手に入れる為なのか、失う為なのか。一体なにを?
 宇津木が照れたように笑う。
「君は強いんだね」
 強くなった風が宇津木の髪をなびかせている。絢子は手を伸ばして宇津木の頬に触れた。宇津木の目の中に絢子がいる。宇津木の強い真剣な眼差し。絢子はまだそれを見詰め返す力がない。
「どうして、君が好きなんだろう」
 知らぬ間に口をついた言葉に、絢子は苦笑した。宇津木が笑わなかったこと煮、絢子は安堵を覚える。絢子は両手で宇津木の頬を包むように抱いた。理由なんていらない。この瞬間の宇津木は確かに絢子のものだと思った。
 宇津木の腕が、綾子の背中で交差する。

     

 朝、チェックアウトを終えてロビーのソファにいる宇津木に向かって手を振った時、絢子は建築家がいるのを見つけて驚いた。向こうも絢子に気付き、弾ける様にソファから立ち上がった。建築家は2人連れで、相手は以前レストランで見た若い女の子のようだった。
「絢子」
 建築家は親しげに呼び、近づいてくる。宇津木も立ちあがり当惑した表情のまま、絢子を見ている。建築家の連れは冷めた表情でオレンジジュースを飲んでいる。
「いやあ、久し振りだなあ。どうしたの、こんなところで?」
「土地の下見で…あなたこそどうしたの?」
 建築家の苦笑に聞くだけ野暮だなと思った。が、彼は思わぬ言葉を口にした。
「娘とね」
 と言って、彼は連れの方を振り向き小さく手を振った。女の子は絢子を見て申し訳程度に頭を下げた。
「娘って?」
 聞き返す絢子に宇津木が近づいてくる。状況を察しているのか、怒ったような無視するような表情だった。
「別れた奥さんの方、行ってた娘なんだけど、事情があって今は一緒にいるんだ」
 そういえば、娘と建築家はよく似ていた。特に切れ長の少し古風な目は、コピーのようだった。
「でも、随分大きな娘さんじゃない。私、新しい恋人かと思ったわ」
 建築家は不自然なぐらい大きく笑った。照れ隠しのつもりなのだろう。
「なんせ、二十歳の時の子供だからね」
 宇津木が絢子の側を通り過ぎる。
「車で待っていて」
 呼び止め、キーを渡した。宇津木は手の中のキーと絢子を交互に見て、黙ったまま小さく頷いた。そしてスタスタとロビーを横切って行った。
「絢子」
 同じように宇津木の後ろ姿を見ながら、建築家が言った。
「まさか君の隠し子ってことはないよね。若いじゃない。ウチの娘と変わらないぐらいじゃないの」
 笑って否定しようかと思ったが、やめた。どう言い繕っても宇津木の身体から溢れる情事の名残りの色香は隠せない。その背中がしなやかにガラスの回転ドアをすり抜けて行った。
「絢子、一体どこで引っ掛けたの?」
 絢子は建築家の言葉に苦いものを感じていた。確かに親子ほどの年齢差は、常に絢子の頭の中にあった。が、それはただの数次の問題である気がしていた。宇津木の年齢というものを感じさせない透明さがそうさせていた。けれど、それはあくまで当事者の感覚であって、他人から見れば不自然な不謹慎な関係なのだ。
 絢子は宇津木の関係が醜いものになってしまった気がした。そして宇津木が若く美しい分だけ、その醜さを負っているのは自分のように思えた。
 建築家は野卑な笑みを浮かべている。
 車の中で宇津木は怒っていた。
 黙っていたが、怒りで目が青味を帯びているようだった。絢子はそれに気付かない振りで、
「少しも涼しくならないわね」
 と、陽気に言って、エンジンをかけた。
 シートに身体を沈めた宇津木は、上目づかいにフロントガラスを見詰めている。何度か話しかけたが、宇津木は黙ったまま返事もしなかった。
 絢子は沈黙に耐え切れず、いくらも走らないうちに車を路肩に止めた。
 宇津木はゆっくり絢子を見た。目に怒りを残したまましかめられた顔は、むしろ悲痛に見えた。
「……どうして、キー渡したんですか?」
 ふいに目を伏せた宇津木が聞いた。
「俺は、言われなくても車で待っているつもりだった」
 顔を上げ目を見開いた。燃えるような輝きだった。
「あの男、あなたにひどいことを言ったんじゃないんですか」
 叫んだ。絢子は突然溢れ出した熱情にたじろぐ。宇津木は泣き出しそうに顔を歪めている。
「私のこと、心配してくれたの」
 宇津木は返事をしなかったが、絢子から目を反らさなかった。幾千の言葉よりも、それは甘美なものだった。

   

   上げが急ピッチで行われている新店舗が、絢子に秋の訪れを告げている。
 3日、場合によっては連日、絢子は出掛けて行き、自然宇津木と逢う事も増えた。宇津木は、こんなに真面目に大学に来たのは入学以来だと笑う。練習も、絢子が送って行くのでサボっていない。
「そねがさ、お前のせいで雨が降るんだって怒るんだ」
 10日後にオープンを控えた午後、宇津木はフロントガラスを叩く雨にふと思い出したように言った。そういえば、この秋はいつになく雨が多い。
「いきなり雪が降っても驚かないってまで言うんだ」
 子供っぽく笑う。
 絢子は宇津木の濡れた髪に秋を知る。この間切ってやったのに、もう伸びてきている。新陳代謝のスピードが全く違う。21歳の歳の差は、年齢にともなうそのスピードの減速度をはっきり見せつける。
「髪、伸びるの早いね」
 カット用の鋏を買おうと思う。宇津木は絢子を見て、ニヤッと笑った。
「スケベだから、なんだって」
 絢子は吹き出した。受けたことに気を良くしたのか、
「又、切ってくれるよね」
 と、宇津木は甘えた口調で言った。
「来週、店がオープンするのよ」
 笑っているうちに言いたかったけれど、だから今までのようには逢えないとはっきり口にするのは躊躇われた。
「口実はいくらでもあるけど、確実に出ていくのは難しくなるわ」
 宇津木の唇は笑みを残したままだ。
「君は連絡取れないし…」
「俺、ポケットベル買おうか?」
 明るく言った。その声はそんなことが何の関係があるのだと語っていた。
「あ、それより、小諸か曽根のところに連絡してくれる方が早いかもしんない。俺の行動パターン、俺より知ってるのあいつ等だから」
 殴ってやりたいと絢子は思った。宇津木の笑顔は屈託がない。わかっていないのだ。火との捕らわれる、自分でも愚かしいと思う様々な感情を、宇津木は知らない。そのキャパシティがない。
「でも、俺、遅刻はするけど、待つのなら平気だから。先の先まで約束してくれてたら大丈夫だよ」
 絢子の思いを見透かしたように宇津木は言った。
 違うのかもしれないと、ふと感じた。本当はわかっていて、わかっているからこんな言い方が出来るのかもしれない。無知ゆえの無防備もあれば、その反対もある。若さが宇津木を前者のように見せていた。外見から来る先入観が絢子も認識を誤らせていなかったとは言えない。
「……あげるわ。似合うといいけど」
 信号で止まったので、絢子はバックシートからブティックの紙袋を取り出し、宇津木に渡した。
「なに?」
「早いところはもう商品並べ始めているのよ。今日見ていたら、それがあんまり綺麗だったから、無理言って売ってもらったの」
「開けていい?」
 頷くと同時に、宇津木の長い指が袋から青灰色のシャツを取り出した。絹のそれはぬめるような光沢で、光にあたるとコバルトブルーに輝く。デザインはシンプルだが、それがかえって華やかさを強調している。見た瞬間、絢子は宇津木のイメージだと思った。
「着てみていい?」
 言いながら宇津木はもうシャツのボタンを外している。
 絢子の想像した以上に、それは宇津木によく似合っていた。光のあたるところのブルーの鮮やかさと影のグレイの落ち着きが、宇津木自身のアンバランスさのようだった。
「ありがとう」
 宇津木はそのまま着ていたシャツの方を袋に入れた。自分でも似合うと思ってらしく、にこにこ笑っている。
 絢子はその笑顔を嬉しく感じると同時に後悔もした。
 思っていた通り、宇津木は高価なそれを何の気兼ねもなく受け取った。それは2人の関係が「愛人」になっていくきっかけになるものかもしれなかった。確かにホテル代を始め、金銭は絢子が出している。が、それ以外のものはなかった。絢子は恐かったのだ。金銭で物質で宇津木を縛ってしまうのではないかという恐れ。金銭が絡めば、どんな関係も醜くなる。1枚のシャツはそのきっかけに充分なり得る。
 その一方で、絢子は宇津木がジゴロになってしまうことを願っている自分がいるのを知っている。そうなれば、絢子は宇津木に対して優位でいられる。喪失感のような不安を感じないでいられる。けれど、その為には自分自身が醜くならなければならない。
 それは、絢子に耐えられることではない。

   

   し振りによく晴れた日曜、新店舗がオープンした。
 夫はいつのまにかオープニングイベントとして小諸達のステージを組み込んでいた。アドやイベントの方面は夫に任せていたので、絢子がそれを知ったのは昨夜のことだった。
 中央に大きな吹き抜けを取ったビルの造りは、そこでの小さなコンサートが可能なだけのスペースを持っている。そのスペースを使ってのイベントをビルの呼び物にしたいというのが企画室の案だ。音楽はもちろんだが、全体に明るく綺麗なイメージの小諸のバンドはオープニングにふさわしいといえた。でも、絢子は仕事絡みで宇津木には会いたくなかった。
 シンセサイザーが2台、小諸と曽根が弾いている。宇津木は背を向けて、リズムを取りながら入りを持っている。ドラムもギターも打ち込みされた音は、いつもよりポップでクリアだった。他のメンバーはいない。どうしても来られない事情がそれぞれにあったらしい。
「もう必死に打ち込んだんだよ」
 始まる前に小諸がぼやいていた。
 宇津木が振り向いてうたい始める。この間渡したシャツを着ている。見れば見る程派手なシャツだが、服に負けているということはなく、宇津木は上手く着こなしていた。それゆえに強烈に人目を引く。始まった時は4、5人だったギャラリーが、あっという間にスペース一杯になっていた。
 3階からそれを見下ろしていた絢子は、そのギャラリーの中にシャツを売ってもらってブティックの店長を見つけて、自分のうかつさにようやく気付いた。
 あれだけ目立つものだ。店長はすぐに絢子に売った物だと気付くだろう。それから想像することもわかっている。うたっている時の妙に色っぽい宇津木を見れば、尚更だろう。
 噂はこうやって、いつか静かに広まっていくのだろう。

 

     子がコートを出した日、最初の無言電話がかかった。30分近く繰り返されたそれは、その日を境に毎夜夫のいない時を見計らうようにかかってくるようになった。
 最初は気に止めていなかったが、その執拗さに女の匂いを感じて絢子はうんざりする。朝の食卓で新聞に目を落しながら咀嚼をしている夫の顎を見詰めながら、絢子は訴えるべきかどうか迷っていた。遠回しでも、言えば夫は手を回してきてくれるだろう。けれど、それは嫌味になりそうで、口にすることが躊躇われる。
「どうかしたの?」
 夫が新聞から目を離し、大根の煮物を口に運びながら言った。絢子は別にと首を振ったが、夫のやさしい声に甘えたい気持ちが動いた。
「……随分若い子と付き合っているそうだね」
 やさしい声のままだったので、絢子は一瞬何のことかわからなかった。夫は箸を置き茶を飲んだ。そして建築家の名を口にした。
 噂がこんなに時間をかけて、それでも夫の耳にまで入ったのは、絢子と宇津木の年齢差のせいだといえる。男が21歳上ならいい。絢子が52歳で宇津木が31歳なら、人に言わずにいられない程スキャンダラスではなかったのかもしれない。
 絢子は苦笑する。隠す気も誤魔化す気もない。ただ、それでも綾子に必要なのは夫なのだとわかって欲しいと思った。
「それで、君はここのところ若々しかったのかな」
 夫の声は冷静なままだ。
「誰だか知ってるの?」
 問うと、夫は首を振った。
「知りたい?」
 夫は苦く笑う。
「知りたくないね。えらく綺麗な子だって聞いたから」
 本当は知っているのかもしれないと絢子は思った。建築家が随分若いというのをどういうニュアンスで言ったかはわからないが、もし「親子程」と言っていれば、自然バンドと繋がるだろう。それから消去法してゆけば、多分宇津木の存在が残るだろう。それでも、知らないことにしておけば、ことを荒立たせずにいられる。
 夫は立ち上がった。肩をすくめる。
「話があるから、今夜早く帰ってくる。君もそうしてくれ」
 食器を片付けながら、絢子は頷いた。

     

 津木の前には若い女の子がいた。
 いや正確には、いつものように日のあたる窓際の席に座った宇津木の前に、女の子は立っていて、宇津木は彼女を見上げていた。ウェーブのセミロングで宇津木と同じ歳ぐらいの可愛い感じの子だった。
 ガラス越しだし宇津木はほとんど背を向けていたので、宇津木の様子はわからない。が、彼女の怒り激している表情は、はっきりわかった。普通じゃない気配を察しているのか、回りの客達もウェイトレス達もチラチラ2人を見ている。
 絢子は時間に遅れたことを感謝した。
 彼女は早口に何か言っている。宇津木を責めなじっている。その彼女の激しさと裏腹に、宇津木の背中は穏やかなままだ。
 絢子は、ただ当惑して目を見開いている宇津木の表情が見える気がする。彼女が感情的になればなる程、宇津木は当惑してゆくだけだ。
 彼女の右手が高く上がった。とたん、宇津木の頬を叩いた。絢子のところまで音が聞こえたような気がする程の強さだった。
 店内の動きが全て止まった。彼女が身を翻した。自動ドアが開き、赤いコートは泣きながら遠去かって行った。
 店内の緊張が崩れる。
 叩かれた時だけ動いた宇津木の背中は、もう穏やかさを取り戻していた。そしてなにもなかったようにコーヒーを飲んでいる。人目を気にした様子もない。
 絢子は中に入れなかった。
 絢子は彼女に同情する。痛みさえ残せないなんて悲しいと思う。宇津木は誰も、そう自分自身ですら大事ではないのだ。誰も宇津木を傷つけることは出来ない。
 宇津木はのんびり雑誌をめくっている。絢子が来ないのを気にしている様子でもない。
 絢子は唇を噛むと歩き出した。宇津木は気付いていないから追って来る訳がない。なのに絢子は振り返ってしまう。宇津木の姿を見つけようとする。それでも立ち止まることだけはしなかった。

 

     局夫は仕事が片付かず、絢子は昼に宇津木にそうしたように待ちぼうけを食わされてしまった。
 今朝の会話から夫の話は察せられたが、それだけに先に延ばされたことに安堵と不安を感じる。綾子はその感覚に振り回されている。何をやっても集中できず、絢子は一人の夜を苛々と持て余していた。
 電話が鳴った。
 絢子は怯えた。4回のコールの後、解除していない留守録が不在を告げた。発信音の後切り取ったような沈黙が始まった。そしてふっと途絶え、もう一度発信音が鳴った。再び電話が鳴り、同じことが繰り返された。まるでそこにいるのがわかっているのだと言わんばかりにコールは響き、無言は絢子を圧迫した。それは30分程続いた。
 絢子は電話の側で立ち尽くしている。
 涙が溢れ流れた。かけてくる女のサインは充分に伝わったと思う。ここまでやれる熱情は、絢子より夫を愛している証なのだと言いたいのだろうと思う。確かに、宇津木に執着している今の絢子に躊躇いなく夫を愛しているとは言い難いものがある。仮に女が、宇津木の存在を知りそれを切り出してくれば、絢子は女の言葉を受け入れざる得ないだろう。
 それでも、絢子に必要なのは夫なのだ。愛していると言えるのは夫だけだ。
 それを「執着」と呼ぶのかもしれない。
 絢子は涙を拭い頭を振った。無言電話はかかってきた時と同じように、突然終わった。録音有りを示す点滅の早さが、絢子の胸を締め付ける。
 宇津木に逢いたかったと思う。若い身体に触れたかったと思う。そう、これこそが執着なのだ。絢子の宇津木への思いは執着以外のなにものでもないのだと、絢子は苦く思う。
 夫は12時を回って、小諸に送られて帰ってきた。彼の父親と一緒に飲んでいたという夫は泥酔していて、寝室に運ぶのに小諸の手を借りなければならなかった。
「いきなり迎えに来いっ、だもんね。親父人使い荒いよ」
 小諸は笑いながら言った。夫はベットに入ると、すぐ寝息をたて始めた。
「どうもありがとう。ごめんなさいね、迷惑かけて。ね、お茶飲んでいってよ」
 絢子の言葉に小諸は首を振った。
「これからスタジオ行かなきゃいけないんだ。名のないスタジオミュージシャンってきついよね。こんな夜中でも平気で呼び出されるんだから」
 むしろ楽しそうな口調だ。
「忙しそうね」
「うん、寝る間もない」
 小諸はスニーカーに足を入れながら振り返った。笑みが消えていた。絢子は何? というように微笑んで見せた。
「あやちゃん、宇津木とまだ付き合ってるの?」
 笑みが引きつったのがわかった。絢子は返事が出来なかった。小諸はそんな絢子を見詰め溜息をついた。
「あやちゃん、宇津木はやめといた方がいいよ。傷つくのは、あやちゃんの方だよ」
 絢子は大袈裟に笑って見せた。
「まるで私が誘惑されたみたいじゃない。私が誘ったって思わないの?」
 小諸は頷いた。
「ボクとあやちゃん、生まれた時からの付き合いでしょ。わかるよ。それに宇津木、マジで手が早いしね」
 小諸はシニカルに笑う。そしてもう一度今度は淋しい気に笑った。
「余計な事だってわかってるけど、ボクはあやちゃんのファンだから言わずにいられない」
 小諸は絢子の反応を伺う様に言葉を区切った。絢子は表情のない自分の顔を思った。小諸は息を吐いた。
「ボクから見ても宇津木は人を引き付けるものがある。それはルックスとかじゃなくて、あいつの存在そのものが、引きつけてるんだと思う。でもそれって、あいつが決して受け入れないからなんだ。否定するのでも拒絶するのでもない、ただ受け入れないでいることが反対に人を引きつけてるんだと思う」
 小諸は又言葉を切り息をついた。
「宇津木、まだわかってないんだ、自分のことが。だからちょいちょいトラブルを作ってしまうんだ」
 そうだ、宇津木はわかっていない。宇津木は自分の事を過小評価している。人が熱情を向けるには、それが激しい怒りだとしても、それだけのものがいるのだ。
「あやちゃん、わかるでしょ?」
「…ありがとう、心配してくれて」
 声が掠れていた。小諸は小さく笑んだ。絢子は傷つきたいのかもしれないと思った。初心なティーンエイジャーのように。
「噂が立ってきてるんだ。まあ宇津木のファンの子が尾鰭つけて流してるから、すごいいい加減な奴なんだけど」
 どんなものかは想像がつく。
「あやちゃん、宇津木を愛しているの?」
 絢子は首を振った。そうだと言えれば幸福だろうと思う。けれど夫への愛よりも、宇津木自身の存在がYESを拒絶する。
「だから、私が宇津木君を傷つけるわね」
 小諸が首を振り、はっきり言った。
「宇津木は傷つかないよ、こんなことで」
 小諸が出ていった後、絢子はそのままドアを見詰めていた。あの夏の終りの海岸で見た宇津木の遠い視線が、脳裏にちらついている。それに昼の女の子の赤いコートと泣き顔が重なる。「今」を見ていない宇津木の瞳。痛みさえ残せない瞳。
 小諸は正しい。やはり傷つくのは絢子の方なのだ。

 

     はきっかけを失った。
 忙しいことを理由に、話を先へ先へ遅らせているようだった。
 絢子も夫が言い出さない限り聞くつもりはない。ただ、執拗に続く無言電話が絢子の神経を苛立たせ続けている。それは、夫の話が終わったものではないのだと訴えている。電話の向こうの人も、先に延ばされて辛い思いを開いているのだろう。
 それにしても良くない傾向だと思う。こんな風に言いたいことを言えないのは、対等でないからだ。夫が負い目を感じているからにしろ、絢子に妻という位置があるにしろ、言いたいことを飲み込むようでは終りだと思う。それは2人の目指してきたものとは反対のものだと思う。互いをパートナーと呼び、対等であろうとやってきた筈なのに、何がそれを狂わせたのだろう。何を間違ったのだろう。いや、そもそもそれは理想であって現実ではなかったのだろうか。
 絢子は頭を振って否定する。
 目の前には冷めていく紅茶がある。絢子は、肩をすくめコートの衿を立て急ぎ足に行く人を見下ろしている。宇津木の為に光の射し込む窓際の席にいるのに、宇津木はやって来ない。絢子は時計に目を落す。約束の時間をまだ10分ほど過ぎただけだ。でも、あと5分待って来なければ、絢子は帰ろうと思った。宇津木を捨てることはいつだって出来るのだ。そしてその選択は自分にあるのだと思っていたかった。
「宇津木は傷つかないよ、こんなことで」
 小諸の言葉は、絢子の中でいつまでも淀んでいる。だから、むしろ自分自身で自分の強さを確かめたかった。
 時計をもう一度見て、立ち上がった。窓の外を見た。スクランブル交差点を斜めに走ってくる宇津木のレザーのブルゾンがあった。絢子は溜息と一緒に座り直した。宇津木が走ってくるのが嬉しかった。
「ごめん、遅くなって」
 宇津木はまずそう言ってから、席に着いた。オーダーを取りに来たウェイトレスに、恥ずかしそうにココアを頼む。ウェイトレスが立ち去ると、宇津木は絢子に向かって小さく舌を出した。そんな子供っぽい仕草が似合わなくなっている。絢子は宇津木の頬が幾分シャープになっているのにふと気付いた。あの夏の日差しは遠いと思う。
 宇津木は見詰める絢子の視線を真っ直ぐ受け止めている。濁りのない輝いている瞳。未来を見ている瞳。絢子は自分の払っている努力、ストイックな生活が虚しいと思った。上昇途中にある命の前では、それはもう延命作業でしかない。絢子は指の隙間から零れ落ちる時間を感じる。
 白い湯気を立てたココアが運ばれ、宇津木はいつものようにカップを両手に持った。
「何かあったの? 元気ないね」
 絢子は笑って見せた。ぼんやりしていたのかもしれない。宇津木が心配そうな表情をしている。
「そうね、無言電話がしつこくて、あまり寝てないからじゃないかしら」
 絢子は目の下の隈が、上手くカバーされているか気になる。無邪気に宇津木が笑う。
「じゃ、寝ようか」
 そして立ち上がった。

 

     津木の寝息と鼓動が絢子を切なくさせる。
 夫の言い出しかねている「離婚」という言葉を、宇津木はどう受けとめるだろうか。絢子には覚悟がある。夫がそうしたいと言うのならそうするだろう。どれだけ絢子が夫を愛していても、夫がそれを受けとめてくれないのなら仕方ない。引き止める為に、泣いてすがりつく女には綾子はなれない。
 宇津木の細い顎に触れる。
 きっと宇津木は他人事のように思うのだろう。どんなに身体を重ねても、心は遠いと思う。宇津木との関係には、夫との間のような一体感はない。
 気付いたのか、絢子の肩を抱いた宇津木の手に力が入った。
 それでも宇津木はつかの間の安らぎを華やぎを与えてくれる。
 絢子は、夫も宇津木も失いたくない自分を、正直で狡いと思う。

     が口にしたのは「離婚」ではなかった。
 愛人の妊娠を告げる夫の唇に、絢子は哀れみを覚えた。言い出せなかった1ヶ月半の間に夫は随分やつれてしまった。
「じゃ、私と離婚するの?」
 絢子の言葉に、夫は意外なことを聞いたかのように目を見開き頭を振った。そんな夫を見ながら、Xマスプレゼントはやはりあのネクタイにしようと、思った自分を絢子は嫌悪する。
「でも、赤ちゃんにはお父さんが必要でしょう」
 夫は唇を噛み顔をしかめた。絢子はマグカップの紅茶を飲み干した。
「……私と別れて、若いのと一緒になるのか?」
 長い沈黙の後夫が呟いた。悲しいと絢子は思う。それは全く別の次元の問題だ。夫を愛しているから、夫のために冷静でいようとしていることをそんな風に取るなんて情けない。
「丁度良かったってところか?」
 夫の皮肉を聞きたくなくて、絢子は手を伸ばして指で夫の唇を塞いだ。夫の目を見詰める。口にしなくても伝わる想いはある筈だ。真実なら伝わる筈だ。汚い言葉で2人が築いたものを汚してほしくはない。
 絢子は自分の手が微かに震えているのに驚く。夫の手が、その絢子の手を握った。
「絢子を失いたくない」
 絞り出すように言った。
「子供は認知する。でも絢子とは別れない」
 同時に二つのものを得ようとするすることは罪なのだろうか。
「子供を犠牲にしないで」
 今ならまだ惰性でない生き方が出来る力があると感じる。夫と対等の関係でなくなってしまうのなら、別れた方がましだ。卑屈な夫なんて見たくない。今なら潔い生き方が出来る。
 そのくせ夫に引き寄せられながら、絢子は宇津木のことを考えていた。

       が変わった。
 絢子と夫は何もなかったように、いつもと変わらない日々を送っている。ただ無言電話はなくなり、夫が無断外泊をするようになった。宇津木との関係も続いている。夫のことも宇津木のことも噂になり、絢子の周りを取り囲み始めている。やっかみや妬みの混ざったそれを冷笑できる余裕は、今の絢子にはなかった。子供を犠牲にしたくない。答えは理解していても行動を起こすことが出来ない。
 絢子は自分が思っていた程、強くないことを知って嘲笑する。
 終りは突然だった。
 外出しようと玄関に出たところに電話が鳴った。引き返したが受話器を取る前に留守番機能が作動し始めていた。
「絢子」
 夫の暗く沈んだ声だった。絢子は、受話器を取ることが出来なかった。
「今夜は帰れない」
 夫は長い息をついた。
「今、病院にいる。駄目だった。流産した」
 夫はそのまま黙ってしまった。無言に反応して留守録の終了の発信音が鳴った。録音有りを示す光が瞬き始めた。
 絢子は夫の言葉を反芻する。それが意味をなすには長い時間がかかった。ぼんやりしたままで、ロビーで待つ宇津木の顔を見た時、自分がどうやってここまで来たのかよくわからなかった。
「何があったの? 顔色が良くない」
 宇津木は絢子を見るなり言った。何でもないと言うつもりだったのに声は出ず、絢子は泣き出してしまった。
 宇津木は戸惑いながら、それでも力強く絢子の肩を抱くようにしてロビーを出た。部屋へ上がるエレベーターの中で、宇津木は激しく絢子を抱き締めた。いつまでも涙は止まらず、宇津木の胸が濡れた。宇津木は腕に力を込める。絢子はこのまま崩れることを願った。
「…夫と別れるかもしれないわ」
 死んでしまった命を誰が負うのだろう。もう決してニュートラルには戻れない。負うものがある以上、代償を払わなければならない。離婚が代償になるとは思わないけれど、絢子にできることはそれだけだ。
 宇津木は動じる気配もなく、絢子の胸をまさぐっている。
「夫と別れたら、私と結婚してくれる?」
 手が止まった。
「うん、いいよ」
 宇津木は躊躇うことなく答えた。瞬間、絢子は終わったのだと感じた。
「前髪切ってくれる?」
 嘘の混ざった言葉は甘い。思えば宇津木は一度も「好きだ」とか「愛している」とかは言わなかった。だから宇津木の目の真実が見えていた。甘い言葉を口にしなかったから、絢子は宇津木を信じることができた。
 けれど今の躊躇いのない返事は、信じることができない。嘘か気休めにしか聞こえない。
 いっそ拒絶してほしかったと絢子は思う。そうすれば絢子は少しだけ罪の意識を感じずにすむ。死んだ子供が自分たちの犠牲になったのではないかという思いを振り払うことができる。
 違う。絢子が宇津木を信じていないのだ。何も捨てられないのは、絢子自身だ。拒絶してくれれば、それに気付かずにすんだ。
 宇津木の前髪が手の中に落ちる。無防備に、何もなかったように、宇津木は目を閉じている。
 痛みさえ残せないのなら―
 絢子は手を伸ばして、宇津木の肩にかかる髪にハサミを入れた。鈍い音がして、髪ははらはらと舞った。宇津木が目を開けた。絢子はそのまま宇津木の髪を切り続けた。切る度に胸が痛んだ。
 宇津木は何も言わなかった。抵抗もしなかった。ただ、老成した悲しい目をして鏡の中の絢子を見ていた。
 宇津木を置いて部屋を出た時、絢子は自分の中の最後の輝きが消えたのを知った。

     

 け方、夫が帰ってきた。
「私は、あなたを失いたくないの」
 待っていた絢子に驚いた夫は、さらに絢子の言葉に当惑していた。泣いてすがりつくことは出来ないけれど、正直になることは出来る。
「別れないで。私はあなたを愛しているのよ」
 夫が絢子を抱き締めた。子供の命を犠牲にしようとしている苦さがあった。けれど、逃げてはいられないのだ。人はいつでも人を犠牲にして生きてゆく。
 夫の胸に顔を埋めながら、絢子はもし宇津木がもっと別の返事をしたら、こうやって夫にすがることはできなかっただろうと思った。
「うん、いいよ」
 思い出すと、たったそれだけなのに切なくなる程甘い。

 

    津木が絢子を待っている。
 絢子がめちゃくちゃに切った髪は黒い帽子で隠していたが、こんなに離れていても酷いのがわかった。そのまま揃えもしなかったのだろうか。宇津木のそんな優しさが絢子には悲しい。
 宇津木は頬杖をついて、来ない絢子をじっと待っている。店に人が入ってくる度、ドアの方を見やり肩を落す。車の中から見ている絢子の視線には気付かない。
 絢子は車を出した。
 1時間後、店の前を通ると、宇津木は同じように頬杖をついていた。見なれた背中が心細気だった。
 2時間後にはいなかった。
 それでも髪が元に戻るまで、宇津木は絢子のものだ。  
 

                                    END

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