Lonely Avenue

11  Agitato(激して)

 そして、冴子は冷ややかに笑った。
 拓馬が帰ってくるのに後5分、いや8分はかかるだろう。それだけあれば充分だ。
 冴子は、ベッドの端に掛けてあった水色のタオルを取ると、静かに近づいた。
 横たわる相田一美は、焦点の合わない視線を天井に向けている。ふっくらとした頬は幼く、もう冴子と同じ歳には見えなかった。
 戸惑っている時間はない。
 冴子は、タオル越しに右手で相田一美の口を塞いだ。何が起こったのかわからないまま、一美は大きく目を見開いている。
「声が漏れては困るのよ」
 低く囁いた。
 呼吸をゆっくり整える。神経を集中させる。
 気配を察したのか、タオル越しにくぐもった呻き声が伝わった。
「一美、私言った筈よ。牙のないものは近づくなって」
 ザワッと音を立てて、髪が舞い上がり始めた。細胞が、変形していくのがわかる。
 まぶたの奥に、あのロスの夕日が、血まみれの岩石砂漠が、じわじわと広がっていく。
 一美は、断続的に悲鳴を上げている。けれどそれは、押さえ付けられてタオルに空しく吸い込まれていくだけだった。
 冴子は、嘲笑う。
「一美、恐いの?」
 その声は、自分のものとは思えない程曇った不明瞭な声だった。
 そして、
 冴子は、目を見開いた!





 激しい勢いで、ドアが開いた。
「先生」
 叫びながら、冴子が出てくる。強張った表情。驚いて立ち竦んだ拓馬の脇を抜けて、ナースステーションに駆け込んでいく。拓馬は、病室へ飛び込んだ。
 全身の毛が逆立った。
 相田一美が、又、悲鳴を上げる。ベッドの上で、彼女は獣のように呻きながら、胸を押さえていた。青ざめた頬に汗が光っている。
「……何」
 全身が震えていた。
「何なんだ? この【空気】は」
「そこっ、どいて」
 鋭い声が掛って、医者や看護婦が駆け込んできた。拓馬はよろけるように部屋の隅に寄った。
「カンフル」
「心電図の用意を」
「早く、急いで」
「そっち、押さえてっ」
 医師の声も、一美の叫びも遠い。震えは止まらない。拓馬は、視線を虚ろにさ迷わせている。
「な、なぜ気付かない。ここじゃ駄目なんだ。この禍々しい空気の中じゃ」
 死んで逝くのだ。邪悪なそれは、一美を中心に幾重にも取り囲んでいる。震えと、手先の冷たさは、多分そのせいだ。
 一美が、助けを求めて叫ぶ。
 もう遅い。それは、部屋中に満ち満ちている。『死』は、彼女の上に翼を広げた。
 拓馬は立っていられなくなって、壁にもたれかかった。悲鳴に耳を塞ぐ。
 ドアが開いた。
 ゆっくり、音もなく、冴子が滑り込んでくる。
「オーラ…」
 拓馬は呟いた。
 冴子は、怖いぐらいに蒼々と燃えるオーラに包まれていた。苦しみ続ける一美を、じっと見詰めている。彫像のような横顔。唇は固く結ばれ、紅い。
 ふっと、笑った。
 凍てついた横顔の中で、暗緑色に燃える瞳だけが嘲笑を浮かべた。
 が、それも一瞬でしかなかった。





 雨が、フロントガラスを叩く。
 ワイパー越しに、街の明かりが滲んでいる。
 冴子は、おし黙ったままだ。オーラは、まだ激しく燃え盛っている。あれからずっと、彼女は平静だった。それ故、オーラが彼女の胸の内を表しているように拓馬には思えた。
「……もっと早く戻ったら良かったね。あれでも、急いだのだけど。怖かっただろ」
 冴子が拓馬を見やった。無表情のまま、目だけを見開いている。そのまま、ゆっくり自分のバッグを抱え込んだ。
「ありがとう。取ってきてくれて」
 冷たい声だった。拓馬は苦笑した。
「同じ歳って言ってたよね。人が死ぬのって、嫌だね。特に、若い子が死ぬのって」
 前に向き直った冴子は、重い溜息をついた。
 前方の信号が、赤に変わる。
 緩やかに車は止まる。
 雨の音は激しい。車をすっぽり包み込んでしまっている。冴子の体温が微かに伝わってくる。
「あれで、良かったのよ」
 急に、冴子は低く呟いた。驚いて、横顔を見詰めた。
「輪姦されて、狂って、生きていく価値なんて――あれで生きていたと言えるのかしら」
 瞳が妖しく光る。
 固唾を飲んだ。「それは間違っている」と言うべきだと思った。なのに、口の中が渇いて声にならない。
「青よ」
 声に促されて、慌てて向き直る。アクセルを踏み込む。
 駅が近づく。
「……生きていく価値のない人間なんていない」
 冴子は聞こえないように、そっぽ向いたままだ。拓馬は続ける。
「生きていくこと自体に、価値を求めるのは間違っている。どんな人でも、死んで良かったなんていう人はいない」
「もう、いいわ」
 鋭い声に遮られた。
「わかった。もういいわ。もうやめて。一美は死んだわ」
 うんざりしたように言う。その声は、ひどく気怠げで冷たく年老いているかのようだ。拓馬の背中を、異質なものが通り抜ける。それが、病室で感じた異様な空気を思い出させた。
「あのさ、気付かなかった?」
 冴子が醒めた視線を移す。オーラは相変わらず、彼女を囲んでいる。これだけのオーラを持つ人間が、ただの普通の人だとは思えなかった。
「気付いただろう。凄い気配だった」
「何のこと」
 顔をしかめた。
 駅の前に、車を止める。
「本当にここでいいの?」
 顔をしかめたままで頷く。
 問い詰める気など全くなかった。むしろ冴子の表情に、冴子自身がそれに気付いていないのかもしれないと思った。【力】が眠っているのなら、そのままでいる方がいい。
「ただ、君は、あれを感じ取れる筈だと思ったんだ。君は違うから」
 冴子の無表情の顔が、ぐっと近づいてきた。あっと思った瞬間、唇がかぶさっていた。目を開けた冴子の顔が間近にある。光を帯びた暗緑色の双眸。その冴え冴えとした表情に、拓馬は見知らぬ女を見たように思ってゾッとした。
 その気配を察したのか、冴子がすっと身を引いた。躰を翻して、ドアを開けた。
「冴子」
 呼んだ時には、雨の中を駆けていく黒いコートは、人の間に紛れて行こうとしていた。
 拓馬は重い息をついた。
 シルバーグレーのMR2は、そうしてしばらくの間、身動き出来なかった。





 部屋は暗かった。
 冴子は、電気をつけようとして手を止めた。
 横の姿見に自分の姿が映っていた。闇の中で、瞳が緑色に発光している。冴子はゆっくり自分の掌に視線を落とした。
「Here's the smell of the blood still…」(手にはまだ血がついているfrom『マクベス』)
 冴子は、唇を噛んだ。机に近づき、インターホンを押す。
「お嬢様、何でしょう」
「山本、私もう休みます。相田さんから電話があったら、お悔やみ申し上げて、葬儀の日を聞いておいて」
「はい、お休みなさいませ」
 山本の美点は、余計な詮索を決してしないことと、想像力を持ち合わせていないことだ。冴子は笑った。
 そして、又黒いレインコートに袖を通した。クローゼットからパンプスを取り出す。コートのポケットに入れる。
 窓を開け、ベランダに出る。
 雨は少し小振りになっていた。相変わらず、シェパードが庭を走っている。
 冴子は、少し助走をつけると、9mほど先にある木の枝に向かって跳んだ。
 冴子が、完璧なセキュリティシステムを誇る水城邸の外に姿を表したのは、その5分後のことだった。

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