Ｌｏｎｅｌｙ　Ａｖｅｎｕｅ13

　知っているという」ということも又、同罪なのだと薫は知っていた。
　車のウィンドを開け、煙草に火をつける。薄荷煙草特有の刺激が、鼻腔を満たす。
　玄関に車を回して、もう１０分になる。冴子は、まだ出てこない。
　彼女が、相田一美の葬儀に出席すると伝えてきたのは、昨夜父を通してだった。引っ張ってでも連れて行くつもりではいた。が、薫は、冴子からそれを言ったということに、恐れを感じたのだった。
　２年前とは違う。
　少なくとも２年前の彼女は、もっと感情的だった。あの後、側にいた訳でも見ていた訳でもないが、冴子の苛立ちや激しさは確かに伝わってきていた。
　今、彼女は水のように平静だ。
　さっき、華奢な黒いワンピースを着、階段を降りて来た時も、いつもの冷ややかな目をしていた。そこには、動揺の色すらなかった。
　――冴子は、計画的に相田一美を殺した。
　薫は、深く煙を吸うと、溜息と共に吐き出した。
　それを認めなければならないのだと思う。しかも、その要因を作ったのは、他でもない薫自身だということも。
「つまり、何事も無償では手に入らないということなのか」
　薫は、煙草を揉み消した。ドアを開け、車から降りた。
　眼前に、館が城のようにそそり立っている。
　同罪なのだ。知っていながら、告発しないでいることは。
　胸が疼く。
　こうやって、自分の善良性や良心は、鈍化しいつか摩滅してしまうのだろう。なのに、心の中で声がする。気弱になるなと。侮られるな。冴子に侮られたら、全ては終わりだと。
　手を握り締める。
　背後で、車の音がした。
　振り返ると、黒い車が門を抜け、ゆっくり近づいて来ていた。それが、クラウンだとわかった瞬間、薫はつい顔をしかめてしまった。
　車は、薫のクレスタの後に止まる。降りてきた運転手が、後部ドアを開けた。
　やはり。
　薫は、気付かれないように小さく息をついた。
　水伊化学社長、水伊正樹は車から降りると館を仰いだ。それから、薫に目をやり、
「やぁ」
　と、短く言って右手を上げた。薫は、軽く頭を下げた。
「久し振りだね。今日は、高橋君のお供？」
「いえ」
　水伊の絡むような視線に、少し後退った。この男は、苦手だ。というより、生理的嫌悪感を感じる。
　あの蛇のような目。
　育ちの良さを思わせるスマートな外見に反して、あの目はいつも無機質な光を帯びている。妙に似合う口髭が、不遜な印象を与えている。
「何かあったの」
　薫の黒のスーツに目を止めて問う。曖昧に笑って見せる。
　扉が開き、山本が姿を表した。
　薫は、ほっと息をついた。
「いらっしゃいませ。旦那様がお待ちです」
　山本は、丁寧に頭を下げた。それに対して、水伊は頷いて見せただけだった。ゆっくり歩き始める。
　ふてぶてしいと、薫は思う。
　欲も野心も、かまわない。むしろそれは、コンチェルンの為になる。けれど、その器に似つかわしい物であればこそだ。
　水伊はひずんでいる。
　ひずんだ鏡が、ひずんだ像しか結ばないように、水伊は物事を歪ませてしまう。
　薫は、小さく嘲笑した。
「同じ穴のムジナか」
　彼女は、呟いた。
　水伊のパールグレイの気障な背広が、玄関を入って行く。と、声が上がった。
「冴子ちゃん、どうしたの。こんな時間に」
「今日は、おじ様」
　冴子は彼の横を通り過ぎながら、早口に言った。そして、薫を見ると車へ行けと言うように顎をしゃくった。
「ちょっと、冴子ちゃん」
　水伊が振り返り呼ぶ。冴子は無視して、クレスタの後部シートに乗り込んだ。
「出して」
　慌てて運転席に座った薫に、鋭く言った。
　バックミラーに、肩をすくめ不愉快そうな表情をした水伊が映っている。それは、次第に小さくなり消えた。
「――俗物が」
　門を出た所で、冴子が吐き捨てるように言った。
　笑うと、怪訝そうに、
「何」
　と、問うた。
「あ、ああ。私も同じようなこと、思っていたから」
　バックミラー越しに、笑んで見せる。が、冴子は不機嫌な表情のまま、シートに躰を沈めている。
　細いシルエットを描くシンプルな漆黒のワンピース。黒いレースのリボンで髪を束ねている。黒ずくめのせいだろうか。誘拐された少女か、亡国の姫君のように、ひどく孤独に見えた。
　道は空いている。アクセルを踏み込む。とばせば、１０分ぐらいの遅れですむだろう。
｢会長、何かおしゃってた？」
｢別に」
　冴子は無愛想に言う。
「焼香の仕方、教わっただけよ」
　水城老が気付いていないなんて思えない。
　老人はそうやって、＜水城＞の為にという名目で、冴子を庇う。冴子は庇われることによって、人間不信の悪循環に入り込んでいく。
　そして、これが又、別の模様の悪循環を形成していくのだ。
「相田一美を殺したことについて、何もおっしゃらなかったの？」
「馬鹿言わないでよ」
　冴子はせせら笑う。
「薫、勘繰るのも好い加減にして。彼女は、心臓発作で死んだのよ」
　無表情の中、瞳の奥が笑っている。冷たい笑み。
　薫は、さらにアクセルを踏み込んだ。
　２年前とは違う。
　冴子はようやく気付いたのだ。冴子を取り巻く悪循環の模様に。
　だから、冴子は自らの意思で葬儀に出ようとしている。保身の為、悪循環の要因である＜水城＞を介入させない為、自ら動き始めた。
「でも、なぜ。彼女が正気に戻ることはまずないって…」
「薫」
　大声で遮られた。
「好い加減にしなさい。あなた、出しゃばりすぎよ」
　冴子の命令口調にはっとした。冴子は鋭く不遜な表情をしている。その表情には、水城老と重なるものがあった。
「好奇心、猫を殺す」
　冴子が、嘲笑と共に呟いた。

　冴子が焼香する。
　軽く目を伏せ、生真面目な表情をして、彼女は遺族に頭を下げる。
　彼女が姿を見せた時、制服の高校生が少しざわめいた。そのざわめきは、好意的なものではなく、悪意や恐れからくるものであるのは明かだった。
　冴子は、眉一つ動かさない。
　相田一美の歪んだ死顔を見ても、無表情のままだった。
　――人間性なんて、幻想だ。偏った、都合のよい戯言にすぎない。
　薫は、思う。
「ごめんなさい。あなたを守れなくて
　薫は、相田一美の胸元に花を置きながら、小さな声で囁いた。