Lonely　Avenue16

　青藍の海は、重く穏やかにうねっていた。
　向こうの島々は常盤色に、ぼんやり見える。真白いフェリーがゆっくり海を渡っていく。
　拓馬は、小さな溜息をついた。
　突堤の先端に、腰を降ろす。人の気配に、岩に戯れる海虫達がさっと姿を消した。
　結局、母は現れなかった。
　拓馬は、自分がどれほど母に疎まれていたのか、改めて知らされたような気がした。
　もう、顔も忘れてしまった。ただ、握った手の温もりと白さ。そして、怯えた瞳の色だけを覚えている。
　４つだった。
　島に連れてこられ、母は３日間祖母と言い争い、４日目に一人で海を渡って行ってしまった。それ以後、一度も、葉書１枚も寄越したこともない。生死すらわからない。
　それを辛いとは思わない。
　実際、殴られる痛みや罵倒から解放されて、安堵すらした。
　なのに、母に捨てられたという重みは、母に疎まれたという痛みは、常に波のように打ち寄せてくる。寄せては返し、返しては寄せる。忘れることなんか出来なかった。
　母は【力】を恐れたのだと、祖母は言った。今の、口寄せや占い等を主とする【力】でなく、語り伝えられてきた月島の真の【力】を、ただ恐れたのだと。
　風が吹いて、着物の白い袖が翻る。水浅葱の袴の色が微妙に鮮やかに見える。
　先祖返り。でも、それは今の世の中には必要ではない。制御しきれない【力】は無用の長物であり、強力過ぎる【力】は災いでしかない。
　それでも意味があるのだと、祖母は言う。
「確かにな。島にはお前の【力】は強すぎてもて余すけんど。お前が【力】を持って生まれてきた事には、ちゃんと意味がある。お前は、お前を必要とする女に会う。お前はその人を導かにゃいけん。その為の【力】や」
　救いだった。祖母が、そう断言してくれる、それだけが救いだったような気がする。
「――坊ちゃん、宮家の坊ちゃん」
　背後から呼ばれて振り向いた。
　突堤の根元辺りに、町長が立っていた。
「坊ちゃん、もう終わったんですかいのお」
　町長が大声で言う。拓馬は立ち上がった。風で、袖と袴の裾がバタバタと音を立てる。
「お寺さんの方は、終わりましたけんどぉ、宮の方に席、用意してますけん、そっち行って下さい。俊兄ぃがいますけん」
　風に負けない様に、声を張り上げる。
「そんじゃ、お墓参らせてもろうてから、寄らせてもらいます」
　町長は深々と頭を下げ、背を向けた。
　しばらく後ろ姿を見送って、拓馬は又岩に腰を降ろした。
　波が少し高くなる。
　潮が引き始めたのだろう。
　彼を見詰める鴎が、空を旋回している。
　波の音だけが、繰り返している。それ以外、何の音もない。静寂が、全てを支配している。ここでは、時間すら黙してしまう。ここは、御神の門にいと近き島。
｢――ま、拓馬｣
　肩を叩かれ、我に返った。
｢お前、こんなところで寝たらいけんが」
　笑いながら、俊が言った。
「あぁ、俊兄ぃ。俺、寝とった？」
「うん。熟睡しとった」
　見れば、潮は何時の間にか引いてしまい、突堤の下には白い砂が現れていた。
「あんな姿勢で、躰痛くないんか？」
　顔を上げて、俊を見る。拓馬と違って、白い着物と水浅葱の袴が、自然でよく似合っている。今日は視線が優しい。
｢町長が、お前がここにおるって」
　俊が、拓馬の横に腰を降ろす。
｢俊兄ぃ、ごめん。逃げちゃって」
「かまわんさ。おいさんが、ちゃんとやってくれとるし、テレビ局が来とったから、お前おらん方が良かった」
　俊が、袖から煙草を取り出す。火をつける。吐き出した煙が、海に向かって流れて行く。
「やっと吸えるわ」
　俊は、肩をすくめた。
「テレビ局なんて言ってた？」
　拓馬は不安を覚えて問うた。
｢来週、ばあちゃんの特集組むんだと。ばあちゃんはもう二度と出ん、すごい霊能者だったって、おらんで(叫んで）帰った。あのディレクター」
　拓馬を安堵させる為か、俊も笑顔を見せた。
「でも、実際ばあちゃん、すごかったけんね」
　拓馬は、膝を抱え込んだ。俊の腕が伸びて、拓馬の頭を軽く弾いた。表情が固くなっている。
「ええか。ここの事は、月島の宮家の事は、おいさんに任せたんやけん、お前が口出すことじゃない」
　拓馬の気持ちを察してか、強い口調で言った。
「そんでも、俊兄ぃ」
｢お前が、口寄せや加持祈祷が出来るんか？」
　低い声に遮られた。
「ええかげんにせいよ」
　声は、次第に熱く激してくる。
｢何の為に、お前の【力】隠してきたんか？　何の為に、お前は島出たんか？　お前、ばあちゃんの思いやおいさんの好意、のふぞに（無駄に）してしまう気か！」
　全身が震えている。冷たい怒りが、無防備の心に乱入して全身をなぶる。なぶる。言葉が途絶えても、感情が迫ってくる。息が出来ない。精神の痛みが、肉体の苦痛を伴ってくる。
「……俊兄ぃ…」
　掠れた声が漏れた。とたん、強い怒りの圧迫が消えた。
　俊は息をついて、首を振った。
「すまん」
　固い声で、無表情のまま言う。
「おらんで、悪かった」
　２本目の煙草に火をつけた。
　【力】を持て余す外孫に、無い内孫。そして、少しある甥。祖母の選択は、この上もなく正しい。
「拓馬、ばあちゃんの言うた通りにしろ。ばあちゃんは正しい。ばあちゃんの愛情をのふぞにするな。本当に、お前を思っとったんは、ばあちゃんだけや」
　無機質な声。
　何かあったのだ。
　けれど、何なのかはわからない。それを推察するのさえ、あの怒りの前でははばかられる様な気がする。
　俊は、ゆっくり煙を吐き出す。前髪をかき上げる。
「俊兄ぃ」
　俊は、引きつった笑みを浮かべた。拓馬の背中を優しくニ､三度叩く。
　風が弱くなってくる。
　海が、少し朱を帯び始めている。島を巡るフェリーが、桟橋へ向かって行く。
　俊が、又煙草に火をつける。
「――俊兄ぃ、俺、会ったんだ」
　何に、と問うように俊が顔を向けた。
「その【運命の少女】ってのに。まだ確信まで持てんけど、多分」
　冴子の温もりが、蘇ってくる。
「すきよ、拓馬」
　澄んだ、涼やかな声。仕草の一つ一つが、ストップモーションの様に、浮かんでは消える。
「拓馬」
　俊が、煙草を岩に押しつけて消した。何かを言おうと、口を動かしたが言葉にならない。が、しばらくして、
「よかったな」
　と、ポツリと言った。
　フェリーが、月島を出る。松山に向かって行く。俊は、その軌跡を見詰めている。
「――拓馬、俺、アメリカへ行く」
　一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「い、いつ？　取材？」
「ん、取材やけど、会社からは金が出ん。それで、川西さんに金を借りたけん」
「俊兄ぃ！」
　拓馬は絶句した。
「なんで…」
「お前には悪いと思う」
　俊は、海を見詰める。波頭は金色に光り始め、鴎を群れをなして飛んでいく。もう、船の姿すらない。
「来週の月曜日に出て、３週間ぐらいの予定だから」
　俊は立ち上がった。
「すまんけど、そういうことやけん……そろそろ行くわ」
　そして、ゆっくり歩き出した。
「――俊兄ぃ」
　振り向かない。
「俊兄ぃ！」
　やっと立ち止まった。
「ごめんなぁ、俊兄ぃ、ごめんなぁ」
　俊は笑って首を振った。
「気をつけて、アメリカ、気をつけてな」
　俊は頷き、背を向けた。
　そして、行ってしまった。
　拓馬は、そこにいた。
　いつか、風が凪いだ。