Lonely　Avenue17

　受話器の奥、コールは続いている。
「３９…４０…４１…」
　冴子は舌打ちすると、受話器を戻した。溜息をつき、もう一度受話器を握った。が、やめた。
「あ、あのう」
　背後で声がした。振り返ると、２日前から働き始めた吉田美奈子が、半分開いたドアの隙間から顔を覗かせていた。
「あのお、もう、降りて来て下さるようにって」
　眉を寄せる。丸い顔に似合いの間延びした彼女の口調。馬鹿じゃないのかと思う。
　冴子は向き直ると姿見の前に行き、イヤリングをつけ始めた。
「あのお」
「すぐ行くわ」
　鏡に向いたまま、鋭く答える。背後で躰をすくませる気配がした。足音が、走るように遠ざかって行った。
　鏡の中では、プルシャンブルーのサテンのドレスが鈍い光を放っていた。たっぷりとしたフレアのせいか、色のせいか、自分の姿がひどく華奢に見える。
　ブルーは似合わないと思う。
　確かに静音はブルーの似合う人だったし、よく着てもいた。だから、娘にも似合う筈だなんて間違っている。それが、祖父にはわからない。わかっていたとしても、祖父の与えるものは＜ブルー＞だ。
　瞬間、冴子は母を疎ましいと思った。
　青を映して、暗緑色の瞳が暗く沈む。銀のイヤリングの反射光が、瞳の中をチラついている。
　息をつき、フレアの乱れを正した。
　そして、身を翻した。

　まるで『虚数』だと思う。
　平方すると負になる。現実には決して存在しない理論上だけの存在。
　ここに集まった者は、皆そんな存在だ。だから、食器の触れ合う音すら、どこか空々しい。
　冴子は、酸味の足りない鴨のオレンジ煮をゆっくり口に運んだ。
　親族の全て、義妹――水地未亡人。亡姉の息子――高橋。亡弟の息子――水尾、水伊の兄弟。水地夫人の娘――水尾の妻である水尾芳美に水地麻美。そして、薫。祖母の誕生日といえ、全員が揃うというこは珍しかった。
「あなたを見に来るのよ」
　昨夜、煙草をふかしながら薫が言ったのを思い出す。
「２年振りだし、完全にあなたを認めたという訳ではないから。あなたの次がまだ決まっていないというのが問題なのよ」
　冴子は、奥歯で軟骨を噛み砕いた。
　今夜の薫は、モーブ色のジョーゼットのドレスを着て、眼鏡を外し、華やかに化粧をしている。そのせいだろう、ファッション誌のモデルのようだった。
「冴子」
　呼ばれて、一番端の席に目をやった。
　鶯色の着物を着た水地未亡人が、ワイングラスを手にしながら、もう一度、
「冴子」
　と、呼んだ。上品な穏やかな顔立ちだが、細い顎の線が意思の強さを示している。いや、彼女だけではない。ここにいる人間全てが、姿形の端々に同一の血の繋がりを確かに表わしている。
「冴子は、今年で１８になるのよね」
　曖昧に笑んでみせた。次に来る言葉は、想像できる。
「もう、婿を決めないとね」
　やはり。冴子は黙ったまま、ワイングラスに口をつけた。ワインは妙に甘くて舌に残る。
「まだ早いのではありませんか。お義母さん」
　水尾が冴子を見て言う。
「あら、そんなことないわよ。ねぇ、伯父様もそうお思いになるでしょう」
　横合いから水尾芳美が言い、祖父に同意を求めるように見た。水地未亡人の人の良さそうな所だけを強調したような彼女。ローズピンクのドレスのせいか、少女のような雰囲気がある。だから、『人畜無害』の水尾とは似合いの夫婦なのだろう。
「そうですかね。私は、まだ早いと思いますよ
　祖父が何も言いそうにないのを見て、水伊が砕けた調子で言った。相変わらずの気障な口髭でシニカルに笑う。黒いタキシードが似合いすぎて皮肉だ。
「早くに結婚すれば良いってものじゃないでしょう」
　４４歳で独身の彼が言うのは、まるでリアルティを欠いている。
　冴子は、嘲笑をワイングラスで隠す。
「いいえ、早い方がいいに決まってます。放っておけば、貴方みたいになりますもの」
　水地未亡人の強い調子に、水伊が苦笑する。祖父は、聞いていないような無表情のまま何も言わない。薫が、不安気に見ているのが目の端に映る。
　冴子は、小さく息をついた。
　甘い香と共に、山本と吉田がデザートを運んでくる。
「――冴子」
　ふと思い付いたように、水地麻美が言った。
　躰にフィットした深紅、クリムゾンのドレス。ウェーブのかかった艶やかな黒髪。顔立ちの端正な水城一族の中でも、彼女は極めて彫りの深い顔立ちをしている。咲き誇る大輪の紅薔薇。２１歳の時の夫も、２７歳の時の夫も１年余りで追い出している。３２歳の今は、『水地インテリア』の社長業の合間に、世界中を飛び回って男漁りをしているらしい。
「何ですか？　麻美おばさま」
　白い豊満な胸の谷間から、ミュゲの香りがむっと匂ってくる。
「冴子、貴方、早く結婚しなさい。静音さんみたいに馬鹿なことをする前に」
　瞬間、部屋中の音が途絶えた。
　水地麻美の光る紅い唇が、ニィと動く。高橋が慌てた表情で、祖父と冴子を交互に見ている。視界の隅の薫は、目を見開いている。
「そうねぇ。静音さんも、そろそろお嫁入りしなくちゃねぇ」
　急に間延びした声がした。
　祖母は、冴子を見詰め、
「ねぇ、静音さん」
　と、囁いた。
「あなた、いい方を探して下さいな」
　妙に１本調子な口調が、彼女の病の深さを物語っている。彼女は、青い服を着た時だけ冴子を静音として認識する。
「和正さんのお嫁さんも、選ばなくてはねぇ。和正さん、早く帰ってくればよろしいのに」
　息子が帰らない。それ以外の不自然さは、彼女の中では像を結ばない。彼女は、彼女のみの岸辺に佇んでいる。
　冴子は、祖母から目を反らせた。スプーンでサヴァイヨンソースのかかったブラマンジュをいじり始めた。白ワインの匂いがきつい。
　ようやく緊張が解けたのか、スプーンの触れる金属音がし始めた。
　茶番だ。
　冴子は、青い服を着せたがる祖父の意図を改めて知らされたと思った。
　静音と重ねられるのには、吐き気がする。しかも、知らなすぎる静音を否定することも出来ない。死人は常に美化されていくものだ。
　冴子は、ブラマンジェを崩す。匂いが気になって、口に運べない。ただ、機械的に崩していく。
「改めて、言うことではないが」
　コーヒーが運ばれると、祖父が重々しく口を開いた。
「冴子が１８になったら、会長代理とする。頃合を見計らって、冴子に全てを譲り私は引退するつもりだ」
「……お兄様。もし、冴子に、何かあった場合はどうなりますの」
　水地未亡人が、ゆっくり問うた。多分、７年前から聞きたくて聞けなかった問い。
　冴子は、胸の中で嘲笑する。
「さあ、まだ決めていないが、お前達の誰かに譲ることになるのは確かだ」
　祖父は苦笑しながら、ナプキンで口を拭った。
　それを合図に、冴子は席を立った。

　しばらく迷ったが、結局受話器を取り上げた。
　真っ暗な書斎の中、外線を示すオレンジ色の小さな灯が浮かぶ。
　一つ一つ、確かめるようにプッシュする。一瞬の沈黙。そして、コールが低く響き始めた。
　帰ってくるのは、昨日の予定だった。きっと、何かの事情で帰れなかったのだろう。そして、拓馬には電話番号も何も教えていないのだから、彼の方から連絡することは出来ない。
　けれど。
　コールは、３０を過ぎた。
　引き際だ。
　所詮、この身の重さを、彼に負わせることは出来ない。彼に、そんな力はない。それに、拒絶され憎まれるのは、もう見たくない。相田一美やＭＡＲＩＡ＝ＷＨＩＴＥのように。
　薫の言った通りだ。
　逃げて、現実から逃げ続けて。その先に彼を求めようというのは、酷だ。いや、自分自身許せない。
　彼の温もり。愛しいと思うけれど。
　いつか、牙にかけない為に…。
　冴子は、溜息をついた。
「…Ｓｏ　Ｌｏｎｇ…」
　低く、囁いた。と、背後でカタッという音がした。
「誰」
　受話器を置きながら、きっと振り向く。
　半開きのドアの隙間に、誰かが立っている。その間をチラッと、モーブ色のドレスが走った。
「…誰？」
　大きな黒い人影。逆光でよくわからない。
　男は、ゆっくりドアを開け中に入ると、明かりをつけた。
　閃光に目がくらむ。
　少しして目を開けると、水伊がすぐ側に立っていた。
「――変っているね」
　冴子を覗き込むようにして言う。
「冴子ちゃんの目、明るい所より暗い所の方が、緑色に見えるね」
　瞳を覗きこもうとする。冴子は顔を背けた。葉巻と、ブランデーの匂いが漂ってくる。
「そこ、薫、いた？」
「ん、いたよ。向こう行っちゃったけど」
　水伊は苦笑しながら、冴子の側を離れた。近くのソファに腰を降ろす。冴子が舌打ちをしたのを、愉快気に見ている。
「それにしても、あんな真っ暗な中で何してたの」
「おじ様、今晩、お泊まりになるの？」
　問いを無視して、冴子は彼の前の椅子に座り足を組んだ。
「ああ、兄貴夫婦は帰るけどね。あそこは子供が小さいから」
「そう」
　息が詰まる。水伊が、ポケットから細い葉巻を取り出すと火をつけた。その匂いが、一層息を苦しくさせる。
「冴子ちゃん、広間行かないの。皆、ビリヤードしてたよ」
「いいえ。もう」
　冴子は、逃げ出す言い訳を探す。
「勉強しなきゃいけないから」
　とたん、水伊がくっと笑った。冴子もつられて笑う。笑いながら、立ち上がった。肩をすくめる。
「本当に、学生らしく勉強してきます」
　そして、ドアへ行こうとした。
「冴子ちゃん」
　立ちあがった水伊が、呼び止める。冴子は向き直る。
「冴子ちゃん…」
　言葉を探して、水伊の唇が動く。視線がせわしく動く。
「…私と、結婚しないか？」
　言葉があまりにも意外で、一瞬理解できなかった。水伊は、重く一言一言確かめるように続ける。
「結婚しよう。それが一番いい。君が＜水城コンチェルン＞を動かすのは無理だ。私は、君を助けたい。冴子ちゃん、私と結婚して欲しい」
　冴子は、鼻先で笑い身を翻した。
「冴子ちゃん、冗談じゃない。本気なんだ」
　背後で叫ぶ。又、振り向く。水伊の暗い瞳の輝きが、冴子を見詰めている。
「おじ様、ずるいと思う、私」
　冴子はゆっくり言った。でも、正直だとも思う。口にはしないけれど。
「冴子ちゃん…」
　背中を向けた。ドアを閉める時、水伊が複雑な表情のまま立ち尽くしているのが、目の隅に映った。

　又、笑い声が響いてきた。
　あのハスキーな声は、水地麻美だ。
　薫はロビーで一人、ふうと息をついた。
　ずっと電話を見詰めていたが、もう外線を示す灯はつかなかった。
「８７５３・９２２８…」
　薫は、小さく呟いてみた。
　音でわかる。さっき冴子がかけていた番号だ。相手は、多分あのＭＲ２の男だろう。どうするべきかと思う。答えは決まっているけれど。
　男のことを調べ、冴子から離れさせる。それは、早い方がいい。が、冴子を追い詰めるのは本意ではない。檻を眼前にすれば、獣は怯え牙を剥く。
　薫は、唇を噛んだ。
　しばらく考えて、受話器を取り上げた。コンチェルンの調査室を呼び出すと、短く調査を指示する。そして、報告は直接するようにと付け加えた。
　受話器を置くと、急に左肩に重みを感じた。
　それを振り払うように、薫は笑い声に続いている広間に向かって早足に歩き始めた。