Lonely　Avenue18

　異母妹のピアノが、聞こえていた。
　ベートーヴェンのソナタだろうか。聞き覚えのあるメロディーが続く。あの異母妹にしては、しっかりした弾き方をしている。
　拓馬は、庭を見やった。
　夕日に照らされて、低い樹々が金色に光っている。緑が、暗く沈んでいる。
　成城の中心部に位置するここは、車の音もなく、ただ池の水の流れる音だけが、せんせんと響いていた。
　背後で、ドアの開く気配がした。
「さっきまで、俊君が来ていたんだよ」
　和服姿の父は、入って来るなりそう言った。
「知ってます。俊兄ぃの車、出て行くの見たから」
　促されて、ソファに腰掛けながら、拓馬は答えた。同じように、ソファに深く腰を沈めた父が、それでと言うように拓馬を見た。
　曖昧に笑んだ。言葉を探す。
「…俊兄ぃ、明日発つって」
「ああ、３時のフライトだそうだな」
　父は、テーブルの上に手を伸ばし、煙草を取った。火をつける。煙が流れる。
「……あれ、真寿美ですか？」
　言い出しかねて、拓馬は全く別のことを問うた。
「ああ、なかなか上手くなたなくてね。耳障りだろうが、ちょっと我慢してやってくれ」
　目を細め、照れながら言う。拓馬は首を振って見せた。
　こんな父を見る度、なぜ自分と母を捨てたのかと聞いてみたくなる。過去の事は決して問うまいと思ってはいるけれど。
　ドアがノックされた。
　父の妻が、静かに入ってきた。
　手にしたトレイから、コーヒーの香が強く香ってくる。
「拓馬さん、お夕食召し上がって行って頂戴ね」
　彼女は、テーブルにカップを置きながら優しく言った。拓馬は、笑い返し、
「でも、御迷惑でしょう」
　と、戸惑うように父を見た。
「あら、そんなことないわ。あなた。あなたからも、おしゃって下さいな」
　童女のような笑み、父を見る。
「あ、ああ。拓馬、かまわないだろう。食べていきなさい。真寿美達も喜ぶ」
「じゃあ、遠慮なく」
　少し考えてから、小さく頭を下げた。俊兄ぃには、後で電話すればいいだろう。
「支度してきますわ」
　華やいだ声で言って、彼女は軽く身を翻し出て行った。
　それでも、彼女を見ると父が母を捨てた理由が朧げにわかるような気がする。彼女は、父の理想の妻に見える。
　それを好ましいとと感じる一方で、ある淋しさを覚えて止まない。どうしようもないことだ。
「何か、話があるんじゃないのか」
　父が、煙草を揉み消す。コーヒーカップを持ち上げる。
「俊君のことか」
　慎重な口調で問う。
「え、まあ」
　やはりといった表情をした。
　拓馬は、コーヒーを飲んだ。酸味の強いそれは、あまり好みではなかった。
　カップを受け皿に戻す。
「俺、口出しする気なんて、ないけど、……もし、何かって時俊兄ぃを犠牲にしないで下さい」
　言葉がもどかしくて、唇を噛む。
　父が笑う。
「えらく、ぶっそうに聞こえるな。お前の言い方だと」
　笑いながら、カップを口に運ぶ。拓馬は、息を飲み躰を固くした。
「い、いえ。すみません。言い方悪くて……ただ、俺の言いたいのは」
「わかっているよ」
　父は、遮った。
「俊君の方も、同じ事を言っていたよ。今度のことで、お前を縛ることにならないようにって。お前達は本当に兄弟以上に仲が良いな」
　父は微笑む。
　瞬間感じた吐き気を、拓馬は無理矢理飲み込んだ。
「……違う」
　掠れた、小さな声が漏れた。
「本当は、違う」
「え、なんて言った？」
　怪訝な表情で聞き返す。拓馬は、引きつった笑みを見せる。
　――誰にも言えない。
　愛も憎しみも、増えすぎれば変質してしまう。それが自分の中に、俊の中に感じられる。この胸の奥の虚ろな塊。それが、愛ゆえの憎しみか、憎しみゆえの愛か、自分自身でさえわからない。
　危うい狭間だ。
　憎んでいるということに罪悪感を抱き、その償いに愛を深くする。そんなジレンマの間。ただ、お互い自分の内にそれを感じて。そんなことない振りを演じて。
　迷路（ラビリンス）。
　いつか、全てが崩れるかもしれない。均衡が、破れるかもしれない。思いが風化する前に。
　拓馬は不安に唇を噛んだ。悔やまずにはいられない。
　あの時、無神経に彼の『心』に踏み込まなければ、この胸の塊は出来なかったのだろうか？
　溜息が零れた。
「お父さん、俊兄ぃをお願いします」
　祈るような気持ちで、頭を下げた。どうか、この事で彼の罪悪感の増すことのないようにと。
「安心しなさい。悪いようにはしない」
　父の力強さは救いだ。
　拓馬は、父に引き付けられるような感覚を感じた。
　バタバタという足音が、近づいてきた。
「拓馬お兄様」
　勢い良くドアが開き、異母妹達が入ってくる。

　東野が、トランクを借りてきてくれたのは、９時を少し回ってからだった。
「今から荷造りしたんで間に合うんですか」
　いつもと全く変わらない部屋を見て、彼は呆れた様に言った。
「さっきまで仕上げの原稿書いてたから、仕方ないだろう。ま、どうせたいして荷物はないけどな」
　俊は、トランクのロックを確かめながら答えた。ロックは少し固く掛りにくかった。それから台所へ行き、冷蔵庫からバドワイザーを２缶取り出し、１つを東野へ放った。
「ま、座って飲めよ」
「月島さん、俺、車なんですよ」
　ソファに座りながら、東野が大声で言った。
「１缶ぐらい大丈夫さ」
　俊はリンプルを開けた。東野も苦笑し、飲み始めた。飲みながら、俊はテーブルの上に散財する書類をまとめ始めた。
「拓馬君、今夜は来ないんですか」
　東野の視線は、俊の手にある。
「１１時には来るよ。自分の部屋、寄ってから来るってさ。島から帰って、あいつ、部屋に行ってないから」
「明日は、編集室寄って行くんですか」
　さっきから質問ばかりだなと思う。
「ん、ああ。原稿渡さなきゃ」
　束ねた書類の一番上で、水城冴子の横顔が遠くを見ている。Ｆ女学院の校門をバックに、制服を着て早足に歩いている。連休前の隠し撮りだ。少しボケているが、特徴を掴んでいると思う。神々しいまでに、禍々しい美貌の影。
「東野頼んだぞ。特に、吉田美奈子の方」
　東野が、コクっと頷いた。でも、その視線は写真の水城冴子の上だ。
　俊は、又バドを飲んだ。
　東野が帰ったのは、１０時半を過ぎてからだった。送ったついでに、近所のコンビニへ行った。帰ってくると、待っていたようにコールが響き始めた。
　荷物を玄関に放って、部屋に駆け込む。
「俊兄ぃ？　俺」
　受話器の向こうから、拓馬の不機嫌な声がした。
「今夜、もっと遅くなる。いや、やっぱり行かない。明日、朝早くに行くから」
　早口に話す。
「拓馬、どうした？」
　拓馬の珍しい程の不機嫌さに驚いて問うた。
「――電話、かかってこないんだ」
「お前から、お前が、掛ければいいじゃないか」
　言うと、一瞬押し黙った。俊は、手を伸ばして部屋の灯りをつけ、電話を持ってソファに腰を降ろした。
「――だって、俺、彼女の住所も電話番号も知らないんだぜ」
　小さな早口で呟く。
「それで」
「教えてくれないものは、仕方ないじゃないか」
　鋭い口調に、俊はそれ以上言うのは止めた。ただ、
「拓馬、あんまり過信するなよ。もしもの時に、傷つくのはお前なんだから」
　沈黙が続いた。
　幾つかの苦い記憶が、拓馬の中を過ぎているのだろう。喉が渇いて、俊は何度か唾液を飲み下した。
「……俊兄ぃの言いたいこと、わかる。多分」
　拓馬が、小さい声で言った。
「でも、俺、ただ冴子が好きなんだと思う」
　はっきりした口調だった。ふと、引っ掛かりを感じたが、気のせいだと思った。
「今度、ちゃんと紹介してくれよな」
　拓馬の返事が耳に響いた。
　拓馬のことはもいい。あれで、芯は強い。たとえ、その女のことで傷ついても、拓馬は自分の傷は自分で癒すだろう。あれは、それができる人間だ。
　いわゆる取り越し苦労なのだと、苦笑する。
「俊兄ぃ、支度できたの」
「これからだよ。東野がトランク借りてきてくれたから」
「大丈夫かな、そんなんで」
　拓馬が笑った。口調が大分柔らかくなっている。
「電話のところのメモ帳に、持っていくもの書いといたから、ちゃんとチェックして、今夜中にやっとかないと、間に合わないよ」
　さっきの不機嫌さを打ち消すように、軽い調子で言った。電話台を見る。確かにメモに何か書いてある。
「ああ、わかった」
「明日、６時か７時に行くから」
「そんなに早くに来なくていいよ」
「心配だから」
　拓馬は、そこで言葉を区切った。そして少し考えていた。
「俊兄ぃ、俺嫌な予感感じるんだ」
「俺のことか？　俺が事故るのか？」
　聞き流すつもりで問うた。拓馬の声が沈む。
「違う」
　低い呟き。
「そんなんじゃなくて、ただ、今度のことで、俊兄ぃも俺も何かに巻き込まれるような気がする」
「気のせいさ」
　何か言いた気に口を動かす気配がした。
「もう切るぞ。明日、何時でもいいけど、寝てるから勝手にしてろ」
「うん」
　不満気な返事。俊は気に止めず、受話器を置いた。
　窓へ行き、カーテンを開ける。
　小さな灯達が、月を目指し空へ突出している。それは、島で見た天の川のようであり、漁り火のようでもあった。あえかな灯達。相変わらず、河のようにヘッドライトとブレーキランプの灯が流れている。
　俊は、ポケットから煙草を取り出した。
　感傷的になっている自分を、俊は嘲笑する。

　高層ホテルの最上階のそこからは、東京の夜景が見渡せた。美しいけれど、色彩に欠ける。
「薫くん、で、どうだね」
　水伊正樹の声に、薫は向き直った。水伊の横では、水地麻美がさっきからずっと髪を梳いている。今夜は、大胆なスリットの入った黒のドレスだ。口紅が落ちているせいか、不思議と古い映画のヒロインのように見えた。
　薫は、ゆっくり二人を見比べる。
　二人の関係が公然の秘密とはいえ、こんな風に見せつけられるのは不快だった。水伊はシャツとグレイのズボンを着ていたが、ネクタイもカフスもしていない。何よりも部屋に残る微かな匂い。彼等は、薫がこの匂いを知らないと思っていたのだろうか。
　薫は息をついた。答えは出てる。
「おじ様、確かに私は冴子が好きじゃありません。嫌悪しています。でも、答えはＮＯです。御協力は出来ません」
　麻美の手が止まった。水伊がキリっと唇を噛んだ。
「今夜のこと、私の胸に秘めておきます。それから、邪魔もしませんから、信用して下さいますね」
　薫は、二人を一瞥して微笑んだ。
「じゃあ、私はこれで」
　立ちあがる。
「薫ちゃん」
　麻美が呼び止めたが、水伊が制止した。ニィとアルカイックに笑う。
「薫くん、気の変わるのを待っているよ」
　薫は、笑ってその部屋を出た。
　エレベーターのドアが閉まった時、なぜか涙が一つ流れ落ちた。

　飛行機は、ゆっくり滑走路を回り始めた。
　爆音に混ざって、カツカツという足音が近づいて来ている。
「拓馬」
　冴子がやって来る。
　風の強い送迎デッキには、二人しかいない。
　飛行機が走り始める。
　風になびく髪を、冴子は懸命に押さえている。拓馬はその肩に手を伸ばし、少し引き寄せた。
　そして、ＪＡＬ３０５便、ニューヨーク行きは快晴の空に向かって翼を広げた。