Lonely　Avenue20

　これは、夢――。

　闇の中で、声だけが響いている。
「…教えたくない……いいじゃない、別に…」
　凛とした涼やかな声。
「又、電話するから……近いうちに」
　冴子、嘘つき。空港で会ってから、ずっと音沙汰ないじゃないか。
「拓馬、傷つくのはお前なんだ
　低い俊の声。
「でも俊兄ぃ、このままよりはずっとましだよ」
　拓馬の声は、闇に吸い込まれていく。
「傷つきたいんだ。冴子の為なら」
　嘲るように、闇が混沌と蠢く。
「冴子！」
　拓馬は叫ぶ。
「お前は何なんだ」
　闇が重く動く。何処かから流れ込んでくる薄い闇と混ざり、大理石模様を描いている。次第に明度が上がっていく。
　透明な闇が、光と化す。
　白い光。目が眩む。
「――そう、水伊のおじ様が、そんなことをね」
　声が、自分の中からしたような気がして、驚いた。視界にぼんやり影が映り始める。
　影が像を結ぶ。
　人だ。
　眼鏡のフレームが、光っている。セミロングの２２、３歳の女性だ、
「侮られている証拠よ」
　女性の朱の唇が動く。肩幅の広いシルバーグレイのタイトなスーツ。きつい顔立ちは、知性と自信に満ちている。
　視線が勝手に動いた。
　窓の白いカーテンが映る。シンプルだが、贅を尽くした部屋だというのはすぐわかる。天井が高い。洋館なのかもしれない。
「冴子さん、聞いてるの？」
　さっきの女性の声がして、視線が戻った。
「ちゃんと聞いているわ、薫」
　涼やかな声が、自分の中でした。
　やっと、悟った。
　ここは、冴子の意識下なのだ。これは、冴子の視線。今、冴子を通して彼女と同じものを受け止めているのだ。
　――翔んだ。
　始めてではない。大小あわせれば、数え切れない。けれど、全く予備知識のない所へ、そしてその意識下へ完全に入り込んでしまったのは始めてだった。
　呼び寄せるものが、あったのだろうか。
　拓馬は、緊張を解く。冴子が気がつかなければ、もうしばらく『翔び』続けられるはずだ。
「薫、私、気が変わったわ」
　冴子の口調には、嘲るような響きがあった。
「水伊ね、私にプロポーズしたわ。小賢しいったらありゃしない」
　舌打ちをした。視線が、自分の胸元から足元へ移って行く。ソファか何かに、横になっているらしい。亜麻色の大きなセーター。黒いプリントのレーヨンのスカートが、床に向かって垂れている。
　高慢な感じがした。まるで別人のようだと拓馬は思った。
「会長に相談した方がいいみたいね。苦い芽は、早く摘み取らなければ」
　薫と呼ばれた女性は、真顔で言う。
「そう、苦い芽はね」
　冴子が、鼻で笑う。
「薫、私の為に働いてくれうのよね、これから」
　薫の目をじっと見詰める。薫には、何の表情も表れていない。
「マリア＝ホワイトの行方を調べなさい」
　薫の頬が、ピクッと動いた。唇がゆっくり動いて、なぜと問う。
「調査室を使えばすぐでしょ。そうね、来週の今日、朝８時にその時彼女がどこにいるか、それを知らさせなさい」
「……どういうこと」
　薫が、自分の肩を抱えている。それが微かに震えていた。
「電話させればいいのよ。ここに、今、目の前にマリアがいるって」
　冴え冴えとした声の響き。
　拓馬は恐れを感じる。
　――これも、冴子なのか。
「お嬢様」
　くぐもった女の声が、どこかから聞こえてきた。
「冴子お嬢様、離れで旦那様がお呼びです」
　甘えたような若い女の声。どこかにある、インターフォンかららしい。
　冴子が、立ち上がった。
「じゃあ、薫」
　歩き始める。
「来週のこと、しくじらないでよ。あなたの最初の仕事なんだから」
　振り向きもしない。冴子は早足に、部屋を出て行く。長い廊下を抜け、優雅な曲線を描く広い階段を駆け下りる。
　広い館だ。しかも、全ての物の造りが大きく重厚だ。まるで、ヨーロッパの城のような感じだ。
　冴子はポーチから庭に出る。
　芝生の向こうに、うっそうと繁る森がある。
　冴子は、左へ真っ直ぐ歩いていく。その先には、竹林に囲まれた庵があった。
　戸を開ける。香の匂いがした。
「冴子が、上がりなさい」
　奥から、老人の声がした。冴子は、黙ったまま奥へ入っていく。簡素な茶室の中、鋭い眼差しの老人が座っていた。
「座りなさい」
　老人は慣れた仕草で茶をたてている。冴子が、ゆっくり正座すると濃い緑の茶が差し出された。素人目にも高価とわかる、見事な茶碗だ。
　冴子は、手に取った。そして、一息に飲み干してしまった。そのまま、老人の方へ置く。何も言わない。
「このところ、学校に行っていないそうだな」
「出席、足りてますから大丈夫です」
　冴子が、面倒そうな口調で言う。
「お前は、物事をお前の基準でしか考えられないのだな」
　老人は、射る様に冴子を見ている。
「皆、そんなものでしょう、お祖父様」
　拓馬は、一瞬耳を疑った。本当に、この老人は冴子の祖父なのだろうか。確かに、面影がある。けれど、あの冷たい目が孫を見るものなのだろうか。
　急に、冴子が含むように笑いだした。
「この間、水伊のおじ様が、私に結婚申し込んだのよ」
　冴子は、笑い続ける。シニカルな笑い。老人は、少し考える。
「――水伊は、嫌か？」
　冴子が笑うのをやめた。
「いや」
　低い声で言った。躰が緊張している。破棄が、全身に満ちる。上目がちに、まるで身構えて姿勢を低くしているようだ。
「…わかった」
　老人が頷く。
　緊張が解ける。
「だが、冴子。波風を立てぬ為には、それが良策かもしれな――」
「お祖父様！」
　激しく、遮った。
「お祖父様は」
　掠れた声で呟いた。
「いざとなれば、私を売るのだわ。＜水城＞の安全の為には、私を人身御供に差し出すつもりなのだわ」
　老人はなにも言わない。
「お祖父様の思い通りにはさせない」
　冴子を凝視している。
「私は、私を守る。その為に＜水城＞を、盾にするわ」
「――誰だ」
　冴子を見詰めたまま、老人が鋭く言った。
「誰だ、お前は！」
　老人が叫んだ。
　老人の瞳の光が、拓馬の視界一杯に広がる。眩しいと思った瞬間、拓馬は限りない消失感を覚えた。
　――
　白い、見なれた天井があった。
　弾き飛ばされたのだ。第三者に、しかも意図的に。
　拓馬は息を整える。
　あの老人は、一体何者なんだ。
　ベッドの上で、拓馬は疲労で重い躰のまま、答えを探していた。