Lonely　Avenue21

　雨が降っている。
　細い絹糸のような雨。もう、半日も降り続いている。
　血は、雨が洗い流した。傷も乾いた。
　空腹と疲労で、躰は鉛のように重い。
　盗んだだぶだぶのシャツとジーンズも、雨を吸って重く貼り付いている。
　歩き出さなければと、思う。
　こんな所で座り込んでいては、襲ってくれと言っているようなものだ。
　立ちあがって……
　立ち上がる気力がない。
　Ｄａｄｄｙ、ごめんね。
　雨が、躰を打つ。
　目を閉じた。
　もう、どうでもいい。Ｄａｄｄｙは、もういないのだから……。
「……どうしたの」
　声に、ぼんやり目を開けた。
　鮮やかな黄色のレインコートを着た、若い女が覗き込んでいる。
「どうしたの。気分悪いの」
　浅黒い肌。プエリトリカンかもしれない。でも、黒い瞳が優しい。
「ここにいたら、風邪ひくよ。おいで、すぐそこだから。服、乾かそう」
　女は手を伸ばし、脇を支えた。それを振り払う気力さえなかった。
　女に支えられて、やっと立ち上がる。
「大丈夫？　私、マリア＝ホワイト。あんたは？」
　Los　Angelesに、雨が降っていた。

　横で何かが動いた。
　温かく柔らかいものだ。右手が、丸みを帯びたものに触れている。眩しい光が、閉じた瞼を通して射し込んで来る。
「ねぇ」
　重いものが、かぶさってきた。薄目を開けると、女の顔が間近にあった。
　ゆっくりそれが近づく。唇が重なった。舌が差し込まれる。俊は腕を回して、しなやかな女の躰を抱き締めた。女が、足を絡ませてくる。
「ねえ」
　唇を離すと、女は掠れた声で言った。
「あんたって、本当に日本人なの」
　耳元で囁く。耳を噛む。
「そう見えないか」
　俊は、左腕を伸ばしサイドテーブルの上の煙草とライターを取った。片手で煙草を取り出し火をつける。
「見えるけど、あんたの英語、少しアラブ訛りがあるもの」
　俊は、苦笑した。
「一応、外語大のアラビア語学科、卒業したからね」
　女は、ふーんと気のない返事をした。唇が、耳から首へ移る。俊は、煙草をくわえたまま又、手を伸ばし時計を取った。
「マリア、食事に行こう。もう、昼だぜ」
　女が顔を上げ笑った。プエリトリカンの浅黒い肌の中、白い歯が印象的だった。
　マリアが、笑いながら頷く。
「シャワー、浴びてくる」
　マリアはベッドを出ると、全裸のまま浴室へ入って行った。それを見送って、俊はゆっくり躰を起こした。煙草を消す。欠伸が、出てくる。
　浴室から、水音がし始めた。
　ラジオをつけると、天気予報をやっていた。
　ベッドから降り、窓へ近づく。天気予報は今日も快晴だと言っている。カーテンを開ける。光が、ホテルの部屋一杯に射し込んで来た。空が、ぼんやりと青い。今日は、ロスアンジェルス名物のスモッグもあまり出ていない。
　俊は向き直ると、冷蔵庫からコークのカンを取り出した。炭酸の刺激に、躰が目覚めていく。
　水音はまだ続いている。
　長くなるなと、俊は苦い思いをコークと一緒に飲み込んだ。
　マリア＝ホワイトは、７年前父と死別した直後の冴子を拾った。そして、冴子が＜水城＞に引き取られるまでの１ヶ月、面倒を見た。当時、彼女は＜水城＞のＬＡ支店に勤めていた。
　彼女は何も語ろうとはしない。彼女は＜水城＞を恐れている。
　俊は、コークを飲み干した。
　仕事を止め、結局コールガールにまで身を落した彼女を見付けるのは至難だった。が、最後には＜水城＞の傘下の情報屋が所在を握っていた。そうやって接触して１週間。躰は何度も触れ合ったが、肝心のものは何も得ていない。
　しかしながら、＜水城＞がそこまでの恐怖の対象になり得るのだろうか？　自分自身を『セール』する生活に、定住先さえ持たない暮らしに、自ら落ちなければならない程。
　水音が止まった。
　もう、甘い恋人ゲームは終わりにするべきだ。
　ドアが開いて、マリアが出てくる。上気した肌から、石鹸の匂いが強く香る。躰に巻いたレモンイエローのバスタオルが、鮮やかだ。
「どこへ行くか、考えておいてくれよ」
　俊は言い残して、浴室へ入って行った。

　ウェイトレスが、コーヒーをサーブして行った。
「――＜水城＞の事、調べているって言ったわね」
　マリアが、コーヒーを混ぜる。カップにスプーンが触れて、チリチリと音を立てる。
「というより、水城冴子の事を調べているんだ」
　マリアが手を止め、俊を見た。
「あたし、忘れたいのよ」
　呻くように言った。
「あたしは、あの子拾って＜水城＞に渡しただけ。あの子、雨に濡れてて、捨て犬みたいだったから。それだけ」
　唇を噛む。俊は、できるだけ優しく笑んで見せる。
「それから、しばらく面倒見たんだろ」
「わからなかったのよ」
　早口になった。
「水城冴子だって、わからなかった。あの子浮浪児みたいだったし、会社で見た写真にも似てなかったもの」
　瞳の奥に、恐怖の色がチラつく。
「…あたし、怖いのよ」
　紅い唇が、スローモーションで動く。
「何が？」
　俊は、用心深く問う。彼女は話す気になっていると思う。が、ここで焦ればふりだしに、いやむしろマイナスにまで戻ってしまうだろう。
「言えない」
　マリアは、激しく首を振った。俊は、テーブルの上のマリアの手を握った。
「俺は、水城冴子がどんな子だったのか知りたいだけなんだよ」
　唇を噛んだまま首を振り続ける。
　俊は溜息をついた。躰が繋がっていたからといって、気持ちが繋がった訳じゃない。が、それを忘れていた自分を嘲る。それとももっと時間が必要だというのだろうか。
「……当分、マリブに、あのホテルにいるから。何時でもいいから…」
「待っても無駄よ。わたし、２、３日中にはＬＡを離れる」
「そうやって、一生逃げるのか！」
　つい、俊は声を荒げてしまった。
　マリアが、弾かれたように顔を上げた。
　俊はそのマリアの目を、見詰める。微動すらせずに、見詰める。マリアの目の中に、様々な色が浮かぶ。だが、それは恐怖や依存や焦りや、どれも感触のいいものではなかった。
「――どうしてもって言うなら」
　しばらくして、マリアは言った。
「どうしてもって言うなら、カオル＝タカハシっていう人に聞いて。あたし、話したから。その人に、皆話しちゃったんだから！」
　それだけ言うと、彼女やボロボロ泣き出した。
　俊は、煙草に火をつけた。釈然としないが、これ以上は無理だと悟った。ここは、アメリカだ。生命の危機が、立派にリアルティを持っている所だ。
　彼女は泣き続けている。ウェイトレスが不思議そうな顔をして通り過ぎた。
　俊は、前髪をかき上げる。
「――お客様のお呼び出しを申し上げます。マリア＝ホワイト様、マリア＝ホワイト様、お電話が掛っております」
　マリアの躰が、ビクッと震えた。
「あたし、かしら？」
　不安な声。
「この店、よく来るの」
「え、ええ。誰かしら」
　彼女は立ち上がった。近くにいたウェイトレスが彼女を案内して行く。
　少し行った所で、振り返った。俊は小さく手を振った。マリアは微笑んだ。
　温くなったコーヒーを飲む。この後のどう動くか、考えなければならない。しかし、既に手は詰まってしまっている。俊は自分の無力を、コーヒーの苦さと共に飲み干す。
　急に、悲鳴が上がった。
　絹を裂くような、女の悲鳴。
　俊は立ち上がった。悲鳴の行方を探す。
　マリアだった。
　マリアは悲鳴を上げながら、一直線に走っていた。青いスカートが翻る。何かに追われるように、マリアは恐怖に凍った表情のまま、逃げていた。
　誰も止められなかった。
　大音響と共に、マリアはガラス窓に激突し、視界から消えた。とたん、けたたましいクラクッションが、何重にも聞こえ始めた。
　ウェイトレスが叫んだ。
　俊は歩き出す。歩きながら、何度も唾液を飲み込んだ。
　警察へ通報している声が、微かに聞こえている。
　壊れた窓から、下を見た。
　マリアは車に囲まれて、生きた人間の出来ないポーズで横たわっていた。黒い瞳を見開き、恐怖を浮かべた表情のまま。
　俊は、無意識に時計を見ていた。
　午後２時１３分だった。

　薫の声は掠れていた。
「薫、ありがとう」
　冴子は、姿見の前へ行く。制服のリボンを結び始める。
「遅刻しそうだわ。悪いけど、送って行って」
「冴子さん、マリア＝ホワイトは？」
「死んだわ、多分」
　冴子は無表情に言った。気に入らなかったのか、せっかく結んだリボンを解いてしまった。又、結び始める。
　薫は、肩に鈍い痛みを感じた。
「…車を、用意してくるわ」
　薫が、力なく冴子の部屋を出て行く。
　姿見の中の冴子が、ニイとアルカイックに笑っている。
　壁の時計は、午後８時１５分になろうとしていた。