Lonely　Avenue24

　「なんて言ったの？」
　拓馬は聞き返した。何と言ったか、はっきり聞こえたけれど、聞き返していた。
　冴子が前髪をかきあげる。笑っても怒ってもない顔。綺麗なだけな顔。
「もう、会わないって言った。もう、あなたとは会わない」
　酷薄な唇に似合いの台詞と口調。
「冗談…」
「冗談じゃないわ」
　鋭く言い放つ。遠い目。何も見ちゃいない。せめてもっと悲惨な、思い詰めた顔をしてくれ。何でもないように言わないでくれ。
「どういうことなんだ」
　掠れた声が漏れた。
「ただ、そういうこと」
　冴子が、目を反らせない。じっと拓馬を見詰めている。それは、ひどく珍しいことだった。
　拓馬は戸惑う。ただ、身動きも出来ず、彼女の瞳に引き寄せられている。暗緑色の瞳。瞳の奥で光が燃える。生命の輝き。そして、妙な違和感。
「わからないよ。どういうことか」
　冴子は、もう何も言わない。髪が揺れる。淡いオーラと重なる。
　本気なのはわかる。でも、わかりたくない。
「…俺が、嫌になったってこと」
　今こそ【力】を使うべきだと、心の中の何かが蠢いている。それを理性が抑え付ける。【力】を使えば、全ては終りだ。失った信頼は、二度と取り戻せない。俊との関係がそうであるように。
「そうじゃないよね。そうだったら、俺の部屋に来たりしない」
　冴子の顔がゆっくり動く。窓の方を向いてしまう。瞳が……。わかった。違和感の理由。
「君が、水城コンチェルンの娘だから？」
　キッと冴子が向き直った。縦長の楕円形をした光彩が光る。違和感の理由。人間の瞳じゃない。
「誰が…」
　冴子は少し考える。
「薫ね。高橋薫が言ったのね」
「彼女の言ったことなんか、関係ない」
　拓馬は、右手を伸ばした。冴子の腕を取る。冴子が躰をすくめる。
「俺には、君が必要なんだ」
　冴子は笑った。ふっと、息を吐くように。唇だけが歪む。
「あなたは、何も知らないから」
「君が、何も言わないからじゃないか」
　拓馬は怒鳴った。大声に、冴子がたじろぐ。
「言いたくないことは、言わなくてもいい。でも、それを、そのことを、……。俺が知らないということを、理由にするな」
　手に力が入る。右手で冴子の肩を握る。身を乗り出すように、立ち上がった。引き寄せる。テーブルを挟んだまま、強く抱き締めた。
「どうして、俺の気持ちだけじゃ駄目なんだ。これ以上、何が必要なんだ」
　背中に囁く。もう何も言えない。―お前が必要だ―それ以外もそれ以上もなく、全てはそこから始まっていた。
「冴子、冴子」
　冴子は腕の中でじっとしている。しなやかな背中。艶やかな髪。でも、何もかも拒絶しているようだ。
　ふいに、拓馬の脳裏に夕映えの映像が浮かんだ。
　赤い。視界を赤く染めて、夕日が沈んでいく。岩のゴロゴロした平原。夕日以外は何もない。視界が振り向く。自分自身の長い影が、黒く伸びている。赤と影の色のコントラストがきつい。何もない。音もない。荒涼とした平原。
「冴子」
　拓馬は腕に力を込めた。
　像が消える。又現われる。寂寞とした風景は、ストロボのように瞬く。
　冴子、こんな風景を見ているなんて、淋しすぎる。ここには何もない。誰もいない。恐怖と絶望と不安と、負の感情だけが黄昏の光となっている。冴子自身ですら、影と化している。
「冴子、これじゃあ、生きてゆけない」
　ゆっくり、冴子が顔を上げた。目を細めて拓馬を見る。うっとおしそうに、冷たく。
「いいかげんに離して」
「冴子」
　腕を緩めた。冴子はすっと身を引き、腕から擦り抜けた。髪をかきあげる。
「もう沢山よ。戯言は。あなたの言ってることって、わからない」
「冴子」
　拓馬は、腕を伸ばした。冴子が、身を翻す。バランスを崩して、拓馬はよろけた。
　テーブルの上のグラスが、派手な音と共に砕け散る。
「あっ」
　冴子が小さく叫んだ。
　見ると、冴子の手の甲にすっと赤い線が走っていた。ガラスが飛んだらしい。血はじわじわ広がり滲んでいる。
「大丈夫？」
　微かに笑ったようで、ギクッとした。手を口元にもっていく。薄い赤い唇を割って、薄紅色の舌が現われる。唇をすっと舐めた。それから、ゆっくり傷を舐めた。血を丹念に舐めていく。
　拓馬は、躰がかっと熱くなるのを感じた。鼓動が大きく激しくなる。
　冴子が欲しい。
　冴子が顔を上げた。舌で唇を拭う。目が合う。
　冴子の躰がびくっと震えた。後退る。
　拓馬は唾を飲み込んだ。口の中が乾いて粘ついている。冴子に近づく。
「……いや……」
　小さく冴子が言った。請うような媚びるような声。躰がさらに熱くなる。
　拓馬は、飛びかかった。
「――ＮＯ！」
　床に押し倒された冴子が叫ぶ。
「Ｎｏｔ、Ｎｏｔ　ｍａｋｅ　ＫＩＬＬ！！」
　無意識に【力】を使っていた。【力】で押し付けられている冴子は、目を見開き懸命に逃れようとしている。拓馬は、右手でＴシャツを捲り上げる。フロントホックのブラはあっけなく外れた。白い胸が現われる。
「Ｎｏｔ！！」
　叫ぶ。
「Ｎｏｔ　ｍａｋｅ　ｋｉｌｌ！！」
　―殺させないで―意味がわかるようでわからない。胸に触れる。まあるい胸。
「―――」
　ふいに、冴子が小さく何が囁いた。
　冴子の目が、暗緑色に光る。どこかで見た輝き。光は急激に光度を増してくる。それにつれて、瞳の色が明るくなってくる。楕円形の光彩が広がる。
　拓馬は目眩を感じる。
　冴子の躰が、跳ね上がった。反動で弾き飛ばされる。
「冴子！」
　玄関に向かって冴子が走る。
　チェーンを。
　念じた瞬間、カチャとチェーンが掛る音がした。【力】はまだ持続している。
　冴子が向きを変えた。真っ直ぐこちらに走ってくる。
「冴子」
　待ち受けるように立った拓馬を、ふわっと飛び越えた。そして――。
「止まれ、冴子。窓は閉まっている」
　冴子は止まらない。大音響と共に、ガラスに激突した。ガラスが砕ける。そのままベランダに出ていく。
「冴子、ここは１０階」
　ひらっと、柵を乗り越えた。
「冴子…」
　冴子の姿が視界から消えた。
　拓馬はベランダに走り出た。膝がガクガク震えている。いや、膝だけじゃない。全身がどうしようもなく震えていた。身を乗り出して下を見る。アスファルトの上の冴子の無残な姿が脳裏にちらついた。
　黒い影が走ったような気がした。
　何もなかった。アスファルトの上には何もなく、冴子の姿は消えていた。
　カチャっと、背後で窓ガラスが崩れた。
　雨が降り始める。
　拓馬はその場に座り込んだ。【力】の使いすぎで、頭が鳴るように痛い。膝はまだ震えている。
　考えなければならない。思い出さなければならない。そして、知らなければならない。
　雨は、土砂降りになるだろう。
　拓馬は「行方」を知らない。