Lonely　Avenue25

　吉田美奈子は、外見や話し方とは裏腹に根はしっかりしているようだった。
　テンポは遅いが、結構要領よく話す。人は見かけによらないものだと思う。
「月島さん。あと何かありますか」
　東野が、チラッと時計を覗いた。奴は、降り続く雨と吉田美奈子の時間を気にしている。いつまでたっても、いいとこの坊ちゃんぽいのが抜けない奴だ。
「もう一つ、彼女、昨日の夜は帰らなかったの」
　問うと、オレンジジュースに取り組んでいた美奈子が、顔を上げた。俊は、彼女から渡された鉛筆書きのレポート用紙を指で軽く弾いた。
「昨日の帰宅時間が書いていない」
「ああ、それ、わかんないんです。知らないうちに帰ってらしたようでぇ。山本さんも気がつかなかったってぇ」
「犬とセキュリティシステムは？」
　俊は、背中がざわつくのを感じた。やっと当たったと思った。
「２匹とも夕方には放してました。でも、関係ないですよ。２匹とも冴子様が怖いんですよぉ。冴子様見ただけで逃げるんだから。コンピューターは記録がなかったんです。山本さんはミスだって言ってました
　俊は、前髪をかきあげた。笑う。ミスじゃない。城には、抜け道があるものだ。
「有難う。じゃ、これからもお願いします」
　吉田は、甘ったるく笑い、東野に送られて帰って行った。
　全ては順調だ。

　俊は、帰って来ない。
　マンションの廊下に雨音は響いてこないが、雨の気配は伝わってくる。拓馬は、その気配に溶けてしまいそうだと思った。
「――拓馬」
　声を掛けられ、顔を上げた。俊は、硬い冷たい顔をしていた。前髪が少し雨に濡れている。
「どうした？」
　聞きながらも、無視するようにドアを開ける。
「待っていたんだ。話、あるんだ」
　部屋に入っていく俊の背中に躊躇いがちに言った。と、同じに自分は甘えていると思う。
「あがれよ」
　俊は、靴を脱ぎ灯をつけ上着とバッグをソファに投げカーテンを閉めた。
「雨、止まないな」
　独り言のように言う。拓馬はゆっくり部屋に入った。
「拓馬、足、どうしたんだ」
　台所へ行きながら聞く。
「わかる？」
「ああ、歩き方妙だぜ」
「割れたガラス、踏んだんだ」
　拓馬はソファに腰掛ける。そして俊の背中に言った。冷蔵庫を覗き込んでいた俊が、逆光で影になっている。テーブルの上には、本やレポート用紙やら記事のコピーとかが、乱雑に山積みされている。缶を２つもった俊が、やってくる。１つを拓馬に投げた。
「ウーロン茶だよ」
　微かに笑い、バドのリンプルを開けた。拓馬も笑いながら、リンプルを開けた。一口飲む。でも、癖のあるウーロン茶はあまり好きじゃない。
「ちゃんと、消毒したのか」
　拓馬の前に立ち、足元をみやって言う。
「うん。ちゃんと止血してしまう前にした」
　見上げて笑んだ。俊は表情のない顔で頷き、向かいのソファに座った。バドを飲み、夕刊を広げる。
「話って」
　夕刊に目を落したまま言う。
「うん」
　言い出しにくい。でも、言わない訳にはいかない。
「俊兄ぃ、俺ヤバイことしちゃって」
　俊が顔を上げた。拓馬は、引きつった笑みを浮かべた。
「訴えられるかもしれない」
「誰に」
　俊は新聞を閉じた。口調は冷静だが、顔をしかめて又バドを飲む。
「何をしたんだ」
「強姦未遂」
　拓馬は、手を握り締めた。
「押し倒して、もみあって、逃げられた」
「いつ？」
「昨夜。今のところ何も言ってきてないけど」
　俊は、くっと笑った。
「やっちまったことなら別だけど、どうせお前のことだから、服も脱がせられなかったんだろう」
　拓馬が言い淀むと、又笑った。
「それぐらいじゃ、訴えたって相手にされないな。心配することはない。法学部のくせして、何心配してるんだ」
　でも、相手が水城冴子なんだ、言いたいのをこらえた。俊は、笑いビールをあおる。
「お前もやるもんだ」
「俊兄ぃ」
　拓馬は唇を噛み、溜息をついた。
「俊兄ぃ、真面目に聞いてよ。俺、どうすればいい？」
「諦めるんだな」
　俊の冷たい声に、顔を上げる。そして、弱々しく笑むと視線を落した。
「出来ないよ、そんなこと」
　視線が止まる。積まれた書類の上に、何気なく置かれている写真に吸い寄せられる。
「じゃ、謝るんだな。ひたすら、誠心誠意、謝るんだ。ああ、でもお前は彼女の電話も知らないんじゃなかったのか」
「……いや、彼女、バッグ忘れてったから住所とかもわかった」
　言葉が、棒読みのようで気になる。
「それなら、頑張るんだな。大丈夫だよ、お前は。お前を許さない人なんていやしない」
　語尾が曖昧で棘があったような気がした。でも、それにも気が止められない。……当然。ここにあるのは俊の仕事の、それも父に金を借りたという仕事の資料に違いない。
　パサッという音がして、俊が又夕刊を広げた。最後の一言は余分だったと思っているのが、噛んだ唇の端に出ている。拓馬は、逆様におかれた写真を見る。間違いはない。
「――俊兄ぃ、これ今度の仕事の？」
「あぁ」
　俊が面倒そうに答える。
「美人だね。その写真の子」
　俊がチラッと、その写真を見た。
「水城コンチェルンの御令嬢だよ。美人だけど、猛毒だぜ」
　拓馬は息を飲む。俊には【力】はない。が、勘はいい。しかも正確だ。
　動揺を気付かれてはならない。
　拓馬は、ウーロン茶を飲み干した。
「俊兄ぃ、もう川西には報告書出しだん？」
「ん、ああ。とりあえずのをね。まだ取材完全じゃないけど」
　俊は新聞に見入っている。
「…写しある？」
「そこらに、下書きあるだろ」
　書きなぐったメモのようなものは、写真のすぐ下にあった。その下には又写真が、１０歳ぐらいの冴子の写真があった。
「どうした」
　拓馬は急いでメモを手に取った。曖昧に笑って見せる。俊の声はいつもと同じだ。何も気付いていない。
「別に、猛毒ってどういうことかなって思って…」
　俊が顔を上げた。拓馬はギクッとして、奥歯を噛んだ。
「毒っていうより、禍い、だな」
　瞬間、俊の目が鈍く光った。
「これ、読んでいい？」
「ああ」
　俊はそれきり興味を失ったように、新聞に目を落した。拓馬は、下書きをこっそりシャツのポケットにしまいこんだ。俊を騙せるとは思えなかったけれど、どうしても読んで考える必要があると思った。胸が痛い。と、
「拓馬、川西は今夜どこにいるんだ！」
　突然、俊が聞いた。
「えっ？」
「林田が死んだ」
　俊が電話に駆け寄る。
「家か、どこなんだ」
「俺、今日は何も聞いていない」
「じゃ、家だな」
　素早くダイヤルしていく。
「俊兄ぃ、林田って？」
「水城冴子の担任だった男だ。車に跳ねられた」
　呼び出し音を聞きながら、早口に答えた。
　雨が止まない。
　拓馬は唇を噛む。話し始めた俊の声は遠く、拓馬の耳には届いてこない。意味を結ばない。
　――ばあちゃん、どうすればいいんだ。俺は【導く】なんて、出来ない――
　拓馬は、祈っていた。