Lonely　Avenue26

　水伊化学ビル。最上階のみに灯がついていた。
「こんなものを読ませる為に、わざわざ帰国させたの」
　水地麻美は、コピーの束を机に放った。
「私、梅雨は嫌いなのよ。知ってるでしょ」
　気怠げに髪をかきあげる。水伊が差し出すブランデーグラスを受け取る。
「ニースはどうだった」
　水伊がブランデーを飲みながら問うた。青灰色のサマーセーター。髪の撫で付けてなく、ふわっと額に掛っている。そのせいで、いつのよりずっと若く見えた。
「駄目ね、もう南フランスは。ろくな男いないわ」
　麻美もブランデーに口をつけた。今夜の彼女は、マカライトグリーンのボディコンシャスなスーツで、髪を束ね、黒いフレームの眼鏡をかけている。
　ふいに、足を高く組替えた。深いスリットから白い大腿が覗く。
　水伊が、すっと舌で上唇を舐めた。
「この際だから、居場所だけははっきりしておいてくれよ」
　麻美は眼鏡を外し、机に置いた。水伊を見上げる。
「こうやって、下らないものを見せる為？」
「下らないことはないと思うがね」
　水伊は笑った。でも麻美は笑わない。硬い表情をしている。
「冴子の過去も父親も、どうでもいいことだわ」
　水伊は息を吐く。
「麻美、もう持てないんだ」
「でも、薫は拒んだのよ」
「状況が変われば、彼女は動く。だから、変える」
　水伊が顔を近づける。瞳を見つめる。
　二人はしばらく黙したまま、互いの目を見ていた。
　麻美が上着を脱ぐ。ノースリーブの白いシャツ。肩の白さが眩しい。
「正樹、あなた、忘れていないのね」
　少し淋しげに言った。
「お前は忘れたのか？　忘れられるのか？」
　水伊は低い押し殺した声で、吐き捨てるように言った。
「私は、忘れられない。今でも昨日のことのように思い出す。そして、思い出す度に怒りに躰が震える」
　実際、彼の握り締めた手は、白く微かに震えていた。麻美は手を伸ばし、水伊の手を取った。
「誰も忘れることなんか出来ないわ。丁度６歳になった日、私、屈辱というものがわかった。悔しかった。あれ以上、悔しいことなんてなかった」
　麻美は、赤い唇を噛んだ。視線を落す。
「何を言われたか、よくわからなかったくせにね」
　唇を歪めた。
「あのじいさんは＜水城＞の欠片もないと言った。言い捨てた。6つになった日。あの部屋で、お前も駄目だ。お前の子供も駄目だ。お前は＜水城＞ではない」
「やめて、聞きたくない」
　麻美が眉を寄せた。水伊は少し笑み、すまないと言うように、軽く彼女の肩に触れた。
「……本当に、薫が産む子供は＜水城＞になるのかしら」
　水伊は肩をすくめる。
「さあ、どうだろうね。でも、じいさんはそう言った。だから、薫が後継者だった」
「冴子が帰ってくるまではね」
　水伊がグラスを置き、机の煙草入れから細い葉巻を取り出した。火をつける。
「だから、薫は冴子を憎んでいると思ったんだが、違っていたようだな。あれでも、情が移るらしい」
　煙を吐き出す。
「でも、本当のところはわからないわよ」
　麻美はブランデーを飲み干す。そして立ち上がり、ブラインドの隙間から外を見やった。夜景に雨が滲んで光っている。
　水伊は、又上唇を舐めた。
「正樹」
　麻美が振り向く。
「水島の義兄さん達は大丈夫なのね」
　水伊は彼女に近づきながら、頷いた。
「あのレポートは信用できるの」
「ああ、川西は信用できる男だと言った。それがどうも川西の息子らしいがね」
　麻美が首を傾げる。
「川西には、息子なんていないわよ」
「隠し子だよ」
　水伊は短く言って、麻美を引き寄せた。耳元で囁く。
「麻美。冴子を排除する」
　腕の中で、麻美がビクッと動いた。水伊は鼻で笑った。
「冴子が＜水城＞でなけでば、それでいい。あのレポートでそれが証明できれば、それがいい」
「でも、きっとあれでは無理よ」
「なら、でっち上げるさ。継いでしまう前なら、なんとかなる」
「ついでに、じいさまも消してしまえば？」
　麻美が冷たく言い放つ。水伊は含むように笑う。
「駄目だ。じいさまは＜水城＞は失えない」
　水伊が、優しく耳を噛む。麻美は目を閉じる。

　机の灯だけが、白く光っている。
　薫は、何度目かの深い溜息をついた。
　机の上には、夕刊が広げてある。薫はグラスを取ると、ストレートのカティサークを煽った。
　――元中学教諭、深夜事故死。
　又、小さな見出しに目をやる。何度読んでも同じ、内容が変わる訳がない。
　昨夜、冴子は帰ってこなかった。いや、帰ったけれど、玄関から入っていない。電話で聞いた山本は、気付かなかった、としか答えなかった。でも、薫にはわかっている。
　頭痛がする。
　カティサークを飲み干す。
　林田が死んだ。深夜、トラックの前に踊り出て、跳ねられた。即死。
　左肩が重い。微かに震える手で、セイラムに火をつける。息を深く吸う。吐き出す。
　誰も守れない。冴子の血塗られた牙は、獲物を求め続ける。誰にも止められない。
　次は誰になる？
　薫は、寒気を感じた。皆、殺されるのだ。老人も自分も、冴子を知る者は、彼女の牙に裂かれる。
　急に笑えてきた。
「だから、別れろと言ってあげたのよ」
　月島拓馬の澄んだ瞳が、脳裏に浮かぶ。
　目の綺麗な青年だった。育ちの良さそうな温和さと、純粋さ、そして熱情。
　彼を見た瞬間にわかった。
　二人が引かれ合うのは当然なのだ。静と動。光と影。反するものが引き合うように、あの二人は互いを呼び求める。
　薫は、含むように笑う。
　けれど、冴子はそれに気付かないだろう。あれの人間不信は、相当根深い。
　笑う度に、手が震える。煙が揺れる。
　あの子―拓馬は、そうやって決して報われない思いに、キリキリ舞い続けるのだ。哀れなもの。可哀想なもの。
　ふいに涙が零れた。
　でも、それは甘美な幸福に違いない。