Lonely　Avenue27

　まだ、良心があるらしい。
　薫は苦笑した。どんな理由であれ、盗聴という行為は後ろめたいものだ。が、その後ろめたさに薫は微かに安堵を覚える。と、同じに自分の甘さを嫌悪する。
　なぜ、冴子のように無慈悲になれないのだろう。誰でもない自分が決めたことだ。なのにこんなことで胸が疼く。頭では割り切れていても、心はそうではないということなのだろうか。が、一方で薫は知っている。この良心の痛みこそが、薫と冴子を、人と人に在らざる者を分かつものだということを。
「あの事件と俺は、関係ないんですよ」
　ＦＭラジオにつけたヘッドホンから、又、竹村祐一の苛ついた声がした。彼等は、観葉植物を隔てた斜め向かいの席にいる。
　竹村は、しきりに指でテーブルを叩いていた。２年前に会った時と同じように、白いシャツと黒い学生ズボンを着ていたが、すっかり大人びた顔つきに変わっていた。
「君が足を折られたのが、その３日前でしたね」
　竹村を向かい合った男が、淡々とした口調で言う。どこかシニカルな響きのある声だ。
　月島俊。マリア＝ホワイトの追跡調査で浮かんできた男。
　彼は彼女が死んだ時、居合せていた。その後、殺人容疑でＬＡ市警に拘留されている。＜水城＞の調査室はその解放に、川西代議士の肝入りがあった事を報告してきた。
　報告書に付いていた写真と同じ、前髪の長い男。額の傷を隠すつもりらしが、ほとんど役に立っていない。その前髪をかきあげながら問う。
「水城冴子に折られたのですね」
　竹村が言葉に詰まる。
　薫は、眼前のコーヒーを一口飲んだ。
　彼の目的が冴子であることはわかっていた。が、こうやって直面するとたじろぐ。
「そうですね」
　月島俊が念を押す。
「……ええ」
　竹村が息をつき、水を飲んだ。ゴクッゴクッという音が低く聞こえた。薫は顔をしかめる。感度が良すぎるのも、問題だと思う。マイクは、彼等の後ろの席で雑誌に見入っている調査員が持っているというのに。では、ずっと気になっているザーという雑音は、雨の音なのだろうか。
　竹村はなかなか話そうとしない。
　雨の音が大きくなる。
　困ったことになるだろう。薫は煙草に火をつけた。月島は確実に進んでいる。それも、冴子が全てに関与しているという仮定をもとにしているかのように。
　それでは困る。どこかでその仮定を否定しなければならない。――でも、でも、何処にそんな材料がある？
　薫は煙を吐き出す。
「……いわゆる、喧嘩でです」
　竹村の声は硬い。
「それまでも、ちょいちょい水城とはやりあっていたんだけど、そん時は俺も相当頭にきて、鉄パイプ持っちゃったからな。本当に、よく覚えてないんだ。ただ、痛みと、水城のすごい冷たい目だけだ」
「他に怪我人は？」
「擦傷や打撲やら皆だよ。３日後にあの事件で死んじまった連中。それが聞きたかったんだろ」
　竹村は皮肉な笑い方をした。つっぱっていたけど、２年前はあんな笑い方はしなかった。彼はいい方に向かってはいないのだろう。薫は淋しさを感じる。竹村の心の傷を思うと【良心】が疼く気がする。
「君の弟も？」
「義理だよ」
　吐き捨てるように言う。
「その義理の弟さんが、リーダーだったんだろ」
　月島は痛い所を突いてくる。
「大体、どうして水城冴子を目の仇にしたんだ」
　月島の口調が変わる。前髪をかきあげる。額の傷が見える。かなり目立つ大きな傷だ。
　無意識の仕草にしては、タイミングが良すぎた。竹村が瞬間たじろいだ。
「あんた、水城冴子に会ったことある？　会った瞬間から、俺は奴が憎かった。嫌悪した。わかんねぇだろうけど」
　竹村が息を吐くように言った。月島は、そんな竹村をしばらく見詰めた後、言った。
「わかるよ。憎しみに理由なんていらない。その存在が、どうしても許せないものは確かにある。もっとも、普通はそこまで憎悪しないものだがね」
「普通じゃないのは、水城の方なんだ」
　竹村の叫びに、月島はごく自然に頷いた。
　薫は唇を噛む。マリア＝ホワイト亡き今、１００％の答えは得られない。けれど、彼は長い年月の果てに、完全な答えを得るだろう。冴子の異質さの理由を知るだろう。あの親子、一族の暗い血を知るだろう。
　ブラボー。３流雑誌のライターにしては出来すぎだ。
　薫は煙草を揉み消す。
「弟さんとしては、君のお礼参りのつもりだったんだろ」
「あ、ああ。建前はね。俺はどうでも良かったんだけど」
　２、３日中には、月島俊の関する報告が整う手筈になっている。気に入らない川西との繋がりも経歴も明らかになる。
「だってさあ、水城、早く切り上げる為に、俺の足折ったんだぜ。もう飽きたわ、って言って叩き折ったんだ。そんな奴相手にしても駄目だ。あいつには、人の痛みとか感情とかがない。やったって無駄だったんだよ」
　握り潰すか、干すか。いや、出来ない。今、冴子の為に＜水城＞を動かすことは、墓穴を掘ることに成り得る。では、どうすればいい？　
　薫は、左肩に痛みを感じた。
「あの日、水城冴子は行かなかったのだろうか、本当に」
「警察は、あいつは家から１歩も出てなかったって断言したぜ」
　月島が、微かに笑った。
「コンピューター管理なんて、あてにはならないさ。それに、城には抜け道があるものだろう」
「あんた」
　竹村が絶句した。
「あんた、水城がやったと思ってるのか」
　月島は笑んだまま答えなかった。
　大胆な。薫はある種の感動を覚える。
「俺、現場行ったんだぜ。狂ってるよ。犬、使ったとしても、狂ってなきゃ出来ない」
　竹村が顔をしかめた。２年前は夢に見るので辛いと言っていた。忘れられないと。悪夢は、消えないから悪夢なのだ。
「相田一美は、無傷だったのは知ってた？」
　竹村が首を振る。
「弟さん達がやったのは別としてね、彼女だけは無傷だった」
「それが、水城がやったっていう証拠にはならないだろう」
「ああ、ならないね」
　一体何が言いたい。薫は、又煙草を取り出した。ライターがなかなか発火しない。
　月島は、シニカルに笑っている。
「証拠なんて、どうでもいいんだよ。ただ、水城冴子が関与したという確証が欲しいだけだ」
　強気の言葉。バックにいるのは、川西代議士だけではないのかもしれない。
　やっと火のついた煙草を深く吸う。
　竹村が溜息をついた。
「……雨が降ると、疼くんだ、折れた所」
　ボソッと言った。
「俺も疼くよ」
　いきなり月島が言う。
「ここがね」
　額の傷を指差す。竹村が笑った。
「関係ないかもしれないけど、あの時理科室から濃塩酸持ち出してたんだ、あいつら」
　月島の目が光った気がした。
「焼けてる所があったから、使ったんだと思う。でも、野犬狩りで捕まった犬に塩酸で焼けたのはいなかったって聞いた」
「持ち出したのはどのくらい？」
「１リットルぐらいかな。そこにあったのを全部だった。まぁ、学校は絶対認めないけどね。あんな事件になっても責任逃れするものらしいよ、学校ってものは」
　薫は、コーヒーを飲む。冷めて、不味いだけだ。煙草も今日は苦い。
「――ありがとう。参考になったよ」
　月島がレシートを持って立ち上がった。
「又、何か思い出したら電話して欲しい」
　竹村も立ち上がる。
　薫はイヤホンを外した。月島と竹村が、レジの方へ行く。薫は、テーブルを３度叩いた。水城の調査員が、ゆっくりその後に続いて出て行った。
　ガラス越しに、月島と竹村が濃紺のファミリアに乗り込むのが見えた。パーキングを出て行く。白いアルトが、その後から出て行った。
　薫は、煙草を揉み消し立ち上がった。
　月島拓馬は、月島俊の弟なのだろうか。月島拓馬の調査には、兄弟の存在はなかった。しかし他人というには、似すぎている。
　又、左肩が疼いた。一度、病院に行かなければならないと思う。
　店を出ると、薫はサングラスを外した。
　危険過ぎる。月島拓馬が意図的に冴子に近づいたとすれば、あまりにも危険過ぎる。
　激しくなった雨に、地は煙っている。蒼い光が、遠い空をよぎる。
　薫は、車に向かって走り出した。