Lonely Avenue

31  Pieta


 濡れたアスファルトを、彼は走っていた。
 予報通り、夜になって雨は上がった。風はだいぶ乾いて、梅雨が明けたように思わせている。
 冴子は、一定の距離を置いて彼を追っていた。半袖の白いワイシャツが闇に浮かぶ。反対に黒い学生ズボンは、闇に沈んでいる。
 荒い息が、暗いビルに谺する。恐怖の発するアドレナリンの匂いに冴子は笑う。
 竹村祐一は、走る。追う冴子の呼吸は平常時と変わらない。
「くるなっ」
 叫んだが、息が切れて声になっていない。冴子は押し殺したように笑う。
「くるなぁ」
 ほんの少し、距離を縮める。
 竹村は夢中で走る。思惑通り、人気のない建築中のビルへ向かって行く。
 愚かな…。
 冴子は、群れをなして海へ入って行く狂った鼠の話を思い出す。自分が死に向かっていることを知らない鼠。
 竹村が階段を昇っていく音が、カンカンと響く。冴子は横の足場に手を掛けると、反動をつけて飛び上がった。先回りする。
 5階ぐらいのフロアで、冴子は待った。狂った足音は、確実に近づいてくる。息を殺し、気配を消す。もっともこの暗さでは、竹村から見えるはずがない。それでも、冴子は闇に躰を沈めた。これは、本能なのだと思う。
 足音が近づく。
 冴子は、すっと躰を出した。
「――」
 口を開けているのに、声になっていない。フロアに上がったところで、竹村は凍りついたように立ち竦んでいる。
 冴子は笑い、飛び上がった。側に積み上げてある建築材を崩した。
 耳をつんざくような大音響と共に、砂塵が舞い上がった。冴子は目を閉じる。それは、すぐに静かになった。
 目を開ける。
 崩れた建築材の山、竹村の姿はなかった。冴子の足元に向かって、ゆっくり血が流れている。もう息の音も、アドレナリンの匂いもしない。血の匂いだけだ。
 冴子は背を向けた。
 そして、足場から地上に向かって飛び降りた。






 拓馬の部屋は相変わらず暗く静かだった。
 音もなく滑り込み、寝室に向かった。
 今ならやれると思う。血の匂いが躰にまとわりついている今なら。一人も二人も同じことだ。
 今度こそ――。
 拓馬は、いつかと同じように眠っていた。ベッドサイドの本の何冊かは変わっていたが、その他はまるで同じだった。
 冴子は拓馬の寝顔を見詰める。少し痩せた? 汗で髪が額に貼り付いている。そのせいだろうか。やはり、やつれたように見える。
 冴子はゆっくり手を伸ばした。そっと髪に触れた。柔らかい髪だ。
 ふいに拓馬が動いた。ピクッとして手を引込めた。寝返りだ。
 汗ばむ手を握る。そして溜息をついた。おもむろに右手を伸ばし、拓馬の首にあてた。左手を添える。目を閉じる。力を込める。指の下の暖かな首が小さくなる。拓馬の手が伸び、冴子の手に爪を立てるように触れた。苦しがっている。
「――くっ」
 冴子は呻き、力を抜いた。
「できない」
「……いいんだよ」
 声に目を開けた。
「君がそうしたいなら、そうしていいんだよ」
 目を開けた拓馬が、言った。冴子は、その目を見詰めたまま力なく首を振った。拓馬の首にあてた手は、外すことも力を入れることもできず、そのままになっている。
「殺していいんだよ。君が望むなら」
 拓馬が静かに言う。そして少し笑い、冴子の手を自分の首に押し付け様とした。
 冴子は手を離し背中を向けた。
「……警察、呼ぶ?」
 声が震えている。殺されかけたのは拓馬ではなく、自分だったような声だ。
「いや、そんなことしない」
 拓馬が躰を起こす気配がした。
 何にせよ、これで終りだ。
 冴子は絶望感に引き攣った笑みを浮かべていた。紅い炎が見える。人外のものを焼く炎だ。恐ろしく鮮やかな美しい色。
 ふいに肩に触れられた。その次の瞬間には、背後から強く抱き締められていた。思わず、冴子は胸の前で交差する拓馬の腕にしがみついた。焼かれるのは怖い。脳裏から消えない炎が怖い。
「冴子」
 耳元で囁く。息が首筋にかかる。冴子は、拓馬の腕にすがりつく。
「冴子、俺は信じる。俺にできるのはそれだけだから…」
 Daddy、どうすればいいの?
 拓馬が腕に力を込める。躰ではなく、心を抱き締められているようだ。Daddyにそうしたように、完全にすがりついてしまえばどんなに楽だろうか。
「…信じる。お前が何であっても…それだけ、わかって欲しい」
 首に熱い息がかかる。
 ばれている――。冴子は唇を噛む。当たり前だ。10階から飛び降りて、無傷な人間なんていない。
 脳裏に、紅い炎が燃える。何もかも焼き尽くす炎。ロスの砂漠……。
「冴子」
 急に大声で呼ばれた。腕が緩むと、躰の向きを変えられ肩を強く握られた。
「見るな。見るんじゃない。炎を見るな」
「でも」
 炎に焼かれて、躰が熱い。息が苦しい。
「炎なんかない。落ち着くんだ。落ち着いて、目を閉じろ」
 言われるままに目を閉じた。
「……炎は消える。ゆっくり、自然に、消えていく」
 本当だ。声に導かれ、炎が消えていく。ゆっくり、静かに。
「風が吹く。緑の涼やかな風だ」
 やさしい声。風を感じる。広がる緑の大地。目頭が熱い。目を開けた。拓馬の目がすぐ側にある。潤んで、深い湖のようだ。
「私が、何でも…」
 力強く頷く。すっと涙が、頬を伝って落ちた。拓馬の指が頬に触れる。涙を拭う。冴子は拓馬の胸に顔を埋めた。拓馬が抱き締める。強く抱き締める。拓馬の唇が首に触れている。
 涙が止まらない。胸に顔を押し付ける。拓馬が髪を撫でている。
 ゆっくり顔を上げた。拓馬の唇が近づき、触れた。






 「はい」
 拓馬がコーヒーの入ったマグカップを差し出した。冴子はソファに座ったまま受け取り、両手でカップを握った。温もりが指に伝わる。
「落ち着いた?」
 カップを持って拓馬が、隣に腰を降ろした。
「うん」
 冴子は頷き、拓馬の肩に頭をもたれかけさせた。
「話してくれる」
 冴子は、少し躰を起こした。そして首を振った。
「俺のこと信じられない?」
「そうじゃないけど」
 考えながら、コーヒーを飲む。それからカップをテーブルに置いた。拓馬の胸にしがみつく。
「全てを知ったら、二度と逢えないわ。『夕鶴』と同じ。何も知らない方がいいの。辛くなるだけ。分かち合ったからって、その辛さがなくなる訳でも減る訳でもないのよ」
 それでも、安心感が躰に満ちる。長い間、求めていたもの。100%信じた訳ではないけれど、拓馬の横にいつを不安を忘れられる。自分の場所にいるのだと、感じられる。
 拓馬が冴子の躰に手を回しながら、やさしく笑った。
「待つよ」
 唇を重ねた。

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