Lonely　Avenue32

　スピーカーのＢＧＭは『サマータイム』だった。かったるいララバイ。梅雨明けを洒落ているつもりなのだろう。
　薫は椅子にかけてあるカーディガンを取り、羽織った。オフィスはエアコンが効きすぎて肌寒かった。

　　Summer time,an'the livin' is easy,
　　Fish are jumpin' an'the cotton is hight,
　　Oh yo'daddy's rich,
　　an' yo' ma is good lookin'
　　So hash, little baby, don' yo'cry

　それは、幸運なことだけど、幸福なことではないと薫は思う。
　デスクの上の報告書を、再び取り上げる。
　その最後には走り書きで、今朝の３時頃に冴子を乗せて、月島拓馬がマンションから出て行ったことが加えられていた。
　冴子は、少しもわかっていない。
　従兄弟同士なんて、最低だ。月島拓馬は月島俊の為に、冴子に近づいたと見て間違いない。しかも、川西代議士の息子だなんて、絶望的だ。
　薫は苛立ち煙草に火をつけた。

　　One of these mornin'
　　you goin'to rise up singin'
　　an'you'll take the sky,
　　but till that mornin'
　　there's a nathin' can harm you,
　　with daddy an'mammy standin'by

　この歌を聞くと辛いと思うのは、星は変えられぬものだと感じるからだ。幼児期に両親が側にいてくれなかったからだ。
　薫は唇を噛む。
　ニースの別荘にこもったきりの母とは、もう何年も会っていない。親子らしいことをした記憶もない。
　ＢＧＭはモーツァルトに変わる。
　薫はインターフォンを押した。
「はい、何でしょう」
　秘書の声がする。
「ちょっと来て」
「はい」
　直ぐに、ドアがノックされた。
「はいって」
　髪を小さく束ね、ピンクの半袖のスーツを着た秘書が入ってくる。本来は父の秘書の一人だが、今はほとんど薫の秘書となっている。まだ、若い。確か、薫と同じ歳のはずだ。
「これ、メモリーしておいて」
　薫は、報告書を差し出した。最後の走り書きの部分は、切り取ってある。
「はい、わかりました」
　彼女は受け取り、部屋を出て行こうとした。が、急に足を止めた。
「何？」
「あの、肩は、病院はいかがでしたか？」
　薫は微笑んだ。
「ありがとう。でも結果が出るのは１週間先よ」
　秘書も微笑み、
「悪くなければいいですね」
　と言った。
「そうね。ああ、高橋先生には言わないでね、このこと」
　さりげなく口止めしておく。それを彼女は好意的に解釈したらしく、
「そうですね、御父様、御心配されますから」
　と、にこやかに言った。
「じゃ、お願い」
　彼女は部屋を出て行った。
　薫は、煙草を深く吸う。椅子に、躰を沈める。
　結果はもう出ている。異常無し、どこも悪いところはない。でも、肩は痛み腕は痺れる。
　原因のない以上、精神的なものではないかと医師は言う。そうかもしれないと思う。でも、それを認めることは出来ない。認めれば、それこそ母のように隠遁生活を送るしかない。そんなの、人生じゃない。
　煙草の薄荷がきつい気がする。
　＜水城＞の高みに行けば行く程、病む箇所が見えてくる。巨大な樹木には、枯れた枝や腐った実があるものだ。今、冴子の罪を黙認している。それ以上に醜いことをしなければならないだろう。場合によれば、自分の手でしなければならないだろう。
　私の良心よ、泣かないで――。
　薫は、机の引き出しから医師に渡された紹介状を取り出した。そして、灰皿の上で火をつけた。炎は燃え、あっという間に白い灰になる。
　今は、どうすることもできない。
　煙草を揉み消し、背を伸ばした。
　書類に向かう。
　明日、小さな裁判がある。
　負けられない。勝ち星を挙げることが、＜水城＞の高橋弁護事務所を調査室を完全に手中に出来る手立てだ。そこで働く者の信頼を得なければ、手にしたとは言えない。出来るだけ早く。確実に
　コンピューターの端末機が、資料を映し出す。幾つかをプリントアウトする。
　又、煙草に火をつけた。
　窓の外を見やる。広く晴れた青い空。ビルのガラスがキラキラと反射している。
　明日は暑くなるだろう。長く弁護するのは、不快だ。煙草をふかしながら、何を削るか考える。プリントアウトされた資料を見比べる。
　ふいにインターフォンが鳴った。
「何？」
「お電話です」
　秘書が告げる。
「水地社長です」
　麻美がどうして…。薫は不可解に思いながら、机の電話を取った。
「御機嫌よう、薫さん」
　特徴のあるハスキーボイスが響く。
「今日は、何でしょう」
　くくっと電話の向こうで麻美が笑った。
「あなたも、なかなかやるわねぇ。そこ、高橋薫弁護事務所って名前変えた方が、いいのじゃない」
「何でしょう」
　いささか呆れて聞く。この手の皮肉は聞き慣れている。
「御機嫌斜めね。まぁ、いいわ。正樹に頼まれたのだけど」
　薫は煙を吐いた。
「これが、最後よ。薫、私達に手を貸しなさい」
　命令し慣れている声だと、薫は妙に感心していた。この声に平伏すのは簡単なことなのだろう。
「聞こえているの」
「え、ええ」
　薫は苦笑する。
「駄目です。どう言われても、これだけは駄目です」
　麻美は、むっとしたように黙った。
「………これは警告よ」
「どうも、ありがとうございます」
「あなた、冴子が憎くないの？」
　肩をすくめた。
「……わかった」
　麻美が投げるように言った。艶のある声だけに迫力がある。薫は冷笑する。
「好きにしなさい」
　電話は、乱暴に切れてしまった。
　行動を起こすのか。薫は他人事のように思う。麻美の、あの子供のような高慢さは、ゆくゆくは妨害になるだろう。
　何にせよ、今は冴子の方が分が悪い。冴子は全体の図を知らない。拓馬とどうこうしている間は、知ろうともしないだろう。
　その隙に、情報が流れていく。取り返しのつかないものが、流れていく。
　ではなぜ、水伊に加担しない。
　答えは、空白のままだ。
　煙草を消し、資料に向かう。問題点は３箇所。さほど難しくはないが、甘く見ると足元をすくわれる。
　ドアがノックされた。
「はい」
「失礼します」
　秘書が入ってくる。
「面会の方がお見えです。アポイントメントはないのですが」
　そう言いながら、名刺を机に置いた。
「アポイントメントがないので、お断りしようとしたのですが、お名前をお聞きして、もしかすると報告書に名前があった方ではないかと」
　名詞には『週刊Ｋ記者　月島俊』とあった。薫は、薄く笑った。
「ありがとう。会うわ。お通しして」
　秘書が出て行く。気のきく娘だ。
　薫は、シャツの衿を正す。
　月島俊の目的はわかる。多分、マリア＝ホワイトが薫の名を口にしたのだろう。もしかしたら、あの名刺をまだ持っていたのかもしれない。
　それにしても大胆なことをする。水城冴子のことで＜水城総合ビル＞にあるここに、尋ねて来るなんて大胆すぎる。
　いやそれよりここに来たということは、彼が週刊Ｋを離れて調べているということではないのだろうか。週刊誌に載せるのは＜水城＞に知られてしまえば無理だ。必ず潰す。でも、川西代議士の手に渡る為のものなら、さほど関係ない。
　薫は苛立つ。
　知らない所で、始動している。
　ドアがノックされた。
「どうぞ」
　ドアが開き、月島俊が入ってきた。
　長目の前髪。今日はきちんとスーツを着ている。不思議と場慣れしているように見える。でも、彼の表情には戸惑いがある。
「どうぞ、お掛け下さい」
　薫は笑いながら、ソファを勧める。
「私が、高橋薫です」
　彼はゆっくり腰を降ろしたが、まだ妙な表情をしていた。薫は、にこやかに笑って見せた。
「男性だと思われたのでしょう。名前のせいで、よく間違われるのです」
　さあ、化かし合いの始まりだ。
　薫は笑顔の下で思った。