Lonely　Avenue37

　俊は開けた窓にもたれて、バトワイザーを飲んでいた。
　ベランダから、吹き込む風が濡れた髪を乾かしいく。見慣れた夜景は、いつものように瞬き、天中の半月は心細げに浮かんでいる。
　俊は、部屋に視線を戻す。
　薄暗い中、イコライザーの光波だけが生き物のように動いていた。ボリュームを極端に絞った『トリスタンとイゾルデ』が、部屋を満たしている。
「…俊」
　ベッドで、寝返りを打ちながら薫が呼んだ。
　今夜、彼女は泊まっていくつもりらしい。
　俊はバドを飲み干し、汗を拭う。

　壁の時計の音が気に障る。
　水伊は、深い息をついた。
　ペンタゴンの一室。待たされて既に２０分が過ぎている。小さな部屋は忘れ去られたように、しんとしていて余計に規則的な時計の音が耳障りだった。
　水伊は目を閉じる。
　フライトの疲れで、躰中が重い。仮眠出来れば幸いだと思った。が、頭の芯は冴えたままだ。どうしても思考が、これからのこと、冴子のことのまとわりついていく。脳裏に浮かぶ暗緑色の瞳。……微妙に色合いが違う。
　ああ、ここの制服の色じゃないか。
　苦笑した。色合いが修正されていく。ｋｅｎ＝Ｏｄａの瞳もこんな色だったのだろう。言いようのない嫉妬。胸が疼く。一枚の写真でしか知らない男。誰の口にも上らないけれど、彼は未だに＜水城＞に影を投げ掛けている。
　ふいに、思考が空回りした。
　昔、一度だけ老人が口にしたのを聞いた。それだけだ。他は誰一人、冴子ですらその名を口にしたことがない。死に別れ、日本に帰ってきた幼児期ですら、彼女は父を慕うようなことは言わずに名を呼びもしなかった。
　奇妙な不自然さ。
　彼女の主張は常に、アメリカに帰ることで、父を望むことではない。それが、１０歳の子供にふさわしいものだろうか。
　違和感はいつも、あの親子にまとわりついている。
　ドアがノックされた。
　はっとして、目を開けた。
「お待たせしました。ミスター、どうぞ」
　敬礼した若いウェーブが促す。栗毛をぴちっと撫で付けた利発そうな女性だ。若く見える。オリエントの血が混ざっているのかもしれない。水伊は立ち上がり、彼女に続いて部屋を出た。
　長い廊下を行く。
　足音が響く。進むにつれ、人とすれ違わなくなっていく。ビルの深部に、吸い込まれていくような錯覚を覚える。
　ステーツが目障りなら引き込めばいい、と簡単に答えたのは川西代議士だった。引き込むことで、動きを掴み制限すると。それは確かに定石ではある。それにしても、相手が大きすぎると水伊は思った。
「――いいえ、ステーツではなく、ペンタゴンです」
　月島という男が、薄く笑いながら言う。
「ケン＝オダ親子に干渉し続けたのは、ステーツではなく国防総省であると言えます」
　水伊は、背中に悪寒を覚えた。あのレポートを読んだ時もそうだった。恐ろしい程研ぎ澄まされた勘。それは常に正しい方向を指す。指していると思わせるものがある。
　全てが片付いたら、自分のブレインとして迎えたいと思う。道を誤らない事は、何事にも勝る力だ。
　水伊の唇が緩む。
　その気配の、案内のウェーブが振り向く。
「ミスター、あの奥です」
　廊下の向こうで、大きなドアが待っていた。
　二人は足音だけを響かせて、ドアへ近づく。
　ふっと、疑問が湧く。本当に老人は、ペンタゴンの干渉を知らなかったのだろうか。月島俊は、水城静音の死もペンタゴンの干渉の結果かもしれないと言ったのに。
　ウェーブが立ち止まる
　ノックし、重いドアを開ける。
　今となっては、何も確かなことはわからない。「死」という真実以外は、全て憶測に過ぎないのだ。
　水伊は短く息を吐き、部屋へ入っていった。広く明るい部屋。アンティークなソファセットとマホガニーの大きな机が目立つ。
　Ｇ＝ウィリアム中佐が、デスクから立ち上がり近づいてくると、水伊に手を差し出した。
「始めまして、ミスター、ミズイ」
　穏やかな声で言う。水伊は手を握り返す。歳は同じぐらいか、少し上だろう。短く刈ったプラチナの髪。赤く日焼けした肌。青い瞳が鋭い光を放っている。
　ＷＡＰＳ（ホワイト・アングロサンソン・プロテスタント）だ。
　瞬間、水伊は警戒する。
「どうぞ」
　勧められるままに、ソファに腰を落とす。
「読ませて頂きました」
　向かいに座りながら中佐が言う。川西経由で送った例のレポートだ。英訳も月島がしたと聞いている。
「結論から言います」
　水伊は目を細める。こちらの思惑が、ペンタゴンに理解出来ない等とは思えなかった。ウィリアムス中佐は、完璧な無表情で水伊を見返している。その仮面のような唇が動く。
「我々は協力します。私が、その任を受けました。まず、一つ大切な条件があるので、それをお伝えします」
　水伊は奥歯を噛んだ。もう後戻りは決して出来ない。
「水城冴子の躰を、こちらに渡して頂きたいのです」
　脳裏に、暗緑色の光が瞬く。
　――お前を愛しているのに、お前が邪魔なんだ。
「結構です。それで」
　水伊は、一言一言確かめるように答えた。ウィリアムス中佐が少し笑った。水伊も笑い返す。
「ただ＜水城＞において、我々の立場は非常に微妙なものなのです。それは考慮していただかないと」
　中佐が頷く。
「当然です。そちらの指示に従いましょう」
　水伊は、川西の力を思う。川西を引き込んだのは正解だった。彼のコネクションは、彼の年齢と今の立場からは考えも及ばない程、広く豊かだ。それを上手く利用出来れば＜水城＞は揺るぎはしないだろう。たとえ、頭が＜水城＞でなくても。
「……質問してかまいませんか？」
　どうぞ、というように中佐が笑む。
「ケン＝オダの父親が、スパイだったというのは本当ですか」
　瞬間迷ったが、結局遠回しな問いしか出来なかった。
「いいえ」
「では、ケン＝オダがベトナムでスパイ行為をしていたというのは？」
「真実ではありません」
　中佐の答えははっきりしているが、それ以上の説明をしようとはしない。彼は、イエスとノーしか言えない。
　水伊は小さく舌打ちする。
　月島の勘も外れた。干渉の理由はスパイ行為の結果ではなかった。
　尤も、中佐の答えが完全に信じられるという訳でもないが。
　水伊は、月島が問えと言った台詞をゆっくりと口にしてみた。
「あれは、彼等は『何』なのです？」
　中佐の顔が、僅かばかり引き攣った。
「―――トップシークレットです」
　彼は口を閉ざす。その沈黙は、決して揺るぎそうにない。
　潮時だな。
　水伊は立ち上がった
「では、これで。よろしくお願いします」
　水伊の差し出した手を、中佐は強く握り返した。僅かばかり、汗ばんでいるのが不快だった。

　モニターからジャップの姿が失せ、短い発信と共に光が消えた。
　男が、回転椅子の向きを変えた。
「お前に任せようと思うのだが」
　老人が、パイプを磨きながら言った。白い頭髪に白い肌。そのせいか、淡いブルーアイズが作り物のような印象を受ける。制服の階級章は、将軍のものだ。
　対する男は生成りのスーツ姿で、しかも黒っぽいネクタイはルースに緩んでいる。まだ若い。４０前後だろう。沈んだ肌の色はカラードのものだが、何系とも判断できない。
「いつ、日本へ行く？」
　男が横柄に聞く。
「あの様子では、まだ先だな」
　老人の口調は、ゆっくりで穏やかだ。
「水城冴子のボディが必要だ。生け捕りがベストだが、禍根を残さない為には殺した方がいいかもしれんな。あちらが望んでいるのは、そういうことらしいし」
　世間話のように、男が頷く。
「わかった。なるべく、生け捕るようにしてみよう。少し早目に向こうに渡れたほうが、確率は高くなるが」
「ああ、そういう風に手配しておく」
　老人は、掌のパイプを熱心に見ている。
「――ところで、お前はどう思う？」
　別の話のように言う。男は足を組み替え、少し考える。老人は続ける。
「血族だからといって、それが表れるとは限らまい。水城冴子に表れていないのなら、我々が手出しする必要はない」
　男が、薄い唇をもたげてニヤリと笑った。
「３年前に５人を殺したのは、あれだ。それで充分証になる」
　冷たいグリーンアイズが、酷薄に光る。
　老人が顔を上げた。頷く。
「手配が出来たら知らせてくれ」
　男は、音もなく立ち上がり背を向けた。
「――待て」
　老人が呼び止める。ノブに手を掛けたまま、男が振り向く。細い鼻梁、尖った顎、薄い唇、端正だが冷たく高慢な顔だ。
「今なら、断ってもいいぞ」
　老人の言葉に、男はシニカルに笑う。
「そんな情があれば、我々はアジアの奥地に一大帝国を築いていた。それか、もう少しメジャーな存在になっていただろう」
　男は笑いながら、部屋を出て行った。
　ドアが閉じられる。
　将軍は息をつき、インターフォンで秘書官を呼ぶ。