Lonely　Avenue38

　人気のない図書館に、ページを繰る乾いた音が響く。開けたページ、指で辿り目当ての単語を見つける。
　冴子は、書き殴ったドイツ語のメモの下に「深層心理」と書いた。溜息をつく。又、辞書を繰り次の単語を探す。見つからない。
　学校の、必要性のない儀礼的に置かれている独和辞典だ。のっていない単語が多い。しかも、訳が古臭い。冴子はこの面倒な作業に嫌気が差していた。
　ようするに、薫の左肩の痛みや痺れは精神的なものだという診断だ。それで充分じゃないか。冴子は、パタンと音を立てて辞書を閉じた。
　唇を噛む。
　高窓から差し込んだ光が、向こうの机にオレンジの太いストライプを描いている。温かい風が吹き込む。
　冴子は、又辞書を広げた。
　医学会にばれるのは、マスコミにばれることより怖い。薫が精神科の病院へ入っていくのを見た時、彼女からその担当医にばれる恐怖を思った。その思いが、病院に忍び込んでカルテをコピーさせ、こうやってそれを訳させている。
　自分の存在が、常に薫のプレッシャーになっている。冴子は知っている。それは始めて会った時からだ。けれど、これ程とは思っていなかった。
　冴子は冷笑する。
　それを知っていて、なぜ卑屈になった？　決して薫は、自分より優位に立てないのに、薫の小手先にどうして惑わされた？
　カルテの方は、原因を明記するまでには至らない。途中、催眠という単語にぞっとしたが、続いて本人が否定したとあったのでホッとした。
　暴露を恐れているのは冴子だけではない。
　＜水城＞も薫も同じことだ。
　冴子は思案する。
　薫の病気を組み込んだシュミレーションを幾つも思い描く。が、どれも冴子を満足させる結果に至らない。
「――水城さん」
　ふいに掛けられた甘えた声に、顔を上げる。
「もう、閉館なのだけれど」
　頷いて見せながら、なぜ彼女はこんなに馴れ馴れしいのだろうと考える。見知った顔ではある。
「珍しいわね。水城さんが図書館にいるなんて」
　彼女の左胸には、同じ色の学年章があった。冴子は、机のものを片付けながらクラスメイトだったのを思い出した。名前は――。覚えていない。
　彼女はまだ何か言いたそうな顔をしている。
「――さよなら」
　が、冴子は無視して図書館を出た。
　学校は、穏やか過ぎて退屈だ。蔦の絡まる古めかしい校舎は、その象徴のようで見る度にむかつく。吐き気がするほど平和な人達。
　校門を出ると、前に白いクレスタが止まっていた。クラクションが鳴る。
　冴子は助手席に乗り込む。薫は慣れた動作で車を発進させた。
「館に行ったら、まだ帰ってないっていうから」
　薫が優しく言う。冴子は、その横顔を見詰める。原因が掴めていなくても、治療の効果はあるのだろうか？　最近、以前のような棘がなくなった。
「２学期になって、真面目に学校行ってるわね。実力テストもよかったし、私も安心…」
　薫は一人でしゃべり続ける。冴子は無視して視線を移す。ブルーな気分。疲れているからだと思いたかった。
「―――ら、エスカレーターだっていっても入試はあるのだし、しっかり……」
「入試？」
　ふいに飛び込んだ言葉に、冴子は聞き返した。
「Ｆ女子短期大学のよ」
「聞いてないわ、そんな話」
　唐突な怒りに躰が震えた。
「じゃあ、近いうちに会長がお話になるでしょう。私も、会長からお聞きしたの、昨日だから。あなた、Ｆ短大に行くことになったそうよ」
　唇を噛みながら、薫の視線を見詰める。
「嫌。そんなの」
　薫の唇が、微かに緩む。冷笑する。
「あなたに、選択の余地なんてないでしょう」
　何なのだろう、この強気は。冴子は息を詰める。呪文のように胸の中で呟く。薫は決して優位には立てないのだ。＜水城＞なのは、薫じゃない。自分自身だ――。思考がぱたっと止まった。
　これが、全ての要因だ。＜水城＞であること。自分を守る為に、自ら檻に入っている。
　どうする？　どうすれば、このサークルから抜け出せる？
　Ｄａｄｄｙが、いてくれたら……。
「本当なら、もっとしっかりした大学に行ってもらいたいのだけれど――日本は学歴に五月蝿いから――そう、のんびりもしていられないし、その点、Ｆ女は格式は問題ない上、あなたの単位を出すぐらい造作ないわ」
「そう…」
　冴子は投げやりに答えた。
「とにかく、今が大事な時なのだから、慎重に。面倒はごめんよ」
　薫は冴子を見ようともしない。
「殺してやる」
　低い声で呟いた。薫がチラと見る。
「あんたを、殺してやる。そうよ。どうして、あんたが例外じゃなきゃいけないの？　知ってる者は殺す。そうやって自分を守ってみせる！」
　しゃべっているうちに、躰が熱くなってきた。自分で納得する。それしか方法はない。
　ふいに、重いショックを感じた。
　車が音をたて、急ハンドルで左折し止まる。
　バシッと音が響き、右頬を叩かれた。
「馬鹿言ってる場合なの」
　薫が怒鳴る。冴子は躰をすくめる。
「今更、何寝惚けているよ。＜水城＞だって何もかも握り潰せるという訳じゃないのよ。それに、今は水伊が動いている。向こうにばれたら、＜水城＞を追われるだけじゃすまないのよ」
「じゃあ、水伊も殺すわ」
　負けずに怒鳴った。
「――もう、そんなレベルの問題じゃなくなってるのよ」
　急に低く沈んだ声で言った。
「水伊が死んでも、麻美がいる。川西代議士がいるわ。もう、水伊個人のレベルじゃないの。この攻防は、あなたの手に負えない」
　冴子は、背中がシンと冷えていくのを感じる。本当は、何もかもわかっているのだ。薫を失えないことも、自分では何も出来ないことも。なら、この歯痒さはどこにぶつければいい？
「どうして、水伊を潰さないの？」
　薫は曖昧に笑った。ゆっくり、車を発進させる。
「水伊が何を仕掛けてきても、会長がおられる限り大丈夫だから。あなたは安心していいのよ」
　冴子は爪を噛む。
「私に、オフェンスの術はないの？」
　薫は首を振る。なんとういう、絶望感だろう。
「不安なら、早く＜水城＞を継ぎなさい。それが一番のディフェンスでありオフェンスでもあるわ」
　冴子は、不安の中を迷う。人の思惑それぞれに振り回されて、自分を見失っている。だから、何も決められない。サークルから抜け出せない。
　冴子は嘲笑する。
　保身を計るなんて、俗になったものだと。
「大丈夫よ。＜水城＞でこういうクーデターが成功した例は一つもないわ」
　冴子は笑む。
　怒りを無理矢理仕舞い込む。薫は必要だ。
「あなたは、むしろいいチャンスだと思っているのね」
　何を、と薫は問わなかった。
　乱れに乗じて、薫も何かを仕組んでいる。それでも、手を切ることは出来ない。確かに＜水城＞のことは手に余る。
　冴子は、薫の横顔を疎ましく見詰めた。