Lonely　Avenue40

　水城老は、長い間黙したままだった。
　高橋は前に立ち、老人の言葉を待っている。老人は椅子に深く座り、腕を組み目を閉じている。微動だしない。
　高橋には、老人の気持ちがわからない。不可解さが導く様々な疑問は、いつも一つの仮定に集約していく。
　老人は黙したままだ。気の遠くなるような沈黙。ふっと、言葉が漏れた。
「冴子様は、本当に静音様の子供なのですか？」
　問い掛けて、しまったと思った。が、もう遅い。老人が目を開け、高橋を見た。
「静音がケン＝オダ以外の誰の子供を生んだという？」
　老人が薄く笑う。
「いえ、そうではなく……。ケン＝オダが他の女に生ませた子供という――」
「それは、もういい」
　老人は叱咤するように、高橋の言葉を遮った。
「ケン＝オダも静音も死んだ。それを今更問うても、無意味だ」
　老人は椅子を回転させ、背中を向けた。
「あれが、ケン＝オダの娘であることは確かなのだ」
　独り言のように呟いた。
　高橋は、静音が死亡した時一度だけ会ったケン＝オダを思い出す。今の冴子は彼によく似ている。顔形というより、あの全身から発する気だ。鋭く冷たい、油断ならない気配。さすがに、冴子のものは多少、柔らかく甘いようだが、あの皮膚感覚は見事な相似形を描いている。
　老人が冴子に対して冷酷なくは、その為かもしれない。
　高橋は、報告書を見せたことを後悔する。
　水伊は、川西代議士を抱き込み、ペンタゴンまで巻き込もうとしている。今なら、まだ止められる。
「ほうっておけよ」
　見透かしたように老人が言う。
　高橋は、息を詰める。
「お前の気持ちはわかるが、この件には触れるな」
「冴子様、危険ではないのですか」
　老人が含むように笑った。
「あれは、自分の身は守れる」
　老人が椅子の向きを変える。高橋を見据える。
「でも、ペンタゴンですよ」
「心配ない。ペンタゴンはケン＝オダの余波で介入してくるだけだ。それに、日本で一体何が出来る」
　高橋は、唇の端だけで笑って見せた。
　老人は、冴子がまだ子供なのを忘れている。可哀想な孤児だというのを、考えたこともないのだろう。
「高橋」
　ふいに、老人が１冊のパスポートを差し出した。反射的に受け取る。濃紺の、ステーツのパスポートだ。
　老人が顎をしゃくった。高橋は、中を広げて見る。冴子の写真が貼ってあった。名前は「リー＝ビクトリア＝チェン」となっている。
「これは」
　よく出来た偽造だ。中国名の冴子に違和感はない。
「高橋、万が一の時はそれで冴子を逃げさせろ」
　高橋は、少しの間冴子の写真を見詰めた。
「ただし、ステーツには行かせるな。ヨーロッパもだ。アジアに、それも南西か中央だ」
　老人の気持ちがわかるような気がしたが、本当にわかりはしない。――なぜ、守ってやらないのだ。
「わかりました。これは、お預かりします」
　高橋は、胸ポケットにパスポートを入れた。
「高橋、あれはな」
　老人が嘲笑するように言った。
「あれの血の闇は、どうすることも出来ぬものだ。あれは、そういう血族だ。だから、滅んで行く」
　高橋には、労ｓ人の言うことが納得できない。が、老人は話し続ける。
「水城の光も月島の導きも、あれは気づかない。それが、救いだというのに……。高橋」
　老人が大きな息をついた。
「あれの闇は、我々の想像も及ばない程、暗く深く畏ろしいものなのだ」

　水伊は、残りのワインを飲み干した。
　確か、冴子より１つか２つ年上のはずだ。が、そうは見えない。吉田美奈子の幸せそうにケーキを頬張る顔を見詰めて、ひどく違うものだなと水伊は思った。
「食べられないんですかぁ」
　手つかずの皿を見て、吉田が語尾を延ばして問う。
「甘いものは苦手でね。食べる？」
　吉田が、にっこり笑って頷く。水伊は笑みを浮かべて、デザートの皿を吉田へ差し出した。
　ものおじしない娘だ。もっとも、最近の子供はそういうものらしいが。
「もう、慣れたかい？」
　顔を上げて笑った。片頬に、エクボができる。
「はい。でも、まだ失敗ばかりですけどぉ」
「失敗するの？」
「そりゃ、もう…」
　吉田は、何か思い出したのかくっと笑い出した。
「あんな広い館で、住人があれじゃあ、君も大変だね」
　吉田は笑い続けている。箸が転げても可笑しい年頃か。耳慣れぬ笑い声に、水伊は心ならずも当惑される。
「……私、最初、薫様をお嬢様って思っちゃったんですよねぇ」
　それが、そんなに笑える事とは思えないが、吉田は笑い続ける。
　ウェイターが、コーヒーを持って来た。
　水伊はポケットから葉巻を取り出し、火をつけた。吉田は、シュガーとミルクをたっぷり入れて、かき混ぜている。水伊はその甘さを想像して、うんざりする。
「冴子――」
　問い掛けて止めた。どう問えばいいのか、わからなかった。が、冴子の名前が出たとたん、吉田の顔から笑みが消えた。
「私、…怖いんです、冴子様がぁ」
　水伊は、煙を深く吸う。冴子の高慢と気紛れをぶつけられては、たまったもんじゃないだろう。
「冴子は、我侭だからね。言葉もきついし。悪い子じゃないのだけど。私からも一度言っておくよ」
　と、口先だけで言っておいた。
　水伊は、灰皿を引き寄せ、葉巻を揉み消す。
「ところで、君。どうして、あそこで、犬飼っているか知ってる？」
　目を見開いたまま、吉田が首を振る。水伊は平静に笑む。
「水城は古い家でね、賊や間者が絶えることがないし、敵も多かった」
　水伊は、コーヒーカップを持ち上げ一口飲んだ。
「代々、そういうのを始末する為に、喰わせる為に飼っているんだよ。馴れているようでも、主人の一言で喰らいついて、瞬く間に骨にしてしまう。残った骨は、磨り潰して庭に撒く」
「う、うそぉ」
　吉田の頬が、ピクピク引き攣っている。
「本当だよ。ま、。闇から闇へってヤツだから、証拠なんてないが、戦前まではよくあったことだ。そうやって邪魔者は消していったんだよ」
　吉田が唇を噛み、下を向く。
「君が、雑誌社に情報を流しているのは知っている」
　ピクッと、吉田の肩が震えた。水伊の唇から笑みが漏れる。ゆっくし、内ポケットから小さな錠剤の瓶を取り出した。
「これを、老人に飲ませてくれ」
　引き攣ったまま、吉田は首を振る。
「毒ではない」
　水伊は瓶を振って、中を混ぜる。そして蓋を開け、錠剤を二つ取り出した。ゆっくり、飲み下す。
　何かもっともらしい理由をつけるべきだと思ったが、やめた。どうせ無駄だ。
「老人の薬に混ぜてくれればいい。ただそれだけだ。やってくれるね」
　覗き込むように、瞳を見つめる。手を伸ばし、吉田の腕を取った。引き寄せる。そして、瓶を吉田の手に握らせた。
「君の生命は私が必ず守る。君を、害するものは、何もない」
　吉田と水伊は、見詰めあい、互いの手を握り締めていた。
　長い沈黙だった。