Lonely　Avenue41

　１００メートルぐらい先、雑踏を縫うように水城冴子が歩いていた。
　袖をまくった白いシャツ、ブルーのフレアミニ。その後ろ姿は、ハイスピードで前に進んでいく。長い髪がさらさらをなびく。擦れ違う人が、時々振り返っていく。
　俊は、隣を歩いている有栖川に向かって顎をしゃくった。
　有栖川は小さく頷き、足を速め水城冴子との距離を縮めていく。俊は、ポケットカメラのフラッシュを用意する。
　張り込んで４日目。１週間前の傷害事件から、この辺りとカマをかけたのが、当たった。
　時計は、１１時を回っている。
　猫がテリトリーを徘徊するように、冴子は夜に彷徨う。そして、人を傷つけていく。いつだってそうだ。
　有栖川が冴子と並んだ。
　俊は走り始める。
　と、小さな叫びが聞こえた。有栖川が、冴子を手筈通りの路地に引きずり込むのが見えた。俊は人の波を潜り、路地へと駆け込む。
　案の定、暗い袋小路の中で二人は睨み合っていた。冴子が壁を背にしている。有栖川は腰を低くし、空手か何かの構えをしている。じりじりと間合いを詰める。
　俊は、壁に躰を寄せてカメラを取り出す。
　やはり、キャスティングミスだったかと一瞬思う。有栖川が、やり過ぎなければいいが。俊は、唇を噛む。
　有栖川が殴りかかった。冴子は薄く笑い、すっと避ける。その次も避けた。
　俊は身を起こすと、シャッターを切った。フラッシュの残光に緑の瞳が光った。たて続けにフラッシュをたく。
　急に、手に激痛が走った。カメラが落ちる。脇を、風のように水城冴子が走り抜けた。
　とたん、路地はしんとして音を失った。
　俊は、大きく息を吐いた。カメラを拾い上げる。かなり痛んでいる。感光したかもしれない。
「有栖川さん、大丈夫ですか？」
　呼び掛けながら、近づく。有栖川が呻きながら、よろよろと立ち上がった。
「水城冴子は……」
　壁にもたれ、荒い息をしている。
「逃げました」
　答えると、有栖川は腹を抱えたままハハッと笑った。
「たいしたものです。…人の、急所というものを、ちゃんと、心得ている……」
　有栖川は、そう言って大きな息を吐いた。
「とりあえず、病院行きましょう」
　俊は有栖川の腕を取ると、表通りに向かって歩き出した。
　ようやく、手の疼きを感じ始めていた。

　冴子は、走り続けている。
　パニックを起こしていると思う。
　フラッシュに目がくらんだ。そして、何が起こったのかわからなくなった。だから、逃げた。理解できないものへの恐怖は強い。
　混乱する頭の中で考える。あの二人は何者で何の目的だったのかと。答えは得られず、迷走するばかりだ。
「Ｄａｄｄｙ」
　立ち止まり呟いた。
　涙が、こぼれた。
　どうして、放っておいてくれない？　どうして牙を見抜いて、仕掛けてくる？　かなうわけもないのに――。
　涙が、又こぼれる。
　愚かな人間に振り回されて、これでいい訳がない。
　冴子は、重い足取りで歩き始めた。
　拓馬の所へ行こうと思う。自分の為に開かれるドア。やわらかな眼差し。やさしい声。それしか、すがれるものが思い出せない。
　が、冴子は又、立ち止まり、２、３度激しく頭を振った。
　ＬＡの血まみれの岩石砂漠が、脳裏から消えない。あのフラッシュが、それを蘇らせた。閃光の後の風景は、いつもあの砂漠へと帰っていく。
「Ｄａｄｄｙ　……私は、見捨てて逃げたの？　他に方法があったのに」
　ゆるゆると上がるＤａｄｄｙの血まみれの腕。そして、言葉。
「――解放ではなかった」
　ショウウウィンドウの中に、グリーンアイズが二つ浮かんでいる。暗い光を湛えて。

　拓馬は、本を閉じシャーペンを置いた。耳を澄ます様に、目を閉じる。
　不安な気持ちは、相変わらず胸の巣食っていた。抽象的だが、はっきりとした不安。自分のことは【見】えないから、予知なのか単なる気分なのか、わからない。ただ、あまり馴染みのない不安だ。
　拓馬は【気】を広げる。
　流れ込んでくる沢山の雑念達。それらは、拓馬に安心感を与える。人の生活や思いは、たいていの場合慈愛に満ち平和なものだ。拓馬は、そういう人の営みに幸福を感じる。元来、人とは愛に満ちたものだと思える。
　隅に蒼い小さな光を感じた。冴子だ。こちらに向かっている。ゆっくり、流れてくるようだ。拓馬は【気】を閉じた。
　立ち上がって、ドアの鍵を外す。
　台所へ行き、冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。
　時計は１２時を回っている。何であれ、この夜遊びは止めさせないと、と思う。
　保護者ぶるつもりはないが、こういうのがいい訳がない。冴子は、まだ子供なのだ。
　冴子が、近づく。マンションの階段を登り始める。ここまで来ると【気】を開かなくてもわかる。珍しい。駆け上がってきている。
　拓馬は、台所から出た。
　ドアを見詰めて立つ。不安は、冴子が抱えるものなのだろうか。近づく波動に、胸の高鳴りを覚える。
「――拓馬」
　ドアが開き、冴子が飛び込んできた。そのまま胸にしがみついてくる。
「どうしたの」
　腕を回し、軽く抱き締めながら問う。冴子は何も言わず、拓馬の胸に顔を押し付ける。
「……冴子、靴、はいたままだよ」
　笑いながら言うと、冴子はそのままの姿勢で、靴を脱ぎ後ろのドアに向かって蹴った。白いローヒールはドアに当たって、重い金属音を響かせる。
　拓馬は、苦笑した。が、それは途中で止まった。
「何かあったのか」
　肩を掴み顔を上げさせようとするが、冴子は離れようとしない。
「冴子、冴子」
　繰り返し呼ぶ。
「冴子、どうしたんだ、冴子」
　ようやく顔を上げた。
　濡れた瞳が、拓馬を見詰める。暗い緑。日陰の海のようだ。半開きの赤い唇から掠れた声が漏れる。
「どうして……」
　目を閉じた。涙がすっと、頬を伝って落ちた。上半身を反らせる。
「どうして、忘れられないの？」
　叫んだ。拓馬は、倒れてしまいそうに反らせた上半身をかき抱く。
「どうして、死人に縛られるの？　どうして、Ｄａｄｄｙを見捨てて逃げたという意識から、逃げられないの？」
　閉じた目から、涙がぽろぽろ零れ落ちる。のけぞった白い喉が、痛ましい。
「冴子」
　反り返る力に、引きずられてどの場に崩れた。
「――冴子。二人で、遠くへ行こう。皆、捨てて、二人で暮らそう」
　決心が固まったのは今だけど、それはずっと考えていたことだった。
　冴子が、目を開けた。
「冴子の不安の姿が、わかるんだ。冴子の言っていた、自分が自分でいられる所へ行こう。これ以上、不安に食われないうちに」
「――本気？」
　冴子が、右手で頬に触れてくる。抱き締めた腕の中で、躰を硬くした。瞳の中にすがるような色が掠める。
「本気だ。パスポートもある。今すぐ、どこにでも行ける。どこへでも」
「……どこでも、……みんな、捨てて」
　切なく笑う。困ったような戸惑うような寂しい顔。目を閉じた。
「無理よ、あなたには出来ないわ。あなたは、誰も裏切れないし、捨てられない、そうでしょ」
　顔を背ける。
「冴子、俺を見ろ」
　顎を掴んで、顔を上げる。が、視線は拓馬を捕らえない。
「冴子、俺を見ろ。俺は、本気なんだ。もう俺は、お前を選んだんだ。何よりも、お前を選んだんだ」
　大声を出す。言葉が上手く伝わらないのが歯痒い。
　見詰める。グリーンアイズ。楕円形の光彩。信じかねている瞳。
「……逃げよう。お前の為なら、捨てられる……捨てられるんだ」
　ふいに、冴子が拓馬の首にしがみついた。
「行くわ、あなたと」
　耳元で囁いた。
「冴子」
「……抱いて、今は抱いて。……忘れさせて」
　しなやかな四肢は、腕の中にあった。