Lonely　Avenue43

　冴子は、頬杖をついたまま、校門の方を見ていた。
　小春日和の６時間目。教師のへたくそなリーディングが、眠り込むのをかろうじて防いでいる。どの授業も退屈でたまらない。どこの学校も同じ。同じ風景。同じ人間達。確かに、ここは多少上品な気もする。が、それは上辺だけを見ているからなのだと思う。
　前の席の生徒が、溜息と共に大きな欠伸をする。冴子もつられて、ぐっと伸びをした。
　あと２０分ほどで授業が終わる。
　冴子は溜息をつき、机の上に伏せた。少し眠ろうかと思う。英語の教師は絶対あてたりはしない。帰国子女というのに、どうしようもないコンプレックスを持っているのだ。――ま、あの発音ではそれも当然かも知れない。
「学校で、英語が話せることを、決してひけらかすのじゃなくてよ」
　中学に入る前、薫が言った。薫の言葉で、唯一役に立ったと実感のある言葉。ただ、効果はなかったけれど。
　異質なものは、どんな仮面を被っても、どこかからそれが漏れる。異質なものは、異質なものでしかない。
　冴子は躰を起こし、又、頬杖をついた。
　校門を見詰める。
　今日、拓馬は来ない。父親の家に行くと言っていた。
　溜息が漏れる。
　やはり、不安は消えない。あの日の追い立てられるような不安ではないが、不安であることには違いなかった。
　拓馬は、本気で逃げるつもりでいる。
　訪れる度、部屋は少しづつ片付けられ、荷がまとめられていく。生活の匂いが、次第に薄れていっている。
　一緒に逃げるのは簡単だ。拓馬は好きだし、抱かれていると安らげる。でも、二人で生活していけるだろうか。＜水城＞に飼い慣らされて、軟弱になっているのに。
　それに、拓馬は本当の姿を知らない。
　それを見られて尚、愛されるとは思えなかった。マリア＝ホワイト、相田一美、彼女等は見てしまった為に人生を踏み外した。拓馬に、あの時のように恐れられたり拒絶されるのは、辛いと思う。愛されなくなるのは、もっと辛い。
　冴子は、決めかねている自分を歯痒く思う。
　少なくとも今なら、拓馬は本当にどこへでも一緒に行ってくれるのに、チャンスは今だけかもしれないのに、冴子は不安故に身動きできない。
　拓馬が優しすぎるのがいけない。
　いつも優しいから、あっさり捨てられそうな気がする。本気で頼った時に、ふいに消えてゆきそうな気がする。彼は、誰も裏切れない。自分や薫とは違う。だから、惹かれた。
　冴子は、唇を噛みうつむいた。
　泣けてきそうになる。腕を抱える。
　へたくそなリーディングは、まだ続いている。リーディングに負けないぐらいの、下らない内容。アメリカにおける高校生の生活、なんて馬鹿にしている。
　Ｄａｄｄｙ　助けて。周りにプレスされて、逃げる場所がない。息が詰まる。
　冴子は又、溜息をついた。
　ない物ねだりしか出来ないなんて、子供と同じだ。苦笑する。
　自分の中の、成長しきれない、むしろ成長の止まったものを感じた。それが、Ｄａｄｄｙ　を呼び続ける。拓馬の存在はそれを呼び起こす。
　ふいに、大きな音が聞こえた。
　反射的に顔を上げ、校門の方を見る。
　白いクレスタが、急なハンドリングで校門を入り、校舎の前できしむブレーキ音と共に止まった。
　薫が転がるように、車から出てくる。
　冴子は、荷物を片付け始めた。
　案の定、少しすると廊下を走ってくる足音が聞こえ始めた。
　忘れ物がないか、チェックする。
　教室のドアが開いた。
　教頭が立っていた。
「水城さん、すぐ帰りなさい。お祖父様が倒れられた」
　冴子は立ち上がり、教室を出る。現実性のない足取り、思いがけない言葉、祖父が倒れた…？
　校舎の出口で待っていた薫の青ざめた顔色で、少し現実性を取り戻す。
　お互い無言のまま、車に乗り込んだ。
　薫は、乱暴に発進し猛スピードで学校を後にした。
「……倒れたって、どういうこと？」
　冴子の問いに、薫は答えない。張り詰めた表情で、前方を見詰めている。ステアリングを握り締めた手が白く色を失っている。
「薫！　どういうことなの？」
　冴子は声を荒げた。
「薫」
　薫の肩が、ビクッと震えた。そして、大きく息を吐いた。
　前方の信号が赤になり、車は止まる。
「さっき、ビルで倒れられたの。心臓らしいわ」
　薫は前を見たまま機械的に言う。唇が微かに震えている。薫の動揺を見ているうちに、冴子は反対に冷静さを取り戻してくる。
「危ないの？　あなたが、こんなに動揺する程………青になったわよ」
　薫が、慌てて車を発進させた。
「……最初の発作にしては、大きいのよ。多分、今まで隠しておられたみたい。父も私も、気付かなかった」
　冴子は、少し唇を歪めた。あの祖父なら、発作を隠すぐらい出来るだろう。そういう気力のある人だ。でも、高橋と薫が全く気付かなかったというのも、なんだか妙だ。
「もし、お祖父様が亡くなられたら、どうなるの」
　冴子の言葉に、薫がキッと横を向いた。
「馬鹿言わないでよ。今、会長にもしものことがあったら」
　続きが言葉にならなかった。薫は乱暴にハンドルを切り、スピードを上げる。
　冴子は小さく息を吐く。
　盾を、支えを、失えば薫の力も、ましてや自分の力等ないに等しい。水伊と正面切って対することになっても、勝負は目に見えている。
「……もう少し、あと２年、……いえ、今年一杯でも、あなたが18になる時まで」
　薫が呟く。彼女でも祈ることがあるのだ。冴子は冷笑する。
　祖父が死んだら＜水城＞から逃げられるかもしれないと思う。プレッシャーが取り除かれる。自由になれる。
　躰の緊張が緩む。
　拓馬に会いたい。
　今、会いたい……。

　集中治療室の祖父の様子は、わからない。
　微妙なところだと言う。
「冴子様」
　特別室の前で、高橋が待っていた。
「水尾社長がまだ着いていません。あとは、お揃いです」
　薫程でないにしろ、高橋も酷く動揺しているようだ。冴子は安心させてやるつもりで、微笑み頷いた。
「お祖母様は、来られているの？」
　冴子の問いに、高橋は首を振った。
「お館におられます。お知らせしていないのです」
「その方がいいわね」
　冴子は短く、言い捨ててドアを開けた。
　虚数達が、一斉に顔を向けた。
「遅くなりました」
　後ろから入ってきた薫が、言った。冴子は軽く頭を下げると、空いていたサイドボードの前の椅子に座った。
　病院というより、一流ホテルのスイートのリビングのような部屋だ。革張りのソファに、水地未亡人と水尾芳美とその二人の子供。向かいのセットの椅子に、麻美と水伊が座っている。
　皆、お互いを無視するように沈黙し、緊張した面持ちでいた。麻美はさっきから何度も唇を嘗めている。
　薫が近づいて来て、耳打ちする。
「着替えを取ってくるわ。制服のままという訳にもいかないでしょう」
　冴子は頷く。薫はだいぶ、落ち着いてきたようだ。引き攣っているが、少し笑んでいる。
　そして、音も立てずに出て行った。着替えを取りに行くと言うのは口実で、きっと何かを仕切りに行ったのだ。
　冴子は、肘掛に片肘をつく。
　長い夜になりそうだ。
　冴子は考えようと思う。
　祖父が死んだ時のこと、死ななかった時のこと、これからのこと、拓馬のこと、自分のこと……。時間はあるだろう。