Lonely　Avenue47

　二本目の缶ビールを取る為に、冷蔵庫を開けた。が、俊は何も取らずにドアを閉めた。棚からグラスを取り出し、ウィスキーの瓶を持ってリビングに戻る。
　ソファに腰を落とし、ウィスキーをストレートのまま飲み始めた。
　こんな調子でいると、アル中になる。
　頭の隅で囁いているが、それも酔いの波の中に沈んでいく。
　＜水城コンチェルン＞の総会は３日後に迫っている。
　会長は病床に着いたまま、水伊と川西の思惑通りにことは進んでいる。ペンタゴンも動き出したと川西は言った。どのみち、もう俊の耳に入る次元ではなくなっている。
　ウィスキーの苦味が、舌を刺す。
　空になったグラスに、フォーフィンガー程入れる。カーテンが開いたままの窓で、街の灯が瞬いている。灯をつけていない部屋。オーディオとヴィデオのデジタルが、月の光のように辺りを照らす。
　＜水城コンチェルン＞会長が、倒れてから薫と会っていない。というより、全く連絡がつかないのだ。彼女は今頃、事態の収拾に駆け回っているのだろう。３日後には、全て無駄になるというのに。
　俊はグラスを煽る。
　立ち上がる。テーブルの上に出しっぱなしになっている資料を片付ける。もうこれで、終わりだ。全ての手は打った。結局、推論の域を出ないとしても、もう終わったのだ。
　水城冴子の写真が、微笑している。
　わかっていたことに苛立つ自分に、さらに苛立つ。川西を引き込んだ時から、こうなることは覚悟していたのではないか？　川西の興味は水城冴子ではなく、＜水城＞なのだと承知していたのではないか？
　休暇を取るべきなのだろう、と思う。春からずっと見ていた水城冴子の写真。少女のような、でも妙に醒めた年齢とのバランスがとれていない顔。薫とよく似た細い顎。
　薫とも手を切って……。多分薫は閑職に追われることになるだろう。そこで生気を失っていく彼女を見るのは辛い。それに加担していた分、辛い。
　東京を離れよう。その前に、一度だけ水城冴子自身に会って、それで終わりにしよう。
　俊は、グラスに又酒を注いだ。
　電話を引き寄せ、プッシュする。薫へのコールは、空しく響くだけだ。水城冴子と接触するには、薫の手を借りるしかない。それは、不本意だが仕方のないことだ。
　コールが２０を数えたところで、受話器を置いた。大きく、息を吐く。
　ふいに、ドアチャイムが鳴った。
　一度、それから間をおいて、二度、ためらいがちにもう一度。俊は、ゆっくりドアに向かった。電灯をつける。足元がふらついている。天地がはっきりしないような気がする。
　ドアを開けると、東野が立っていた。
「……月島さん、いいですか？」
　俊は、顎をしゃくりリビングへ戻った。ソファに躰を投げ出す。
「勝手にやってくれ」
　横目に東野が台所へ入るのが映った。少しして、バドを持った東野が出てきて、俊の向かいのチェアに腰を降ろした。
　リンプルを開ける音が、心地よかった。
　東野は長い間、何も言わなかった。俊は軽く目を閉じ、半ばまどろみかけていた。
「――月島さん、俺、言うか言わまいか、すごく悩んだんですけど」
　ふいに、硬い声で言った。俊は目を開けた。東野はこれ以上ないぐらいの真剣な顔をしていた。
「多分、重要なことです」
　俊は、東野の真剣さにつられるように、躰を起こした。
「これ」
　東野が、Ｅサイズの写真を何枚か差し出した。受け取り、目を落とす。
「偶然見て、まさかと思ったけど、次の日も見て、それ撮ったんです」
　拓馬が、水城冴子と一緒にいる。バックは拓馬のマンションだ。入るところらしい。それから、出てくるところになり、御丁寧にＭＲ２の横で抱き合っているものまであった。
「――月島さん」
　顔を上げた。躰中が引き攣っているのがわかる。東野が悲痛な顔をした。そのくらい、酷い表情をしているらしい。
「Ｆ女では、結構有名なんだそうです。水城さんのＭＲ２の彼って。５月頃から……」
　声が、遠い。５月……５月……。一度、拓馬が取材の下書きを持って帰った。あれは、いつだった……？
　俊はグラスに残っていた酒を飲み干した。熱い塊が躰を焼く。
　裏切られていた。拓馬は、何もかも知って、知っていながら――。思考が空回りする。
「月島さん、俺、帰ります」
　東野が立ち上がった。
「こんなことになって、なんて言っていいかわからないけど」
　東野は俊に近づき、肩に手を置いた。
「あまり、飲まないで下さい」
　そして、部屋を出て行った。ドアの閉まる重い金属音が響く。
　俊は、茫然と写真を見ていた。
　拓馬、これがお前の「運命の女」だというのか？　お前が導いてやる女だというのか？
　頭を振る。
　どうして、何がどう繋がって、こんなことになった。
　拓馬の言葉が、次々思い出される。そうだ。一つ一つが、水城冴子のことを言っていた。何故、気付かなかった？
　手が震えている。
　＜水城＞の内争に、それから発する水城冴子の死に拓馬が巻き込まれずにすむとは思えない。では、このことを川西が知ったら、どう手を打つのだろう。
　思考が少しもまとまりを見せない。
　―――。
　又チャイムが鳴った。
　無視する。もう一度鳴って、それからノブを回す音がした。
「俊」
　高橋薫が、目の前にいた。紺のコート、頬に赤味がなく、酷くやつれている。生気もない。亡霊のようだ。
「……俊、どうすればいいの」
　亡霊が掠れた声で言った。手を差し出す。
「助けて」
　涙がはらはらと落ちてゆく。唇が動く。何を言ったのか聞き取れない。
「――俊、助けて……。このままでは」
　一歩、俊に近づく。スクリーンに映る影のように、現実性のない動き。
「水伊が＜水城＞になるわ。お願い、私を、助けて」
　それ以上近づかず、手を差し伸ばす。泣き濡れた瞳、半開きの唇。
「やめろ！」
　俊は叫び、グラスを思い切り投げつけた。グラスは、薫の間近を横切り壁に当たって砕けた。
「俊」
　薫の表情が戸惑う。
「お前は知っていたんだ。拓馬と水城冴子のことを知っていて、何も言わなかった」
　立ち上がり、薫を壁に押し付ける。ガラスを踏みつける鈍い音がした。
「俊、やめて」
「知っていたんだ」
　そのまま、ずるずるとその場に崩れた。薫は身動きしない。俊は、薫の腰を抱き締める。薫の指が、躊躇いがちに髪に触れた。
「……なぜだ、拓馬……なぜ、水城冴子なんだ」
　低く呻く。薫が、俊の頭を抱き寄せる。
「――別れるように言ったのよ、でも、駄目だった。月島拓馬は、はっきりあの娘が必要だと言ったわ」
　薫は、大きな溜息をついた。
「でも、それは、あなたがさせたことではなかったの？」
　俊は顔を上げた。首を振る。
「そう、そうなの」
　薫は頷く。
「俊、これだけは知っておいて。月島拓馬は、あなたを売るようなことは全くしていないってこと。あの二人は＜水城＞も川西も関係ないレベルで惹かれあってしまったということ」
　それをなぜ、薫が知っている？　俊は問い掛けてやめた。腰に顔を埋める。拓馬を守らなければと思う。
　薫が上半身を曲げた。別れることなんて、出来ないのかもしれない。