Lonely　Avenue50

　これは、夢。
　娘が帰っていた。背を向けて、窓の外を見ている。が、そのたおやかな立ち姿は、娘のものに違いなかった。
　暖かい陽が差し込む窓。娘の名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。気配に、失われた娘が振り返る。逆光で顔がわからない。でも、微かに微笑んでいるようだった。
「――静音」
　老人は、自分の声で目覚める。
　すっかり見慣れてしまった淡いグリーンの天井が、目に飛び込む。
　大きな息を漏らした。珍しい夢を見たものだと思う。と、人の気配に辺りを見回した。
　老人は息を飲む。
　窓から射し込む光の中に、娘が立っていた。夢と同じように、逆光の中で微笑して。
「静音」
　娘が近づく。顔がはっきりしてくる。
「――冴子。学校はどうしたんだ？」
　制服の冴子は、肩をすくめた。ベッドのすぐ側まで近寄り、老人を見下ろすように立つ。
「お話があるので、起きられるのを待っていました」
　薄く赤い唇が、淀みなく動く。このところ、急に大人びてきたようだ。老人は、半身を起こした。
「丁度いい。私も話がある。そこに、昨日の新聞があるだろう」
　指差すと、冴子は頷きテーブルの上の新聞を取ってきた。
「５面の記事を見なさい」
　言われるままに、新聞を広げる。
「高速、玉突き事故」
「違う。それではない」
　冴子は、チラッと老人を見た。瞳の奥で冷たいものが冴え冴えと光っている。
「現職刑事、惨殺される――」
　表情を変えることなく、淡々と冴子はその記事を読み上げた。読み終わっても、それは変わらない。
「これは、どういうことだ？」
　冴子は、新聞を畳みながら薄く笑う。
「何のことです」
「冴子」
　老人は声を荒げた。
「これは、お前の首を絞めることだというのがわからないのか。水城だって、限界がある。これだけじゃない。今までのこともそうだ」
　激しく言いながら、老人は冴子が確かに変わったということを感じていた。動じることもなく、唇に冷笑を浮かべ、冴子は老人の言葉を聞いている。ふてぶてしい、シニカルな態度。何がこれを変えたのだろう。
「お祖父様、誤解です。私には関係のないことです。私なら、もっと利口な方法を取るわ」
　それでも、冴子は有栖川を襲い殺した。血の匂いは、冴子から離れない。
　老人は息をついた。
　月島拓馬の光は、冴子を救えなかったのか？
「――お前の話は何だ」
　冴子は、息とつき唇を嘗めた。
「落ち着かれましたか？」
「私は、冷静だ」
　妙な所で、薫に似た面が出て来ると思う。
「今朝――」
　冴子の口調は、重く慎重だった。
「お祖母様が亡くなりました」
　一瞬、我が耳を疑った。血の気が、さっと引いたのがわかる。冴子は、同じ調子で続ける。
「医師によると、心不全ということです。ベッドで休まれたまま、安らかなお顔でした」
　冴子は言葉を切り、息を吐いた。
「高橋には知らせました。が、それ以外には止めてあります。どうされますか？」
　老人は、目頭を押さえた。様々な思いが巡り、躰を熱くする。言葉が、出なかった。
　時が、沈黙したまま過ぎる。
　冴子は、窓の外を眺めている。
「……今日は、珍しく暖かいな。こんな穏やかな日に逝けた深雪は幸せだな」
　老人の言葉に、冴子が歯を見せて笑った。
「高橋で止めたのは、賢明だった」
　改めて近づいてくる冴子は、やはりあの男、ケン＝オダと同じ面差しをしていた。静音の面影を探すのが、困難なほどだ。
　老人は我が身の不幸を思う。
　身内の者、全てに先立たれたように感じる。もう、誰も残っていない。
「それにしても、タイミングが悪いな。お前、あと何日で１８になる？」
「１４日です」
　冴子は、椅子を引き寄せ座った。その為、老人が冴子を見下ろす形になった。
「伏せておける程ではないな。これがどういうことか、わかるか？」
「お祖母様の株が、私の物になるのでしょう。正確な数は知らないけど、総会決定を反転できるかもしれないって、高橋が言っていたわ」
　老人は少し考える。数はたいしたことはないにしろ、冴子は＜水城＞として立てば、刷り込まれてきた畏怖が効果を発揮するだろう。が、冴子が＜水城＞である証拠はない。冴子は、決められた時間に決められた場所にいなかった。
「冴子、逃げるか？」
　冴子が目を見開く。
「偽造パスポートを高橋に託している」
　冴子の反応が予想できるようで、出来ない。冴子は目を見開いたまま、表情も躰も動かさない。
「水伊がどう出てくるか、想像がつくだろう。今の私には、お前を守ってやるだけの力がない。逃げろ。そして、私が死んだら戻って来い。水伊がどう立ち回ろうと、お前が＜水城＞だ」
　饒舌になってくるのは、冴子が全く表情を変えないからだ。言っていることが、何も伝わっていないように思えてしようがない。
「所詮、水伊は駄目だ。４、５年もすれば皆、わかる。お前はそれから立ったのでいい。だから、今は逃げろ」
　冴子の唇がゆっくり動いた。にぃっとアルカイックに笑う。
「逃げるのは嫌だわ」
「冴子」
　老人は宥めるような口調に変える。
「お前は今、デッドエンドにいるのだ。それがわからん訳ではないだろう。とにかく、今はタイミングが悪すぎる。逃げろ。月島拓馬と一緒に逃げろ」
　冴子の顔から、すっと笑みが消える。
「……拓馬とは、行かないわ」
「怖いのか？　全てを知らせるのが」
　老人は腕を伸ばし、冴子の腕を２,３回叩いた。
「お前の母が、お前の父を受け入れたように、月島拓馬もお前を受け入れる。彼は、真実が見える魂を持っている」
　冴子は、重く息をついた。髪をかき上げる。
「拓馬とは、行かない。逃げもしない」
　はっきりとした口調で言った。
「お祖父様、私、気付いてしまった。私は、決して人間にはなれないことに」
　小春日和の陽は優しく輝いているのに、この会話の薄ら寒さは何なのだろう。
「お祖父様の気持ちには、感謝します」
「……警察を止めるにも限界があるのだぞ」
「わかっています」
　この強情さは静音に似たのだろうか。
「逃げても、水伊は追ってくる。どうせ、生きていく限り闘わなければならないのだから」
「お前には、何の切り札もない。深雪の株も形だけで、何の役にも立たないぞ」
　すっと、冴子が立ち上がる。
「切り札は、私自身だわ」
　瞬間、蒼いオーラが燃えた。
　そうだ。それは正しい。冴子故に、水伊は立ち有栖川刑事は死んだ。冴子は全ての始まりであり、原因であり、結果なのだ。老人は冴子を見詰める。この人外の者を、それでも愛しているのだと思う。
「――高橋は信用していい」
　冴子の結ばれた唇が、血のように赤い。
「高橋は、決して＜水城＞を裏切れない。お前に＜水城＞になる気持ちがあるなら、高橋はお前の為に動く」
「薫は？」
　問いに、老人は肩をすくめた。冴子は薄く笑った。
「帰ったら、高橋にはっきり言うのだ。深雪の葬儀は５日後に。今夜は伏せて。明日他の連中に知らせろ。喪主は高橋、いや、お前がしろ」
　冴子は、頷く。事は、動き始めた。
　結論を老人は考えたくない。それを見るのは恐ろしいことだと思う。