Lonely　Avenue52

　吉田美奈子が、尾行に気付いていなかったとしても、それは彼女のせいだけどは言えなかった。
　水城家への道を辿る彼女は、しきりに振り返っている。まるで、自分の影に怯えているようだ。そう、裏切り者は、裏切りに気付いた時から影に怯える。
　振り返る。何も見つけられない。
　いや、等間隔でついてくる白い車は、目に入っている筈だ。なのに、彼女はそれが見えていない。
　水城家の城の様なシルエットが、夕陽に照り返している。
　合図が送られる。
　白い車がスピードを上げ、彼女の横に並んだ。悲鳴を上げる間もなく、彼女はクロロホルムの眠りの中に落ちていった。

　俊は、何度か躊躇った後、チャイムを押した。
「拓馬、俺だ」
　ドアはなかなか開かない。夜の９時を回ったマンションの廊下は、しんしんと冷えてくる。
「拓馬」
「ち、ちょっと待って」
　人の動く気配が伝わってくる。俊は小さな息をつくてお、ドアにもたれかかった。
　やはり、川西には言えなかった。このことを知れば、川西は俊が傷ついた以上に傷つくだろう。二人に思惑や下心があってのことなら、それはそれでいいた。が、拓馬の気持ちが純粋であればある程、周囲は傷つく。それを思うと、口に出せなかった。
　どうして、水城冴子なんだ。
　俊は幾度となく繰り返してきた問いを、投げ掛ける。
　首を振った。
　答えは知っている。何度繰り返しても、同じだ。けれど、どうしても彼女が拓馬の『運命の女（ファム・ファタール）』だと思いたくない。
　あの女の何を導くという？
「俊兄ぃ」
　声がして、ドアが開かれた。
「悪いな、こんな時間に」
「い、いや」
　拓馬が曖昧に答えたので、本当に悪かったのだとわかった。この寒いのに、拓馬はジーンズにシャツを着ただけで、ドアを開けている。
「いいか？」
　顎で部屋の中の方をしゃくる。部屋からは、ヒーターの熱気が流れてきている。
「うん」
　拓馬が頷く。奥に入りながら、俊は台所の流しの上にカップが二つ重ねてあるのを見た。誰かが来ていたらしい。
　俊は、コートを脱ぐとソファに崩れるように腰を落とした。
「何か飲む？」
　立ったままで拓馬が聞いた。
「――コーヒー淹れるね」
　答えを待たずに背を向け、台所に入っていった。俊は、溜息をつく。ネクタイを緩め、シャツのボタンを外す。
　部屋がキチッと片付けられ過ぎて、息が詰まる気がした。見ないうちに、不必要な物が取り除かれ、そのついでに生活の匂いまで失くしている。
　俊は、それに不快感を覚える。
　拓馬が、カップを持って戻ってくる。一つを俊の前に置き、一つを抱え向かいに座った。
「何？」
　不快感は、部屋だけじゃない。拓馬からも匂っている。そして、さっきから背中にチリチリ感じるもの……。
　俊は、思わず振り返った。
　寝室へのドアがあるだけだ。
「俊兄ぃ、何か用？」
　拓馬の声が、心なしか上擦っている。
　誰かが来ていたのではなく、いるのだろうか。
　俊は苦笑と共に、それを、その先も含めて打ち消した。考えられるけど、考えたくない。
「俊兄ぃ」
　俊は、コーヒーで唇を湿した。
「……拓馬、あれからどうなったんだ。聞いてなかっただろう。お前の『運命の女』のこと」
　拓馬は、目を見開きそれから伏せた。
「どうなったって……」
　口ごもる。
　せめて、拓馬から切り出して欲しいと願う。でなければ、拓馬はあまりにも俊や川西のことを考えてなさすぎる。が、俊は知っている。拓馬の残酷なまでに強い自我を。
　拓馬が肩をすくめた。
「別に、あれっきりだよ」
　人は嘘を言う時、不必要に饒舌になるものだ。
「やっぱり、振られちゃったよ。今度こそって思ってたんだけど、駄目だね。俺、女運が悪いのかなぁ。だいたい、母親もああだし……」
　俊は、遮るように写真を差し出した。拓馬が反射的に受け取り、目を落とす。
「――俊兄ぃ」
　抱き合う拓馬と水城冴子。何度見ても女は変わらない。どんな女でも、水城冴子でなければ、祝福してやるのに。
　拓馬が、大きく息をついた。
「俺が、何を言いたいのか、わかるな」
　拓馬は、引き攣った笑みを見せる。
「あの女だけは駄目だ。アレは、禍だ。あれに関わって死んだ人間が何人いるか、知っているのか」
　冷静であろうと、努めてゆっくり低いト－ンで言った。拓馬の顔から笑みが消え、強情な意思が現れてくる。
　つまり、知っているということか。それでもいいというのか。
「有栖川さんも殺された」
　一瞬目を見開く。これは知らなかったらしい。
「惨殺された。水城冴子が殺ったんだ」
　証拠は？　と叫ぶかと思ったが、拓馬は何も言わなかった。
　俊は煙草に火をつける。拓馬は唇を軽く結び、黙したままだ。互いに何を言っても、相容れることはないと決めているようだ。
　髪をかき上げる。溜息が出る。
「＜水城＞でクーデターが起こりそうなのは、知ってるな。今は、あれから離れろ。今は、近づくな」
　拓馬は首を振る。
「……ごめん、俊兄ぃ。こんな形で、俊兄ぃや川西を欺くつもりはなかったんだ」
　落ち着いた口調は、拓馬の意思の固さを示すばかりだ。
「せめて、２ヶ月。いや、１ヶ月でいいから、あれと会うな。川西の所へでも行って、じっとしていろ。せめて、そうしてくれ。せめて」
「冴子が、聖女じゃないのはわかっている。俊兄ぃが禍だという訳も。でも、俺には冴子が運命の女なんだ」
　話は、全く噛み合っていなかった。俊は腹立たしさに、荒々しく煙草をソーサーに押し付けた。苛立つばかりだ。
「……お前は、何もわかっちゃいない」
　言い捨てて立ち上がる。
　薫と何か手を策した方が、賢明だった。いつまでもめるかわからないが、拓馬を１ヶ月ぐらいどこかに監禁しておくことぐらい薫なら出来るだろう。
「俊兄ぃ」
「冷静になれよ」
　背を向けた。
「俺にも、なぜなんてわからないんだ」
　ドアを開けようとした時、後ろから声が掛かった。
「でも、でも、冴子に惹かれるんだ。冴子が必要なんだ。冴子を愛している」
　振り返ると、拓馬は子供のように泣きそうな顔をしていた。
「冴子と一緒に行く。一緒に逃げるよ」
　そのつもりで部屋を片付けていたのか。唇を噛む。踵を返す。
「俊兄ぃ」
「もういい」
　背を向けたまま言った。
「お前は、川西も俺も捨てて、水城冴子を取ったんだ」
　ドアを開け、部屋を出た。廊下の冷気に躰が震えた。

　拓馬はドアを見詰めて、呆然としていた。
　突然、腕が首に巻きついた。スリップを着ただけの冴子が、しがみついてくる。
　拓馬は腕を回し、冴子の細い腰を抱く。
「一緒に行こう」
　囁く声に、冴子は薄く笑っただけだった。

　吉田美奈子は、淡いブルーの細長い部屋に入れられていた。ドアには鍵が掛かり、小さな窓は高く柵がしてあった。家具は何もない。美奈子は床に座っているが、寒くはなかった。床暖房が入っているのかもしれない。
　ふいにドアが開いた。
　背の高い外国人が一人入ってくる。彼は、後ろ手にドアを閉めた。
　男は、黒っぽいズボンを穿いているだけだった。
　美奈子は、座ったまま後退った。犯されると思った。
　男が何か言った。
「こんなことは余り気が進まないのだが、実証して見せろと上が面倒なのでね」
　日本語で話していないのに、不思議と何を言っているのかわかった。美奈子は後退る。怖い。たまらなく怖い。じっとしていられない程、この男が怖い。
「人には、耐えられない恐怖がある」
　男がニッと笑った。太い犬歯が覗く。顔が妙に歪んでいる。いや、歪み始めている。
　悲鳴が、漏れた。