Lonely　Avenue54

　雪が降り始めた。
　早朝のオフィスは、しんとして浅い眠りを貪っているようだ。
　薫は窓にもたれて、ビルの間に落下していくその小さな風花を見詰めていた。煙草をふかす。街は淡く仄かに白く染まり、優しくなっていく。
　昨夜、冴子は帰ってこなかった。
　もう、帰ってこないのかもしれない。そんな気がする。
　薫は苦々しく唇を噛んだ。皮肉なものだ。自分の家にいるより、オフィスにいる方が冷静でいられる。
　薫は、自分が安堵しているのか苛立っているのかわからないと思う。少なくとも薫は、闘いを前に逃げた冴子の賢しさを嫌悪している。そして、共に逃げたであろう月島拓馬の強さを、羨ましいと思う。
　窓から離れ、机の上の灰皿で煙草を揉み消した。
　さて、父になんと言おう。
　父は、月島拓馬のことを黙っていたのをなじるだろうか。逃げたのは、薫の手落ちだと責めるだろうか。
　左肩がジーンと疼く。
　と、ドアの向こうがざわめいた。
「――困ります。待って下さい」
　言い争う声が近づいたと思ったとたん、乱暴にドアが開いた。
「すみません」
　早出の秘書が、薫に向って頭を下げた。
「いいのよ。あたなに、出入りしてはいけない所なんて、このビルにはないわ。そうでしょう、水城冴子」
　秘書が驚いた表情をした。冴子は、無表情で立っている。髪を一つに束ね、薄手の黒いコートに、黒いパンツを穿き、くたびれたデッキをはいている。まるで、少年のようだ。鋭い視線。
「下がっていいわ」
　薫は、顎をしゃくった。秘書は、又頭を下げて出て行った。
　ドアが閉まる。
「昨夜はどうしたの？」
　ソファに座るように、手で促しながら問うた。冴子は動かない。薫は肩をすくめ、ソファに腰を降ろした。足を組む。
「まぁ、座りなさいよ。コーヒー、持ってこさせるから」
「時間がないの」
　ようやく薫は、冴子の様子がいつもと全く違うのに気付いた。引き攣った真剣な顔。近づいてくる。
「軽井沢の一番奥の別荘のキーを頂戴」
　どこか歪な、非人間的な美貌が目の前にある。
「早くして」
　眉を寄せて、早口に言う。
「どういう事なの？」
　不安感に躰が冷たくなる。状況が把握出来ない。
「ペンタゴンが来たわ。街中じゃ、相手に出来ない」
　逆らえない声の響きに、薫は立ち上がりキャビネットからキーを取り出した。冴子が、手を伸ばし受け取ろうとする。薫は、手を引く。
「待って。どうして、この別荘のことを知っていたの？」
　冴子がシニカルに笑う。
「武器兵器の商談場所ってこと？　もっとも、最近は国外でやってるみたいね。私、＜水城＞の中で目を閉じていた訳ではないのよ。見本品、置いてあるでしょ。旧式だろうがエモノがないと、歯が立たないわ」
　キーを奪うように取る。背を向けた。と、振り返る。
「３日後に、２５日に訴訟を起こして。私が正当な＜水城＞だと。必ず、それまでに帰るから」
　瞳が暗緑色に光る。唇が、微かに笑っている。
「――冴子、行かないで。自分が、何をしようとしているか、わかっているの？　ここにいた方が安全だわ」
　冴子は肩をすくめた。
「私に手出ししても、無駄だと解からせないと、結局は同じだわ。私、一生金庫みたいな所で暮らす気はない。それに――」
　冴子は、言葉を切った。
「ｋｅｎ＝Ｏｄａとは、きっちり決着をつけなきゃならないもの」
「……ｋｅｎ＝Ｏｄａ」
　聞き違いかと思った。冴子は続ける。
「Ｄａｄｄｙだった。生きていたわ。そして、私を殺しに来た」
　当然のことのように、冴子は言い切った。
「――冴子」
「薫、あなたの言いたいこと、わかる。でもね、私は人間じゃない。私達には、そんな情はないの。幼かったから、Ｄａｄｄｙが恋しかった。ただ、それだけなのよ」
　踵を返す。
「冴子、月島拓馬は？」
　背を向けたまま、首を振った。
「『昼の光に夜の闇は解からない』――クレスタ、借りるわよ」
　冴子の姿が、ドアの向こうに消えた。
　薫は躰が震えて、立っていられなくなり、その場に座り込んだ。
　状況が把握出来ていない。
　左肩が痺れる。麻痺が全身に広がる。手を打たなければ、と思うのに躰が動かない。せめて、せめて、父から警察に手を回してもらっておかないと、面倒なことになる。冴子が死ぬにしろ、帰ってくるにしろ。
　薫は息を詰め、反動で立ち上がる。
　まだ、ふらつく。息を整える。
　ドアがノックされた。
「はい……」
　秘書が入ってくる。
「月島拓馬とおっしゃる方が、お目にかかりたいと――」
　既に拓馬は秘書の後ろにいて、そのまま脇を擦り抜けるように中に入った。秘書が制止しようとするが、無駄だった。
「失礼はお詫びします。でも、急いでいるんです。冴子はどこですか？」
　薫は、秘書に下がるように手で示した。同時に、何と言えばいいのか考える。
「教えて下さい」
　拓馬の言葉には、有無を言わさない強さがあった。が、薫は首を振る。
「あなたを巻き込む訳にはいかないわ。必ず、帰って来るから、今は待っていなさい」
　今度は拓馬が首を振った。
「今、掴まえないと、失ってしまう。俺は、冴子を失っては生きていけない」
　それは真実なのだろう。けれど。
「教えて下さい。危険なのは解かっています。大体のことは、俊兄ぃから聞き出したから」
　そして、共に闘うつもりなのだろうか。薫は小さく首を振る。確かに、拓馬は『強さ』を持っているが、残虐さはない。『強く』もないくせに、冷酷な冴子とは違う。
「教えて下さい。――教えて頂けないのなら、不本意だけど【力】を使わせてもらいます」
　拓馬が目を細めた。と、頭痛がした。何かで無理矢理頭の中を開けようとしているような不快感。吐き気。痛み。それは、次第に耐え難くなってくる。薫は、拓馬があの月島の宮家の血族なのを思い出した。
「ま、待って。やめて。言うわ」
　掻き消すように、不快感が失せた。薫は息をつく。
「……軽井沢の奥の別荘よ。地図を書くわ」
　地図を受け取ると、拓馬はにっこり笑い、一礼して出て行った。
「俊、巻き込みたくなかったのよ、本当に」
　涙が、零れた。
　雪が、少しづつ激しくなっている。

　拓馬は、雪道を先の足跡を頼りに進む。周りは、うっそうと繁る森だ。人の気配は全くない。軽井沢といっても、こんな山奥に別荘だなんて、よく建てられたものだと感心する。
　歩き始めて、もう２０分近くたっている。車はクレスタの横に停めて来た。多分、雪がなければもっと奥まで入れるのだろう。
　拓馬は焦る気持ちを抑えられない。冴子のことだ。倍とはいわなくても、かなりのスピードで歩いている筈だ。その証のように、足跡は小さく軽い。拓馬はそれを消すように、その上を踏む。振り向くと、拓馬の足跡だけが雪に残っている。
　木立の中に、ようやく建物が見え始めた。打ちっぱなしのコンクリートの外壁を持つ、モダンなものだ。
　拓馬は、自然に早足になる。
「冴子。俺だ。拓馬だ。冴子」
　ドアの前で叫ぶ。声が樹々に反射して、残響が梢を揺らす。又、雪が降り始めた。
「冴子」
　――細く、ドアが開いた。
　冴子の右半分の顔が覗く。瞳が暗緑色に光り、唇が薄く紅い。能面のような無表情だ。
「冴子――」
　言葉にならない。
「なぜ？」
　冴子が外国語を話すように問うた。
「なぜ、来たの」
「冴子」
　お互いの真意を探るように、瞳を見詰めあう。
「冴子。お前が父親を殺さなければならないのなら、俺がやってやるから。俺が……。お前はもう手を汚すな」
　冴子の表情が崩れた。
「拓馬」
　ドアが開かれ、冴子が胸に飛び込んだ。