Lonely　Avenue55

　電話の音で、目が覚めた。
　起き上がったが、受話器を取ることは出来ず、そのままバスルームへ駆け込んで吐いた。
　吐いても吐いても、嘔吐感は消えない。電話は執拗に、自己主張を続けている。が、そこから動き出すことは出来なかった。
　吐くものがなくなり、苦い胃液が出てくる。
　これは躰ではなく、精神の嘔吐なのだと思う。人は、自分の本当の姿を知って、それに耐えられるものではない。
「――拓馬、どこまでお前を憎ませる？」
　俊は、鏡に向かって呻いた。
　そう、知っているつもりだった。自分の感情も思惟も、きちんとわかっているつもりだった。
　精神が、知ってしまった自分の醜さを嫌悪し拒絶し続けている。
　俊は、思わず目を閉じた。
　暗黒のヴィジョンが蘇る。拓馬によって、無理矢理開かれ、堰を切られた。自分の中の何もない、ただ闇だけの世界。
　吐き気がぶり返す。
　生きて行けない。これを抱えて生きるなんて、出来ない。あの闇の中には、負の感情しか、絶望しかなかった。愛するものもいない。
　鳴り続ける電話の音に、苛立つ。
　大きく息を吐く。口をゆすぐと、ゆっくり立ち上がった。上体がふらふらする。鏡に映る顔は、別人のようにやつれていた。
　俊は躰を引き摺るようにして、リビングに戻り受話器を取った。
「俊」
　薫の声だ。
「力を貸して、冴子と拓馬君が」
「言うな」
　俊は、薫の言葉を遮った。
「何があったの？」
　薫の声の向こうに、心地よいＢＧＭが流れている。オフィスがから、かけているのだろう。
「拓馬君が、あなたに聞いたって言ってたけど、あなたが簡単に話す訳はないわね」
　相変わらず、いい勘をしている。その賢しさは、哀れな程だ。息が苦しい。ソファに崩れ込む。
「――拓馬に、無理矢理精神を開かれた。もう、あいつは戻って来ない」
「俊」
「憎んでいるんだよ。俺は、拓馬を憎んでいる。自分でもこれ程憎んでいるとは思わなかった。拓馬は、戻って来ない」
　涙が零れた。憎んでいたから、執着していた。愛憎の区別がつかない程。この痛み。半身をえぐられたかの様だ。
「俊、聞いて。危険なのよ。冴子は、ペンタゴンとケン＝オダと決着をつけに行ったの。拓馬君が、跡を追ったわ」
　薫は宥めるような口調で続ける。
「危険なの、わかるでしょう。冴子はいいの。あの子がどうなるかは、あの子自身の力と運命だわ。でも、拓馬君は違う。助けてあげて。あなたなら、引き戻せるでしょう」
　拓馬がどうなろうと、それも又、拓馬の力と運命だ。言い掛けて止めた。
　俊がマンションを出た時、すでに午後１時を回っていた。

　リビングには、銃器が並べられていた。
　冴子が、地下室から運んできたものだ。
「商談用の見本だから、役に立つ程のものではないの。でも、ないよりはまし」
　マシンガンに弾をセットしながら、冴子が言った。
「今なら、まだ引き返せるわよ。Ｄａｄｄｙは、昼間に仕掛けてきたりはしない」
　冴子は慣れた仕草で、又一つマシンガンを取り上げた。拓馬はソファで、片膝を抱えてそんな冴子を見ている。どうしても銃器に触れる気にはならない。冴子の手伝って欲しいとは言わない。感情に任せてここまで来たけれど、どうすれば良いのか拓馬はわからない。
　ふいに、冴子がしがみついてきた。
「帰りなさい、拓馬。来てくれた、それだけでいい」
　顔を上げる。微笑む。穏やかな笑顔。もう、全てを決めてしまっている。
「私は、人間じゃない」
「わかっている」
　冴子の瞳は、鮮やかな緑色だ。
「わかってなんかいない」
　マントルピースで、火が爆ぜた。回した腕の中で、冴子の背中がしなやかにしなる。
「私、殺したのよ。相田一美もマリア＝ホワイトも有栖川も、竹村も。あの中３の時――」
「やめろ」
　抱き締め、肩に顔を埋める。聞いたところで、何も言えない。どうしようもないことだ。
「……私が、化け物と罵られるのなら」
　冴子も拓馬の肩に顔を埋め、それ故にくぐもった声で言う。
「私が、それに罪悪感を持っていないからだわ。あなたの言った通り、私は人の心を持たない。私にとって、殺人はゲーム、狩りなのよ」
　火が爆ぜる。腕を解くことが出来ない。冴子の正体よりも、失うことへの恐怖が勝っている。
「拓馬、好きよ。だから、東京に戻って。私の『姿』を見ないで」
　冴子が腕を押し、躰を離す。
「Ｄａｄｄｙがいる以上、『姿』を見られずに済むとは思えない。それで、拒絶されたら、私、どうするかわからない」
「――父親を殺すことは、ないだろう？」
　拓馬は問いながら、すでに全ては決められているのだと知っていた。お互いの意思の硬さが、遥か彼方の別の方向を目指しているようだ。
　冴子が、微笑し首を振る。
「私のトラウマ、私の傷、私の憎しみ。私を愛さなかったＤａｄｄｙを、私は憎むわ。彼がいては、私は解放されない。私は、生きてゆけない」
　火の音以外、何の音もしない。雪は降り続いているらしい。
「親子の情愛が私達にあれば、こんなことにはならなかったわね」
　シニカルに笑った。
「冴子」
　拓馬は、ただ抱き締める。母に疎まれた日々が脳裏を過ぎった。冴子の躰は柔らかく、拓馬の腕に沈む。
「もう言うな。どこにも行かない。冴子のいる所が、俺のいる所だ」
　雪はしんしんと降っている。火は激しく、盛んに燃えている。銃がなければ、バカンスのようだ。
　気を開く。
　何の気配もない。
「……まだ、来ないわ。ずっと横で見ていたもの。Ｄａｄｄｙのやり方はわかっている」
　冴子が、耳元に唇を押し付ける。
「抱いて――」
「来る」
「来ないわ。だから、抱いて」
　冴子の躰は、微かに震えていた。