Lonely　Avenue56

　拓馬は電話に出なかった。
　川西は腕時計に目を落とす。３時。大学は休みの筈だ。島に帰省するようなことは聞いていない。
　夕食を共にしようと思い立ったのに、これでは無理かもしれない。
　川西は、自宅のナンバーをプッシュする。コールは３回で、真沙子が出た。
「あなた」
　子供のような無邪気な声で答えた。
「真沙子、拓馬が捕まらない。今夜は無理だ」
　電話の向こうで真沙子が、すねる気配がした。
「……せっかく雪見の」
「まだ、降っているだろう。明日にした方が良くないか？　ん？」
「でも、夕方には止むって」
　と、ドアがノックされた。
「失礼します」
　永野が入ってきた。
「真沙子、又後で連絡する」
　言い捨てて、電話を切った。
「何だ？　又、スケジュールの変更か？」
　多少の皮肉を込めて言う。
「雪は時期に止むようです。明日の予定に変更はありません」
　永野はそれに気付かなかったように淡々と答える。一度この男の焦った顔を見てみたいものだ。
「ペンタゴンから、報告が入りました。水城冴子の跡を追って都内を出たということです」
　川西は、椅子に躰を沈めて天井を見上げる。
　１７歳の娘。水城に生まれていなければ、自分の娘達のように穏やかに生きていけたのだろう。
　川西は、微かに笑った。
　違う。水城に生まれたからではない。それは、彼女自身が呼ぶ禍なのだ。
「――それから、先程、月島俊が来ました」
　椅子から躰を起こした。
「早く通しなさい。拓馬は捕まらなかったが、俊君を連れて帰れば真沙子の機嫌も直る」
「それが……」
　永野が黒フレームのメガネを人差し指で押し上げた。
「もう、帰られました」
「帰った？　なぜ、通さなかった？」
　永野がすっと１枚の写真を差し出す。　
　受け取り、見る。
「これを置いて行かれました。拓馬君を追って行くとのことでした」
　川西は写真を持つ手が震えているのを、人事のような心地で見ていた。抱擁しあう男女。拓馬と水城冴子。手が震える。震えている。
「……拓馬を……」
　声が掠れていた。
「拓馬を探して、ここに連れて来るんだ！」
　怒鳴る。
　それに全く動じない永野が、首を振った。
「水城冴子と一緒に行ったそうです。俊君は、拓馬君を連れ戻しに行くのだと言っていました」
「一緒……？　水城冴子といるのか？」
　永野が頷いた。川西は、躰から血の気が引くのを感じた。
「水伊に、ペンタゴンに、連絡を取ってくれ」
　何も答えず、首を振る。
「遅いのか……。もう、遅いのか」
　永野は答えなかった。川西は崩れるように項垂れた。自分の作った罠に、愚かにも掛かってしまったのか？
「――先生、我々は手を誤ったのかもしれません」
　川西はゆっくり永野を見上げた。
「こういう関係があるなら、我々は水城冴子と手を組むべきでした」
　川西は、小さく頷いた。
「……水伊は知っていたのか？」
　川西の問いに、永野は首を振っただけだった。

　「どうして引き止めなかった」
　父は、オフィスに入ってくるなりそう問うた。薫は肩をすくめる。そして持っていた受話器を戻した。
「薫、まさか、お前」
　怒りで言葉が続かない。薫は、引き攣った笑みを浮かべる。父の根回しは上手くいあったのだろう。だから、薫を責める余裕が出てきたのだ。それを喜ぶべきか、責められるのを嘆くべきか、思案してしまう自分を薫は哀しいと思う。
「こうするしか手がないのは、わかっておられると思いますが」
　薫は部屋を回り、開け放たれたままになっているドアを閉めた。エアコンの音質が変わる。父は、ソファに行き腰を落とした。
「ケン＝オダが生きていたというのは、本当なのか？」
　苦々しく問う。
「冴子が、そう言っていました。が、まだ未確認です。ただ、ペンタゴンから来た男が、オダギリと名乗っているという情報は掴んでいます」
　薫は、父の向かいに腰を降ろした。会長との会見は、父の思う所とは違ったものになったらしい。父が、手を握ったり開いたりしている。これは、自分の意見が通らなかった時の父の癖だ。
「それで、その男の写真はないのか」
　薫は首を振る。手落ちだと責められても仕方ない。
「手落ちだな」
「すみません」
　薫は目を伏せた。父は、薫のミスを一々指摘せずにはいられない。そうやって、永遠に責め続けるのだ。『お前が男なら』『男に産まれていれば』――奥歯を噛んだ。
　男の写真を入手出来なかった理由を、飲み下す。言っても無駄だ。冴子は、彼と会った。そして、全てを片付けに行った。誰にも止められない。
「会長は何とおっしゃったのですか？」
　父は首を振る。
「そうかと、一言だけだった」
　父が唇を噛む。薫は薄く笑う。
　皆、わかっている。こうせざる得ないことを。
「御父様」
　父が驚いたように、薫を見た。それはそうだろう。もう何年も父を父と呼んだことはなかったのだから。
「御父様」
　言いたいことが、幾つも浮かび消えた。小さく首を振る。何も言えない。もう、失われたものは戻らない。それが、痛い程わかるから何も言えない。
「何だ？」
　父が用心深く問う。
「いえ、何でも」
　薫は自分の賢しさを、疎ましいと思った。こういう資質でなければ、父は娘として愛してくれたのかもしれない。
　殺しあう親娘と、情愛のない親娘。冴子達と、どちらがましなのだろう？
　愚問だ。
「とにかく、今更どう言っても始まらないことですから。事が、大きくならないことを願うしか――」
「薫。水伊が＜水城＞になれば、我々は滅びる」
　父が薫を見据えた。薫の気持ちを察したのかもしれない。
「冴子様は、唯一の絶対的存在なのだ」
「わかっています」
　人間でないが故の＜水城＞としての資質。それが正しいことだとは思えなかった。今でも、思っていない。けれど、冴子が人間として生きるのは＜水城＞になるしかない。
　なんという不条理だろう。
　それとも、月島拓馬は冴子を別の道へ導くのだろうか。
「川西代議士の方は、私が手を打っておきます。大丈夫です。彼は、こちらに返ると思います。冴子と一緒にいるんです、彼の息子が」
　だから、俊。拓馬を連れて帰って。
　今、失いたくないのは、＜水城＞でも冴子でもない。今、失いたくないのは、俊だ。彼を失いたくない。
　薫は、祈る。