Lonely　Avenue58

　と、家のドアが開き、男と獣が姿を見せた。銃を構えた男は左へ、獣は右へと別れる。
「あれが、Ｄａｄｄｙよ」
　冴子が、右へ顎をしゃくって低く言った。
「驚かないの？」
　拓馬は、少し笑って見せた。精神が痺れている。驚いていない訳ではないのに感じない。むしろ、不思議に納得したような気分だった。
　殺した男から奪った銃を、冴子は獣に向けて構える。
「……これで終わる」
　ふいに、獣は止まり顔を上げた。一瞬、風が追い風になった。
「気取られた！」
　冴子が、一発引き金を引いた。そして、身を隠していた吹き溜まりから躍り出た。拓馬の手を握ると、走り出す。獣が追ってくる。獣だけではない。男も気付いた。耳元を銃声が掠める。
　冴子は、闇の中を戸惑うことなく走り続ける。拓馬は、ほとんど引き摺られているようなものだ。
　と、肩に焼け付くような痛みを感じた。
「わっ」
　影が、２人の前に降りた。冴子が立ち止まる。
　腕から力が抜けていく。見なくてもわかる。前に立ちはだかる獣の爪は、血で濡れている。腕を伝って血がゆっくり落ちる。雪を染めていく。
　背後に銃を構えた男がいる。
　冴子は、無表情のままだ。
　いや、違う。
　唇を噛み締め、拳を握り、前の獣を見据えている。瞳の光度が増してくる。４つの緑の灯が、夜に浮かぶ。
　拓馬は総毛立つのを感じた。緊張感で、身動き出来ない。
　どうして、こんなに憎しみ合わなければならない？　そういう種なのだとしても、これはあまりにも悲し過ぎる。親子が、こんな風に対峙しなければならないなんて、間違っている。この憎しみの果てに、何があり、何が生まれるというのだ。
　冴子の唇が微かに動いた。
　彼女のオーラが、燃え立つ。
　髪がふわっと舞い上がる。腕が、足が、背中が、次第に歪んでいく。あってはならないこと。端正な横顔が、グロテスクに引き伸ばされ――
「Ｋｉｍ＝Ｓｆｉｌｌ」
　獣が叫んだ。それをきっかけにしたように、銃を構えていた男が絶叫し始めた。黄金色の獣の顔が、舌打ちするように歪んだ。
「――冴子」
　冴子の服が、弾け飛ぶ。白い肌の上を黒い毛が、ザッと音を立てるように覆っていく。背を丸め、手をつく。耳が伸びる。歪んだ唇から、太い犬歯が覗く。あってはならないこと。
　黒い獣。
　「Ｗａａ！」
　男が叫びながら、銃を立て続けに撃った。拓馬は雪の上に身体を投げ出した。黄金色の獣と黒い獣が飛び交った。黒い獣は、そのまま反転し発狂した男の喉を喰いちぎった。
　血が吹き上がり、男は倒れる。断末魔の呼吸が笛のように、そして小さくなった。
　拓馬は、歯を食いしばる。
　吹き上がった血が、背中に散る。
　獣達は、又、互いを見やって対峙している。
「冴子」
　拓馬は躰を起こした。震えている。
「駄目だ。冴子」
　【力】が異様に高まりつつある。狂いかけているのかもしれない。黄金色の獣の瞳が、拓馬を射る。
「冴子、お前が生きてゆけなくなるんだ！」
　【力】のスパークで、木々の雪が落ちた。獣達が、宙を舞った。
　全ては一瞬だった。
　２人の間にテレポートした拓馬は、肩から腹部にかけて斜めに大きく抉られ倒れた。冴子の腹部も切り裂かれている。黄金色の獣は【力】で木に叩きつけられてぐったりしている。冴子が地を蹴った。そして、獣の前足を喰いちぎった。
「―――拓馬！」
　俊の声がしたような気がした。気が遠くなっていく。
「もう退け！　川西代議士は、この件から手を引いたぞ」
　黄金の獣が去って行くのが、微かに見えた。

　多分、神経が麻痺しているのだ。こんな在らざる事を見ているのに、平静でいられるなんて。
　黒い巨大な猫が、次第に人間に変わっていく。＜水城＞が何をしても伏せたかった理由。伏せざる得なかった事情。そして、彼女がケン＝オダの娘、ケン＝オダと水城静音との実子である証。
「拓馬」
　全裸の水城冴子が、倒れた拓馬をかき抱く。
「急ごう」
　俊は、コートを脱ぎ水城冴子の肩に掛けた。そして、拓馬を抱き上げた。
「……俊兄ぃ、来てくれたん？」
　薄く目を開けて、拓馬が弱々しく言った。
「しゃべるな。精神集中して、止血しろ」
　顎をしゃくって歩き始める。コートを着た冴子が、導くように前を行く。
　暗い、凍てついた道だ。

　道路が凍結していなかったのは、幸いだった。
　暖房と止血で、拓馬は少し落ち着いたようだった。が、呼吸は速い。
「Ｔ病院へ行って」
　携帯電話を切ると、冴子が言った。クレスタの後部座席で拓馬を抱き、それでも瞳は冴え冴えと緑に光っている。
「馬鹿、言うな。どこでもいい、早く医者に見せないと」
「後で困るわ」
　冴子は最後まで言わせなかった。
「生きるの、２人で。２人で行くの。だから、面倒は困る」
　俊は決めかねる。
「この車で、薫の車で病院に駆け込んだ、それだけで面倒になるのよ。わかるでしょ」
「……俊兄ぃ」
　拓馬がくぐもった声で呼んだ。
「俺も、面倒なの、困る。川西が、巻き込まれる」
「拓馬、しゃべらないで」
　冴子が俯く。声が震えている。１７歳の娘のように。
　ファム・ファタール。一緒に行くのか。祖母の言ったことは、そうやって成就されるのか？
　俊は、アクセルを踏み込む。誰に止められるだろう。これが運命なら。
「わかった、Ｔ病院へ行く」
　そこで、薫が待っている筈だ。全てを揉み消し、全てを隠す為に。

　「冴子……すぐ、日本を出よう」
　拓馬が、うわ言のように囁いている。
「お願い、しゃべらないで」
　同じように、冴子が囁く。
「２人で、暮らそう……誰も知らない、所で…」
　途切れ途切れに言葉が続く。意識が朦朧としてきているのがわかる。
　車はようやく都内に入ったところだ。
「水城、血は止まったのか？」
　バックミラーの中で、冴子が首を振る。彼女自身の出血も止まっていないのかもしれない。心なしか青ざめてきている。
「冴子……冴子」
「拓馬、話さないで」
　搾り出すような声で言う。
「好きにさせろ。言って聞く奴じゃない」
　俊は、アクセルを踏み、赤信号を抜ききる。
「拓馬、しっかりして」
「冴子……大丈夫…」
「急いで！」
　真摯な瞳が、映る。
「……血、止められる……大丈夫だから」
　拓馬の【力】が集まりかけて消えた。もう一度、【力】が集まりすっと消えた。何度試しても同じだ。
「止まらないっ」
　絶望的な声。
「俊兄ぃ、止まらない、止められないっ」
「拓馬、しゃべらないで」
　冴子が哀願する。けれど、拓馬には聞こえていない。
「俊兄ぃ……俊兄ぃ……」
　俊は、頭の奥に痺れを感じ始めた。何かが無理矢理精神をこじ開けている。
「拓馬やめろ。それを、引き出すな」
「俊兄ぃ、助けて！」
　ステアリングを強く握り締める。アクセルを踏み込む。
　闇の中の奥底。最後の扉が現れ、最後の封印が解かれる。拓馬の【力】が強引に開けようとしている。苦痛。耐え難い、苦痛。
　病院が見え始めた。
「俊兄ぃ、俺を助けて――」
「やめろ……」
　苦痛に躰が震える。扉の隙間から、金色の光が漏れてくる。頭の中でわんわんと音が響く。
「拓馬！　しっかりして！」　
　冴子が拓馬を抱き締めている。悲鳴のように叫び続ける。
　病院では、医師と看護婦が待っていた。横に薫もいた。

　その瞬間、冴子は無表情のままだった。それが、ゆっくりスローモーションのように崩れる。戸惑うような引き攣った横顔。信じられないというように、首を振る。
　叫んだ。
「どうして？　どうして動いているの、私の心臓！　拓馬が死んだのに、どうして」
「冴子」
　薫が冴子の肩を抱く。
「お気の毒です」
　医師がそう言って、拓馬の顔に白い布を掛けた。
「拓馬！」
　冴子が叫ぶ。応えはない。
「冴子、行きましょう」
　薫が、冴子を抱えるようにして病室を出ようとした。それを振り解く。
「許さない。決して、許さない」
　振り返った瞳が、緑色に光った。
「冴子」
　冴子は駆け出して行った。
「冴子、待ちなさい。馬鹿なことはしないで」
　薫が叫んだ。続いて出て行く。と、振り向いた。目が合った。
　お互い、何も言わなかった。薫は哀しげな顔をした。
「冴子」
　声が、遠ざかっていく。
　医師達も病室を出て行った。
　時期に、川西達もやって来るだろう。一体、何と言えばいいのだろう。何と言えるのだろう。
「拓馬、まだいるな」
　俊は、低く呟いた。
「俺を開いて、どうするつもりだったんだ？」
　頭痛は続いている。痛みの波と共に、沢山の思惟が流れ込んでくる。耐え難い醜悪さ。
「俺の中に、お前と同じ【力】があると思ったのか？」
　額の傷が、熱い。光が集っている。
「……俺は、目覚めたくなかった……」
　躰が、小さく震えていた。

　人の気配に、水伊は目覚めた。
　隣の麻美も気付いたらしく、ゆっくり躰を起こした。
「誰かいるわ」
「ああ」
　それに、何か異様な匂いもしている。血、そして強烈な体臭？
　水伊は手を伸ばし、灯を点けた。
「冴子」
　麻美が嘲笑するように呼んだ。冴子は全裸で、ベッドの足元に立っていた。脇腹に大きな傷がある。微かに、唇が動いた。
「――い、いやあ」
　冴子の躰が変わる。麻美が絶叫する。叫び続ける。
「神様」
　水伊は、知らずに祈っていた。
　喉を喰いちぎられた瞬間、彼はやはり＜水城＞みはなれないのだと思った。
　麻美の叫びは止まらない。それが次第に、笑いになってくる。狂った笑い。
　黒い獣は言った。
「狂ったまま、生きるがいい」