Lonely　Avenue59

　薫は、泣いていた。
「決して、許してくれないわね。こんなことになって」
　俊は何も言えない。受話器を持ったまま、黙っている。と、又、泣き声が聞こえてきた。
「……でも、どうしようもなかったの。わかるでしょ」
　わかる。確かにわかる。あれは、拓馬の運命だった。けれど、わかることと気持ちとが、相容れられる訳じゃない。
　憎んでいた。拓馬を失って、この憎しみは宙に浮いたままだ。
「明日の葬儀、出席させてもらっていいでしょう。冴子も、冴子も行くわ」
「ああ、そうだな」
　俊は、拓馬の部屋に残されていた手紙を思う。水城冴子と一緒に逃げた時の為に用意されていた手紙。用意周到すぎる手紙。俊のことを必要以上に思いやり、死んだ時のことまでを案じている。不器用な奴。本当に全てを捨てて行くには、優し過ぎた。人の痛みが解かり過ぎた。
「――拓馬は、川西の息子として埋葬される」
　薫が、耳を澄ませる気配がする。
「拓馬が望んだ事だし、川西もそうしたいと言った。もう何のメリットもないのに」
　俊は自分が何を言いたいのか、よくわからない。これは薫に言っても仕方のないことだ。これで川西と月島の間にあった蟠りが氷解するであろうこと等、薫には関係ない。
「俊、落ち着いたら、会ってくれるわね」
　薫が哀願する。
　拓馬の死に対して、薫を責める気持ちなど全くない。が、これで終りだと感じていた。会えば思い出す。思い出すのは、辛い。
「俊、お願い」
　ＹＥＳを口に出来ない。もう、終わったのだ。薫もわかっている筈だ。
「俊」
「ＨＡＲＤになれよ。お前が望んできたように。水城冴子のプレインになるのだろう」
　薫は答えなかった。水伊正樹が死に、水地麻美が発狂した今、総会決定は白紙に戻った筈だ。そして、水城冴子は２日前に１８歳になっている。
「ＨＡＲＤになれよ」
　もっと別な形で出会っていれば、良かった。そうしたら、愛してやれたのに。
「俊――愛しているの」
「切るぞ」
　受話器を、そっと置いた。
　コップに半分程、ウィスキーを注ぐと一気に煽った。

　老人は、高橋の説明に何度か頷いた。
「私の名前で、弔電と花を送っておいてくれ」
　ファイルを高橋に返しながら、言う。
「肩書きはよろしいのですか」
　高橋が問う。
「ああ、冴子が会長代理として行くのだから、名前だけにしておいてくれ」
「わかりました」
　高橋の表情は、いくらか和らいでいる。そうだろう。全ては高橋の望むところに収まった。
「冴子、日本国籍は取れたか？」
「はい。手続きは終わりました。パスポートも申告してありますが、これは年明けになります」
　老人は、冴子を思う。今、何を思っているのだろう。老人にはわからない。想像もつかなくなってしまった。
「――高橋、私は引退する。後は冴子に任せる」
　高橋が驚いたように顔を上げた。
「高橋、お前、助けてやってくれ」
　老人は疲れたと思う。２人の子供、そして妻にも先立たれた。もう疲れたと言ってもいい歳だ。
　老人は、大きく息を吐いた。

　川西の目は赤く潤み、妻と娘達は泣き通しだった。
　俊は、彼等の末席にいる。頭痛は絶え間なく続いている。沢山の思惟達が、とめどなもなく流れ込んでくる。【力】。拓馬のそれとは異なる【力】。まだ制御出来ない。
　読経が、香の匂いが、気持ちを彼岸へ近づける。
　川西が何と言ったかは知らない。が、急に現れた息子の死に、弔問客は戸惑っているようではなかった。
　沢山の花。沢山の人。
　大学の友人達は、皆泣いている。妙に人に好かれる体質だったなと思う。いつでも、どこでも、いつの間にか大勢の友達がいた。表面的な付き合いだったとしても。
　臆病者。傷付くのを恐れていた。その拓馬が、水城冴子の為には――。
　俊は軽く頭を振った。考えるのはよそう。もう終わった。拓馬はこれから焼かれ、灰になる。両親が妹が、そして祖母がそうだったように、拓馬は決して戻らぬ所へ行く。
　ふいに、頭の隅に蒼い光が走った。
　顔を向ける。躰が緊張した。
　水城冴子と薫が、入ってくる。
　冴子はこの上もなくシンプルな黒のワンピースを着ていた。が、その材質もデサインも仕立ても一流のものだと、離れていてもわかる。髪を束ね、アップにしている。でも端正な無表情。そう、彼女は仮面のような無表情のままだった。
　薫は黒の上品なスーツを着ていた。眼鏡とバックが、いかにも秘書めいている。俊と目が合い、あえかに微笑した。やはり、ＨＡＲＤにはなれない女なのだ。
　俊は、彼女のこれからを哀れに思う。
　焼香が始まった。
　水城冴子は焼香した後、顔を上げ拓馬の遺影を見詰めた。少し眩しそうに笑っている拓馬。冴子の表情は変わらない。何も動かない。
　ふいに、彼女の頬を涙がすっと伝った。それでも無表情は変わらなかった。
　踵を返す。
　去っていく。振り向かなかった。

　薫はビルの屋上で冷たい風に吹かれていた。
　明日は、水伊の社葬だ。この分では、又雪になるかもしれない。薫は左肩に激痛を感じて、顔をしかめた。腕が痺れて重い。
　何も問題はない。水伊と麻美に流れた株は回収出来た。今回の件は、完璧に握り潰した。そして、冴子は薫の一番望む所へ収まった。なのに、この肩の痛み。
「薫」
　見やると、冴子がいた。オリーブ色のコートの裾が、長い髪が、風に翻っている。薫は少し笑ったが、それは途中で凍りついた。
「どうして、あの日、拓馬に場所を教えたの？」
　瞳の色が違う。何か異質なものを感じる。
「あなたが教えなければ、拓馬は死ななかった」
　妙にくぐもった声。どこか歪んだ表情。
「私、許せないの。拓馬を奪ったものが」
「待って、冴子」
　これは間違いなく殺気だ。薫は、後退りフェンスを背にした。
「冷静になって。どうしようもなかったのよ。わかるでしょう。これでよかったのよ」
　冴子がゆっくり近づく。
「冴子、私がいなきゃ困るでしょう？　あなたには、プレインが必要なのよ」
　冴子が、アルカイックに笑った。太い犬歯が覗く。
「わかっているわ。それでも、許せないの」
「冴子。私が死んだら、あなたの資料が公開される手筈になっているのよっ！」
　叫ぶ。誰か助けを――。駄目。屋上に人が来ることなんてない。
「大丈夫。握り潰すわ。それに、それは嘘ね。あなたは＜水城＞が一番大事だもの」
　近づいてくる。顔が歪んでくる。コートのベルトを解き、脱いだ。何も着ていない。
「楽にしてあげる。肩、痛いの辛いでしょう。あなたは私のプレインになるには、良心の痛みを感じ過ぎるのよ」
　白い肌を黒い毛皮が覆って行く。グロテスクな、おぞましい変貌。
「昔、私の本当の姿を見たいと言ったわね。見なくてよかったでしょう」
　笑っている。
　薫は、悲鳴を上げた。

　「冴子様」
　会長室のドアが、荒々しく開いた。机の側に立っていた冴子が、高橋を見やった。
「何？」
「冴子様、薫が……薫が……」
　高橋は、よろよろと冴子に近づく。冴子は高橋の方へ向き直る。部屋の中だというのに、冴子はオリーブ色のコートを着ていた。
「どうしたの？」
「薫が、……投身自殺しました。たった今」
　搾り出すように言った。
「そう、そうなの」
　冴子が何の感情もない声で答えた。高橋は戸惑う。
「冴子様――」
「高橋。お前は私を裏切ったりはしないわね。お前は一生、私を助けてくれるわね」
　射る様な瞳で見詰める。高橋は、崩れるように冴子の前に跪いた。そして、その足に口付けていた。