南向きのベランダを越えて、日差しは部屋に入り込んできていた。強い風が、洗濯物を旗めかせている。その動きに合わせて、光と影が揺れる。まるで古いフィルムのように、ぎこちなく気紛れな動きだ。
　静かな心地よい午後だった。いつもと大差ない。けれど、天気が良いというだけで、不思議と気持ちは晴れやかになるものだ。
　美冴は布団を取り入れようと、ベランダに出た。布団挟みを外しながら見渡すと、あちこちのベランダでも様々な色の布団が干されているのが目に入った。こんなに天気がいいと、皆同じことを思うらしい。
　美冴は、ダブルサイズの羽根布団を一枚と、毛布を無理矢理抱え込んで部屋に入れる。ここ数年、夫の鼾が酷くなった。五月蝿くて中々寝付けない夜もある。きっと、ベッドを分ければいいのだろう。実際、マンションの友達の多くはそうしている。子供が原因だったり、夫の鼾だったりと、きっかけは様々だが別に眠る方がお互いに楽なのよと言う。美冴もあまりにも鼾が酷かったり、極まれに夜更けて帰宅して故意でないにしろ起こされたりすると、別のベッドを買おうと思うこともある。けれど、布団を干したり、シーツを替えたりしていると、その気持ちは立ち枯れてしまう。これから更に年齢と共に体力が無くなっていくであろうというのに、こういう作業が二倍になるのは耐えられないと思う。
　美冴さんは子供がいないから、と、そんな時には決まって言われる。ただ、純粋にそういう作業が億劫なだけなのに、それは言い訳で夫の側にいたいだけなのだろうと、言わんばかりに、子供のことを引き合いに出される。今更、それにいちいち傷ついたりはしない。けれど、どうにもならなかったことを分かったような顔をして言葉にされるのは、不快だった。
　美冴は、そのまま洗濯物を取り込み始めた。夫婦二人だけのそれは、丁度美冴が両腕に抱え込めるぐらいだ。日向と石鹸の残り香で、安らいだ気持ちになる。
　最後のバスタオルの洗濯ばさみを取った時、マンションの中庭を歩く女の姿が目に入った。見知らぬ女だ。鮮やかな赤いコートを着ていて、こんな家庭向けの郊外のマンションにはそぐわない感じがした。というより、むしろ強い違和感を覚えた。早足でしっかりと前を見据えて歩く姿は、何かに立ち向かっているようであり、何かに怒っているようでもあった。ふいに、美冴の視線に気づいたように、その女は足を止めて顔を上げた。目があった。彼女は美冴を見て、ゆっくり微笑えんだ。誰かの所に尋ねてきたのだろう、そして誰かと勘違いしているのだろう、と思った。が、それを言い切るには、彼女の微笑は確信的だった。
　美冴は、反射的に小さく会釈を返した。彼女は、じっと美冴を見ていたが、美冴はそのまま部屋に入った。洗濯物を畳みながら、誰なのだろうかと考えた。けれど、全く心当たりはなかった。誰かに似ているとも思ったが、思い当たることはなかった。きっと、人違いだったのだと無理矢理納得させて、洗濯物を箪笥にしまった。
　時計を見ると、３時前だった。一息ついてもいいだろう。美冴は台所でやかんを火にかけた。集めているティーカップ達から、ワイルドストロベリーを選び出す。カップに描かれた愛らしい赤い実が、特別に温かく感じられた。こんな午後にふさわしいと思った。
　突然、インターフォンが鳴った。
　はずみで、取ろうとしていた紅茶の缶が床に落ちた。蓋が堅かったお陰で、中身が零れなかったけれど、その金属と枯葉の乾いた音は、不安な響きをしていた。
　インターフォンが、又鳴る。
　きっと、その瞬間の美冴はあまりにも無防備だったに違いない。
「はい」
　施錠を外しドアを開けると、そこにはさっきの赤いコートの女が立っていた。
　しまったと思った。頭のどこかで、警鐘が鳴っている。早く閉めて、守らなければ。
「セールスなら」
　言いながらドアを閉めようとした。が、それより早く、女はドアの隙間からするっと身体を入れてきた。
「今日は、美冴さん」
　女は微笑む。女は若かった。すごく若い。幼いと言ってもいいほどだ。もしかすると、まだ十代かもしれない。
　この時まで、美冴は夫に女がいるなんて知らなかったし、考えたこともなかった。夫の性格からして、そんな面倒なことができる訳がないと思い込んでいた。
　ふいに、やかんが高いけたたましい音を立て始めた。
「お邪魔します。美冴さん、私も紅茶にして下さいね」
　女はそう言うと、靴を脱ぎ、勝手にスリッパを出して履いた。そのまま、リビングへ入っていった。
　やかんが音を立てている。美冴にはまだ何がなになのかわからなかった。とりあえず、まず今しなければいけないのは、あの音を止めることなのだということだけが、確かなことだった。



　女はソファに座っていた。そして、値踏みするように部屋を見ていた。コートは脱いであって、ソファの端にかけられていた。
　美冴が入ってきたのに気づくと、女はさっきとは違う屈託のない笑顔で美冴を迎えた。シンプルな黒いセーターと、黒いレザーのスカートを着ている。それは、全体的に色素の薄い感じのする女の顔や、手を、印象的に白く浮かび上がらせていた。
　美冴は女の前に、ティーカップを置いた。自分のカップは、その向いに置いて腰を下ろした。
「はじめまして。私、海野絵里香といいます。パールっていうクラブのホステスです。そして、貴方の御主人の愛人をしています」
　絵里香と名乗った女は、悪びれる様子もなく、当たり前のように言った。美冴は目眩を感じた。言葉が理解できない。主人の愛人、というのはどういう意味なのか、わからないと思う。
「いただきます」
　絵里香はカップを持ち上げると、赤く塗られた唇へと運んだ。肌が白い。髪の色も明るい。日本人じゃないみたいだ。パーマなのか天然なのか判別しがたいウェーブがその白い顔を囲み、まるで外国の女優、いや、子役のような愛らしさがあった。
　子供じゃないの、と美冴は思った。これは悪戯なのだ。愛人なんて夫らしくないし、ましてこんな子供が相手だなんて考えられない。
　美冴は安堵を覚えた。けれど、カップに伸ばした手が震えていて、どうしても持つことができなかった。手の震えは、それが悪戯なんかではないと分かっていると、美冴に告げていた。
「いつからなの」
「二年前からです」
　絵里香の口調は、明るくはっきりしていた。子供のような無邪気さだ。美冴は絵里香の顔を見詰めた。絵里香は、美冴を見返して微笑む。
「あなた、歳幾つなの」
　声が震えていた。何故か、答えを聞くのが怖かった。
「二十一歳です。御主人と知り合ったのは、十八歳の時で、十九歳からそういう関係になりました。幼く見えるでしょう、私」
　絵里香はそう言って首を傾げて見せた。そんな仕草をすると、彼女は本当に高校生が中学生位にしか見えなかった。
「美冴さん、結婚したの二十歳の時でしょう。美冴さんも、若く見える方ですよね」
　絵里香は、急に含むような笑い声を上げた。
「あの人、ロリコンなのかしら」
　心臓に締め付けられるような痛みを感じた。息苦しい。呼吸が速く浅くなってくる。
　美冴は、短大の卒業式の翌日に夫と結婚した。夫は十八歳年上で、その時も友人達に、お前は若い娘が好きだなと、散々からかわれていた。あれから、二十三年。時々、そういう嗜好を思わせることがあったことはあった。が、気にも止めなかった。好みは好みなのだから、仕方ない。
　けれど、愛人となれば話は別だ。美冴は絵里香の幼さや未熟さに、かつての自分自身の姿を見た。そして、彼女が夫の愛人であると納得してしまった。
「今日は、何の御用件でいらしたの」
　美冴は問いながら、自分名義になっている預貯金がどのくらいあるかを数えていた。こんな場合、離婚してくれというか、慰謝料をくれと言うか、どちらかに決まっている。離婚する気は毛頭ない。なら、金で解決するしかない。取り乱してはいけない。冷静に事を運ばなければならない。
　絵里香はゆっくりティーカップをソーサーに戻した。美冴を見る。視線は鋭いが、口調は緩慢だった。
「そうね。美冴さんに会ってみたかったの。あの人に、会わせてよってお願いしても、馬鹿言うなよって却下されちゃっうし。ああ、でもそれが当たり前なのかな」
　絵里香は思い出したように笑う。ふざけているのか、そういう性格なのか、よくわからない。
「綺麗ね」
　突然声を上げた。美冴の身体が、反射的に縮こまる。自分が怯えていることにそうやって気づかされて、美冴は歯軋りする。
「それ美冴さんが作ったんでしょう。綺麗ね。淋しいけれど、綺麗だわ」
　絵里香の視線は、背後の壁に掛けてある美冴の作った切り絵に向けられている。切り絵は不妊治療にピリオドを打った七年前に始めた。その絵は、三年前に作ったものでずっと関心を示さなかった夫が、珍しく気に入ってくれたものだった。五号ぐらいで大きくはないが、黒い台紙の上で雪を被った椿が咲いている。毎年師走になると掛けるけれど、出す度に美冴自身も絵里香と同じように思っていた。綺麗だけど、淋しいと。
　夫はこの絵の何が気に入ったというのだろう。
　絵里香が、淡々とした口調で夫と出会ってから愛人になるまでの過程を話している。美冴はじっと聞いているが、言葉が意味をなさない。まるで、字幕が映らなくなった外国映画を見ているようだ。
　と、絵里香が髪を払った瞬間、美冴は甘い匂いを感じた。
　夫がプレゼントしてくれたその香水は、美冴には甘すぎてつけることはほとんどない。けれど、この香りを間違えることはない。妻と愛人に同じ香水をつけさせるなんて小細工、ドラマの中だけのことだと思っていた。
　こうしている間にも、夫への信頼が少しずつ崩れていく。まるで、砂時計の砂が落ちて崩れていく様と同じだ。今まで、夫の何を見てきたのだろう。何を信じてきたのだろう。ずっと見ていたと思っていたものは、自分の都合の良い夫の一部だけだったというのか。
　夫は離婚するつもりなのだろうか。それを告げる為に、絵里香をここに寄越したのだろうか。それは残酷すぎる。夫は、優しい人だ。穏やかで、思慮深い人だ。そんな夫が、愛人を作り愛人自身にそれを告げさせるような残酷なことができる訳がない。美冴は、せめてそれだけは信じたいと願った。
　が、運命とは往々にして願いとは反する方向に流れる。
「あの人、美冴さんとはもう別れるって。でも、なかなか言い出せないみたいだから、私が言ってあげるって、来たの。私が、あの人の子供を産んであげるわ」
　絵里香の最後の言葉に、血が逆流した。倒れまいと目を固く閉じた。瞼の裏に赤い光が幾つも点滅する。子供ができなかったことが、それ程の罪なのか。十五年の間に、傷つき疲れ果て、そして諦めたというだけでは、犠牲が、贖いが足りないというのか。
「嘘よ」
　掠れた声しか出なかった。
「そう、嘘よ」
　絵里香が言った。美冴は、驚いて絵里香を見た。彼女は、口元にアルカイックな微笑を浮かべ、もう一度はっきりと、
「嘘よ」
　と、言った。そして続けた。
「本当は、あなたの夫の子供のなの、私は」



　ふいに、窓の外が騒がしくなった。甲高い子供の声が、マンションのあちこちから響いてくる。学校が終って子供達が帰って来たのだ。
「美冴さん、時々、子供に勉強教えているんですってね。それって、すごく自虐的じゃないかしら」
　彼女の微笑は崩れない。
「あなた、一体誰なの。どうして嘘なんか」
　美冴は声を荒げた。絵里香の表情は変わらない。美冴は、悪寒を覚える。罪悪感を持たず、現実感を失った子供。絵里香の表情は、そんな子供達と同じものだった。愛らしいけれど、冷酷な瞳。自分だけを愛し、許し、自分だけで存在していられると思い込んでいる。
「だって美冴さん、いきなり来て、私あなたの夫の子供なんです、って言ったって信じやしないでしょう」
　確かにそうだ。いきなり、夫の子供だと言われて信じたりする訳がない。きっと、その場で追い返していただろう。そして、帰宅した夫に笑い話として話していただろう。
「人は、自分に都合のいい方を、自分がダメージを受けない方を、信じるものなのよ。現在の愛人より、過去の過ちの方が、美冴さんには危険がないものね」
　絵里香は、カップを持ち上げて紅茶を飲む。その動きは優雅で、どこか舞踊を思わせた。ふと、美冴は彼女の歩き方や、立った姿を思った。長年バレエをやっている人は、特徴のある伸びた姿勢をしている。そして、立つと足が外向きになっていることが多い。まさに、絵里香の姿勢はそういうものだった。美冴は、何かを思い出しかけていた。けれど、暗闇の中で手探りをしているようで、何を思い出そうとしているのかさえわからない。
「ねえ、お茶のおかわりいただけないかしら。できたら、お菓子も添えて」
　美冴は言われるままに立ち上がり、台所へ行った。機械的にやかんを火にかけ、貰い物のクッキーの缶を取り出した。その間も、思い出そうとしている。けれど、もどかしいばかりで答えは出ない。絵里香がバレエをしていたであろうことと繋がっている筈なのに、それを手繰り寄せることができない。
　やかんが、音を立てる。ポットの中で、茶葉がワルツを踊っている。跳ね上がり、沈み、湯の対流に流されているだけなのに、まるで意思があるもののように踊っている。
　リビングに戻ると、絵里香は立ち上がって窓から外を眺めていた。美冴に気づいて、ゆっくりと振り向く。無表情だった。無防備だったのだろう。彼女は、呆然としたように、途方に暮れたように、無表情でいた。
　美冴は胸の痛みを感じた。絵里香を可哀相だと思った。子供には罪はない。彼女は、父親がいないということで、どれ程傷ついてきたのだろう。その間、自分と夫は何も知らず安穏と暮らしていたのだ。それはきっと、絵里香の憎しみに値することなのだ。
　でも、本当に何も知らなかったのだろうか。
「いただきます」
　ソファに座り、カップに紅茶を注ぐと絵里香はクッキーを手に取った。もうさっきの無防備さはない。視線は鋭く、微笑は鮮やかだった。
「夫は、あなたのことを知っているの」
　美冴が問うと、絵里香は美冴を見て少し顔をしかめた。美冴の声で、さっきとは何か違うと勘付いたらしい。
「知らないわ。私が産まれたことさえ知らないもの」
　顔をしかめたままで言う。
「お店に来た時、私はすぐわかった。でも、マミーの言った通りだった。もう、マミーのことも忘れているし、絵里香の存在すら知らなかった。何も知らなかったし、今だって知らないわ。捨てられるのも嫌だけど、忘れられるのは、もっともっと嫌よ」
　絵里香の瞳から、涙が零れた。子供のように、溢れてくる涙を拭いもせず、目を見開いたまま泣き続ける。美冴はたまらなくなって、絵里香の横に座ると彼女の肩を抱き寄せた。絵里香は無抵抗で、人形のようだった。彼女の涙で肩が熱く湿ってくる。
　不思議ともう怒りはなかった。夫への不信感も消えていた。ただ、絵里香が可哀相だった。それこそ、子祖もがいないからそんな風に思えるのだろう。美冴自身は産むことができなかったけれど、何かが変わっていたら、もしかしたら絵里香は美冴と夫の子供として産まれていたのかもしれない。その思いは、甘く苦い。
「マミーのこと、聞かないの」
　絵里香が掠れた声で聞いた。身体は、美冴に預けたままだ。
「思い出したわ。私、結婚式の時にあなたのお母さんと会っているのよ」
　美冴が名前を口にすると、絵里香は小さく頷いた。
　夫は、その人を幼馴染だと紹介した。色の白い、背の高い、美しい人だった。雰囲気も立ち姿も、バレエをやっている人特有のものがあってそれを言うと、その人は鮮やかに笑って、教えているの、と答えた。絵里香は、顔立ちも肌の白さも、その人にそっくりだった。ただ、絵里香はまだ子供っぽいからなかなか気付かなかったのだ。
「お母さんは、どうされているの」
「三年前に死んだの」
　美冴は半ば予想していたが、言葉を失った。
　絵里香が身体を起こして涙を拭った。笑って見せる。
「死ぬ時に父親のことを話してくれたの。マミーにとっては、青春の美しい思い出だったのでしょう。二十二年前に偶然ロンドンで再会して、恋に落ちて。報われないのはわかっていたけれど、だからこそ激しかったし、妊娠したのが嬉しかったって言っていたわ」
　美冴は一瞬違和感を覚えたが、すぐに二十二年前に夫がヨーロッパへ長期出張していたことを思い出した。では、夫の情事は出張していた半年の間のことだけだったのだろうか。だから、その人が妊娠したことも、絵里香が産まれたことも知らずにいたのだろうか。
　それを夫に聞くということは、責めることになるのではないかと思う。
「お店で何度か話してるうちに、マミーの言ってた人だって実感したの。そう、父親っていうんじゃなくて、マミーの思い出の人なんだっていう感覚だった。でも、だんだん変わってきちゃって。苦しくなってきて、本当のことを話そうと思った。でも、話せなかった。水商売している娘なんか、迷惑なんだろうなと思うと、悲しくて…」
　絵里香の目からまた涙が零れた。美冴は立ち上がると、サイドボードの上のティッシュを取り、箱ごと絵里香の膝にのせた。絵里香は、小さく頭を下げた。そして、ティッシュを取ると涙を拭い、それから鼻をかんだ。その様は、屈託がなく無邪気に見えた。
「私、どうすればいいのか、全然わからなくなって、だから、ここに来たの」
　絵里香が潤んだ瞳で、美冴を見詰める。捨てられまいとする子猫のような真摯な眼差し。美冴の胸は痛む。美冴が助けになれるのだろうか。いや、多分何もできないだろう。美冴は自分の無力を知っている。
　なのに、絵里香のすがりつくような目から、視線を反らすことができない。このままでは出来もしない約束を口にしてしまいそうだ。今この場で適当なことを言えば、さらに絵里香を傷つけることになるだろう。そんなことは、したくない。してはいけない。何にせよ、夫に話をしなければ、美冴にはどうすることもできない。
　美冴は、半ば恐れながら顔を背けた。視線の隅に、絵里香の落胆した表情が映った。胸が締め付けられた。不妊治療の失敗の度の落胆を、美冴は思い出してしまう。どうしようもないのだと、不可抗力なのだと思おうとすればする程、返って切なさが、口惜しさが、歯痒さが増してくる。
　胸が、痛い。
　美冴は、苦しかったのだ。それを楽にしたかっただけだ。それも一番罪のない、責任のない言葉で。けれど、その後に新たな別の痛みが待っているとは、全く思っていなかった。美冴が自分の美徳だとおぼろげに思っていた素直さや感じ易さを、美冴はもう許すことができない。美冴は、自身を喪失した。
「もうすぐ、夫が帰ってくるわ。それまで待っていて欲しいの。そして、できるだけのことをするわ。いえ、させて欲しいの」
　美冴は、言った。



　始め、何の音かわからなかった。掃除機の音のようであり、鳥の羽ばたきの音のようでもあった。が、どちらでもない。美冴は耳が聞こえなくなったのかと思った。その不愉快な音は、美冴の耳の中で鳴っているのではないかと思った。
　目の前の絵里香の表情が変わっている。口を大きく開け、瞳が煌いている。身体が小刻みに揺れている。
　笑っているのだ。
　とたん、音が認識できた。絵里香が、大声で笑っている。笑っているのだ。身体中を震わせて、お腹を押さえてまで笑っていた。
　美冴は、全身の力が抜けるのを感じた。絵里香が口を開く。聞きたくない。聞きたくなかった。
「本当に、あなたって……馬鹿じゃないの」
　絵里香が笑う。嘲笑っている。
「嘘よ、ぜーんぶ、嘘」
　笑う絵里香は、咲き誇るバラのようだ。その美しさが、瞳の奥の冷酷な光を隠していた。今、それを悔いても仕方ない。
「こんなに簡単に騙されるとは思わなかったわ。美冴さん、これからは気をつけた方がいいわよ。私がパールで働いていることは本当だけど、本当なのはそれだけよ。あなたって無防備すぎるのよ。しっかりしないと、カモにされるわよ」
　絵里香は、立ち上がりコートを手に取った。
「どうしてこんなこと」
　声が出なかった。かろうじて出たのは、掠れた弱々しいものだった。
　絵里香は微笑んだ。外国映画の子役のような、天使のような笑顔。
「悪意、単純な悪意よ」
　当たり前のように答えた。
「どうしてなの」
　リビングを出て行こうとする絵里香のコートを、縋り付く様に握った。その手が、大きく震えている。パニックを起こしかけているのだと、美冴の中のどこかの一部が判断している。絵里香は立ち止まり、美冴の顔を、震える手を嘲る様に見た。そして、息をついて、面倒くさそうに言った。
「言ったでしょう。悪意よ。悪意に理由なんて、いらない」
　大きな音がして、絵里香が顔を背けた。その頬が、見る間に赤く染まっていく。美冴は、自分が手を上げたことに驚いた。掌が、鈍く痺れてくる。
　絵里香は動揺することもなく、怒ることもなく、ただ唇の端だけで笑ってみせた。
「さようなら、美冴さん。もう二度と会うこともないでしょう」
　絵里香は、赤いコートを羽織ながら出て行った。玄関のドアが開く音がして、閉まる音が続いた。
「待って」
　美冴は玄関に走って行ったが、絵里香の姿はもうなかった。甘い香水の匂いだけが、強く残っていた。美冴は、その場に座り込んだ。



　ドアの向こうで、誰かが呼んでいる声がする。もうすぐ御飯だから帰って来なさいと、子供を呼んでいる。
　美冴は自分が笑っているのに、しばらく気付かなかった。感覚が麻痺しているようだ。どうして、可笑しくもないのに笑っているのか、わからない。これは笑いではなく、筋肉が震えているということだけなのかもしれない。
　思い出した。あれは「白鳥の湖」だ。王子を騙して愛を誓わせたオディールが、高らかに笑いながら悪魔と共に去っていく、まさにその場面だ。では、オデットの元へ行き、悪魔と闘わなければ、この苦しみは消えないのだろうか。
　誰が許し、誰が負い、誰が償わねばならないのか。
　美冴は、ふらつきながらリビングに戻った。
　日が暮れようとしている。金色の光が、部屋一杯に満ちていた。
　あの平和な昼下がりは、どこへ行ってしまったというのだろう。もう、その欠片すらない。夕日を受けて、テーブルのティーカップも、壁の絵も、本来の色を失い、鈍い赤い光を放っていた。それを見ているうちに、怒りが、はっきり認識できる強い怒りが、沸き上がって来た。
　美冴は壁の絵を取ると、思い切りテーブルに叩き付けた。鈍い音と、甲高い破壊音がして、絵と共にティーカップ達も割れた。美冴は、それを何度も繰り返した。
　絵里香に対する怒りより、自分自身への情けなさが勝っていた。それは、絵を打ち付ける旅に酷くなっていく。よく言っているではないか、騙される方も悪いと、騙される方が馬鹿なのだと。
　ちゃんと考えれば、毎日定時に帰宅する夫に、そもそも愛人なんて無理な話だったのだ。最初から冷静によく検討していれば、騙されたりしなかった。子供という話だって、夫も子供ができにくい体質だということは、検査ではっきりしていることだ。それに、二十二年前に出張で行っていたのは、プラハであってロンドンではない。
　口惜しさは消えない。
　反動で、破片が跳ね上がって美冴の頬を切った。美冴は、手を下ろした。息が荒かった。頬の傷が痛むけれど、それは本当に傷の痛みなのかはわからないと思った。
　部屋が薄暗くなってくる。物がよく見えない。ただ、陶器とガラスの破片が、凍った雪のように光っていた。
　と、美冴は愕然とした。
　嘘だと言ったことが、嘘だったら…。
　絵里香は本当のことを話していて、ただ、最後に嘘だと言っていただけかもしれない。美冴は眩暈を感じた。絵里香は、夫のことも美冴のことも熟知していた。あの香水だってそうだ。美冴がそれを持っていることを知っているのは、贈った夫だけの筈だ。それに不妊治療のことだって、美冴は数人の友人にしか話していない。それを、どうして絵里香が知っているのだ。
　美冴は、今思ったことを考えたくなかった。それは、あまりに惨い。普通の人間にそんなことが出来るなんて、思いたくなかった。
　寒気がして、鳥肌が立つ。
　絵里香は、夫と夫の幼馴染の間に産まれた子供で、しかも夫と愛人関係にある、なんて考えただけで怖い。けれど、幾つもの不自然さはそれで解決されてしまう。何より、絵里香がやって来た訳がわかる。絵里香は、夫と美冴に復讐しようとしているのだ。悪意を持って夫に近付き、夫と関係し、いつか真実を曝け出す日を待っていたのだ。
　なんという悪意なんだろう。何年もかけて、自分の身体を犠牲にすることも厭わないなんて。
　近親相姦の事実を突き付けられて、夫が生きてゆけるとは思えなかった。それでも、美冴は夫に問わずにいられないのだろう。
　もうすぐ夫が帰宅する。この部屋の有様を見て夫が尋ねた時、美冴はなんと答えるか想像がつかない。それが今日の絵里香の目的だったのだ。絵里香の悪意は、美冴の胸に種子を残した。裏切られたのは、絵里香とその母親だけではない。
　部屋は暗い。
　もう誰もわからない。

　

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