「小諸先輩、悩みなんてないでしょ」
　何の前置きもなく、書記の一年生が言った。あんまり突然だったので、生徒会室全体の空気が一瞬で変わった感じがした。彼は唖然として読んでいた生徒総会の資料から顔を上げた。
「なーんにもないですよねぇ」
　念を押すような口調だった。彼は彼女の問いの意図が理解できないので、とりあえず笑って見せた。
「そんなことも、ないけど」
「へえ、小諸に悩みなんかあるのかよぉ。嘘だろっ」
　副会長がカットインしてきて大袈裟に言う。早く資料をまとめなければならないのに、このまま雑談になってしまいそうな雰囲気になった。別にそれはいいのだけれど、そのせいで帰宅が遅くなるのは嫌だと思った。夜道も寒いのも大嫌いだ。
「小諸君の悩みって何なの？　聞きたいなあ」
　会計も、もう仕事をする気力を無くしている。早々と資料を閉じ始めた。
「何、それってまるでボクが化け物みたいじゃない」
　まあ仕方ないと、彼はおどけて言った。
「へ、違うのかよぉ」
「嘘だろっ」
　彼は苦笑する。彼自身は自分を普通だと思っているけれど、そうじやないと見る人がいることを彼は認知している。でも、化け物っていうのはない。
「悩みぐらいあるよ。背が低いとか、偏食がなおらないとか…」
　副会長がぶっと吹いた。
「そんなの悩みのうちかよ」
　彼は笑ったまま答えなかった。確かに大した悩みじゃないし、彼自身深刻に悩んでいるわけじゃない。そういう意味では、書記が悩みがないだろうと言ったのは当っている。ただ彼は自分の問題を客観的に見ることが出来るし、そうすることによって自分の中で昇華することができるだけだ。
「でも、先輩そんなに背低くないでしょ」
　書記が多分フォローのつもりで言った。
「真ん中ぐらいですよね。体育の時って」
「うん。真ん中よりちょっと前だけど」
「男の人って、成長期が遅いっていうから、まだ伸びますよ」
　会計がそれを聞いて吹き出した。
「違うよね。そういうことじゃないんだよね」
　彼を見てにやにや笑う。彼は話が見えなくて戸惑う。
「音高行ってる彼女って、背が高いんだよね」
　桜子のことを言われた瞬間、彼は顔が上気したのを感じた。奥歯を噛んで平静を装う。それでも、血が逆流したような感触が残る。
「えー、先輩、彼女いるんですか？」
　書記が大きな声で言った。
「二つも年上なんだよね。音高でヴァイオリンやっててさ。すごい美人だよね」
　最後は彼に向かって言ったが、彼は何も答えなかった。
「えー、ショック」
　と、書記は大袈裟に言うけれど、少しもショックじゃない口調と表情だ。でも、表情が常に本音を語っているわけじゃない。特に女の子は、いつまでも子供みたいに単純な男子に比べて、ずっと複雑だ。
「付き合って長いんですか？」
　書記が聞く。給食を生徒会室で食べている彼に、時々差し入れをしてくれる子だから、もしかすると本当にショックを受けているのかもしれない。
「ヴァイオリンを同じ先生に師事していたからね。幼馴染みみたいなもんだよ。付き合ってる訳じゃないよ」
　彼は軽く言った。それは本当のことで、誇張も省略もない。いつも桜子の気紛れに振り回されているだけだ。もっとも桜子に言わせれば、彼を振り回しているのは彼の周囲で、それは彼の八方美人が原因なのだそうだ。
「桜子先輩ったら、私、このあいだの日曜に見たよ」
　会計が言う。何か嫌な予感がよぎった。
「映画館の前で、大学生っぽい男の人と二人で。映画終わって出て来たとこだったみたい」
　彼は自分の表情が引きつった気がした。ぐっと奥歯を噛んで、感情の波が引くのを待つ。
「へえ、見てみたかったな。桜子、面食いだから」
　彼は普通に声が出たことに安堵する。会計は何か言って彼をからかおうとしたけれど、彼が平静に笑っているので肩を竦めてやめた。彼も何か言おうと思ったけれど、これ以上言い始めると墓穴を掘りそうでやめた。
　胸が疼く。これが嫉妬という奴なのかと思う。不思議と懐かしいような痛み。それは『缶蹴り』で隠れているのにいつまでも見つけてもらえない、その寂しさと苛立ちと同じだった。


　春休みの１週間前に風邪をひいた。
　いつものように、気管支炎、肺炎とパターン通りにこじらせた。高熱は三日ぐらいでひいたけれど、気管支炎からくる微熱は下がらず、ベッドからはなれられずに春休みが終わった。
　一定のテンポで落ちる点滴を見ながら、彼は中国に額に水滴を落し続ける拷問があったのを思い出していた。点滴も容器とかを見せないで永遠に続くのだとしたら、拷問だと思う。何でも終りがあるから、やっていける。終りが見えないことは苦痛だ。
　ドアがノックされた。母が顔を覗かせる。
「哲史、起きてる？　桜子さんがお見舞いに来てくれてるのだけど…」
　青いリボンタイの制服姿の桜子は、ヴァイオリンケースを胸に抱えていた。レッスン帰りなのだろう。
「具合、どう？」
　桜子は案内してきた母親を意識しているのか、優しい声で微笑みながら言った。
「痩せちゃったね」
　彼は何か茶化すようなことを言おうと思った。けれど、何も思いつかなかった。
「桜子さん、紅茶でいいかしら」
　母の言葉に、桜子は椅子に腰掛けながら肯く。
「哲史、シュークリーム頂いたから、少し食べてみようね」
「うん」
　母が出ていくと、桜子は息を吐き足を組んだ。少し首を傾げて、彼を見下ろす。
「食べてないの？」
　ちらっと点滴に目をやった。
「うん。食べてもほとんど吐くから、かえって体力消耗しちゃってさ」
「普段、食べてないからだよ」
　やっぱり、母を意識していたのだ。彼の言葉を遮るように言った桜子の口調は、さっきと全く別のものだった。
「明日、始業式でしょ。新学期早々休むなんてかっこ悪いよ」
「格好の問題じゃないよ。好きで寝込んでる訳じゃないんだよ」
　力ない声しか出なかった。桜子の冷たい目に圧倒されていた。案の定、桜子は小さく鼻で笑った。
　ドアがノックされ、母と看護婦が入ってくる。トレイの紅茶と、看護婦の消毒の匂いが混ざって彼は顔をしかめた。
「点滴、外しますよ」
　看護婦は言いながら、彼の腕から針を抜き取った。
「後で、院長先生が診察に来られるそうです」
「営業時間にわざわざ来なくていい、って言っといてよ」
　彼の言葉に看護婦は笑い、母は顔をしかめた。
「はい、伝えておきますけど」
「いいのよ、伝えなくて。哲史、病人が偉そうなこと言うんじゃないの」
　母は言いながら、トレイを机の上に置く。
「桜子さん、召し上がってね」
　桜子が上品に微笑む。さっきとはまるで別人のようだ。
「じゃ、哲史さん、お大事に」
　点滴を片付けた看護婦が部屋を出るのを、
「わざわざありがとう」
　と、母は言いながら一緒に部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。仕事中にこっちに来てもらったりして…」
　ドア越しに母の声が響いて、遠くなった。
　彼は枕を背中にあてて、上半身を起こした。その時桜子が手を貸してくれたけれど、肩が薄くなったのに気付かれそうで緊張した。
　桜子がトレイをベッドの端に置く。それからシュークリームの乗った皿を彼の膝の上に置いた。
「君、ここのが一番好きなんだよね」
「わざわざ、買って来てくれたの？」
　桜子は照れたように笑って肯いた。
「でも、やっぱり、あそこは遠いよ。距離的にはそうじゃないんだろうけど、乗り換え、やたらしなきゃなんないもんね」
　桜子は言いながら、紅茶のカップを取り、レモンのスライスをカップに沈めた。そして、一口飲んだ。
「食べられる？」
「うん」
　彼はフォークを手に取った。嬉しかった。同時に、桜子を冷たいと思った自分を恥じた。桜子も自分の感情を表に出すことに器用じゃないだけなのだ。長い付き合いなのにそれを忘れてしまうなんて、自分こそが冷たいと思う。
「病気してから、全然食べてない訳じゃないんでしょ」
　同じようにシュークリームを口に運びながら桜子が問う。吐いて余計体力を消耗したというのを気にしているのだろう。
「うん、大丈夫だよ」
　さすがに美味しいとは感じなかったけれど、食べていても不快じゃなかった。
「カスタード系は大丈夫みたい。プリンとバナナだけは食べられたから」
　桜子は呆れたように肩を竦めた。
「とにかく、半月も寝込まなきゃなんないようなのってダメだよ。もう生徒会室で給食食べるのやめて、教室で無理矢理食べさせてもらった方が君の為だよ」
「うん」
　偏食が原因っていう訳じゃないと思うけど、言うとまた冷たくされそうで肯いた。紅茶を飲む度に桜子の綺麗な目が軽く伏せられる。
「…桜子、大学生と付き合ってるって、本当？」
　言葉が口から零れ落ちた。桜子がエッという表情で彼を見た。「私が誰と付き合おうと君には関係ないでしょ」きっと、きつい口調で怒ったように言うだろうと思った。が、桜子は驚いた目のままで、彼を見詰めている。吸い込まれそうな瞳に、彼は顔を背けてしまった。
　少しして、桜子が溜息をついた。
「私、間違ってたんだ。幼稚園の時から知ってるじゃない。ずっと、一緒だったじゃない。それに、他の男の子に比べたら君の考え方はずっと大人だったから、私、誤解してたんだ」
　桜子はまた、溜息をついた。彼が何のことか分らないでいることなんか思ってもいない。
「でも、やっぱり君は年下なんだ。私、わかっていると思ってたけど、本当に理解してはなかったんだ」
　桜子は紅茶を飲み干した。そんなこと、始めて会った時からはっきりしていたことだ。それをこんな風に言うなんて、彼には桜子の本意がわからない。それに、これではさっきの問いの答えになってはいない。
「桜子」
　とりあえず、はっきりさせて欲しい。
「背は、追いついて追い越してゆくんだろうけど、年齢だけは追い越せないね」
　桜子は、もう話し終わったと言うように、カップをトレイに戻した。その伏せた目を見ながら、彼は噂は本当なのだと感じた。身体の力が抜けるような気がした。
　もう何も言えなかった。
　桜子が帰った後、また熱が上がった。
　でも、なぜ桜子が彼の病気のことを知っていたのだろう。
　熱にうなされながら考えたけれど、思いつかなかった。