Ｌｏｎｅｌｙ　Ａｖｅｎｕｅ12

　一瞬の浮遊感の後、エレベーターは下降し始めた。
「薫、お前は何を考えている？」
　腕を組み壁にもたれて、父はふと思い出したように言った。
「冴子様が＜水城＞を継ぐ。それはもう決まったことだ」
「わかってますわ、御父様」
　薫は、父を見ないようにレインコートのボタンを止めていく。『決まった事』『定められた事』まるで見えない鋳型だ。
「私は別に」
　鋳型が多すぎて、むかつくと思う。同時に、父のようにそれに気付かずにいれば、女としては幸福だったに違いないと思った。
　薫は苦笑する。所詮、幸福など価値観に左右されるだけのものだ。
「薫、本当にお前が男なら良かった」
　父は、溜息をついた。エレベーターが止まる。ドアが開く。先に歩き出した父の背中を見つめる薫の暗い瞳に、父は気付かない。
　地下の駐車場。足音が谺する。
　――男に生まれていれば――
　思い続け、言われ続け、それはもう呪いと化している。父も薫も、言ったところでどうしようもないが故に、いつだって口にしてしまう。それほど、この呪いは深い。膿を吐き出し続ける醜い傷のようなものだ。
　そうやって薫は、『高橋薫』としての存在理由を見失っていく。『高橋薫』が結婚を夢見る平凡な女だったら、違った存在理由を見つけられただろう。一度も結婚に憧れたことはないと言えば嘘になる。けれど、平凡な女になるには、野心と支配欲が強すぎた。
「真っ直ぐ帰りますか？」
　ショルダーバックから、キーを取り出す。父は、軽く頷く。
「お前は、お館に寄るのか」
　クレスタの後部シートに、身を沈めながら問う。
「ええ、一度古文を見ておいたらと思って。Ｆ女学院、古文には厳しいと聞きましたから」
　父が笑った。優しい笑みだった。
「不思議なものだな。何でも良くおできになる冴子様だが、古文だけは苦手なのだから。やはり、アメリカが長かったせいだろうか」
　薫は答えず、車をスタートさせた。
　父は、冴子に甘い。父の目には、冴子は哀れな孤児としか映らない。従妹、静音への淡い思いも手伝って、それは一層ロマンティックな色合いを強めている。思えば、昔から情の薄い父娘だった。それが当たり前で、当たり前過ぎて、何も違和感も持っていなかった。冴子が現れるまで。
　薫は口元だけで笑った。父にあのことを話したら、彼はどんな顔をするだろう。
　雨がフロントガラスを叩く。
　右手に＜水城総合ビル＞が、空へ向かってそそり立っているのが見える。近代的な美しいフォルム。全てを統べるにふさわしい。
　男であれば、あの最上階で『世界』を掌握できたのだ。たとえ＜水城＞でなくとも。
　信号の黄色が、雨に滲んで流れていく。
「薫、お前が何をしようとしているのか私は知らないが、お前を信じていていいのだろうな」
　薫はバックミラーに向かって頷いた。
　水城老に何か言われたのだろう。
　保守的過ぎる父。それはもういい。それは、どうしようもないことだった。問題は、冴子自身。
　確信はあった。彼女は決して、家を出たりはしない。あれは、自由の為に贅沢な生活を捨てたりはしない。あれは、そういうものだ。だから、当分言いなりになるだろう。当分でいい。その間に、取って変ってやる。
　薫は唇を噛む。

　「薫さん、冴子様ならもうお休みになられました」
　山本に呼び止められ、薫は階段を昇ろうとしていた足を止めた。
「休んだって」
　振り向いて問うと、山本は淀みのない口調で答えた。
「ええ、７時前に帰られて、そのまますぐに。お夕食も召し上がられませんでした」
「そう」
　答えながら、無意識に腕を組んだ。
　又かと思う。夜遊びもいい加減に止めさせなければならない。それにしても、一体どうやって館から抜け出しているのだろう。問い詰めてみなければならない。
「旦那様に、お会いになりますか」
　山本の問いに、薫はにこやかに笑み首を振った。
「今夜はこのまま失礼しますわ。明日、又来ます。冴子さんに、私が来たことを伝えておいて下さい」
　薫が玄関へ向かって歩き出すと、山本は案内するように前へ回った。
「山本さん、新しいお手伝い、再来週の月曜から来てくれることになったわ」
　ふと思い出して言った。山本が振り向き、笑んだ。
「ありがとうございました。私も少し楽になります」
　山本は、年寄りじみた口調で言う。確かに、ここ２、３年で彼女はぐっと老け込んだような気がする。
　と、電話の音がした。
「私が取るわ」
　何気なく言うと、ホールに入り受話器を取った。
「もしもし、私、相田一美の母ですが」
　暗い女の声だった。
「冴子なら、もう休んでおりますが」
　言いながら、薫は妙な不安感に襲われた。
「では、葬儀を２５日の１１時から、○○寺でおこなう旨、お伝え下さい」
　母親の言葉に、血の気が引いた。
「あの、誰か……。一美さん、亡くなったのですか？」
　受話器を持つ手が震えてしまう。母親の声が、涙声になる。
「はい、心臓発作で、今日。冴子さんに最後を見取っていただいて……」
　涙で声にならない。
　電話が切れた後、薫はしばらくの間動けなかった。
　相田一美が死んだ。その言葉だけを反芻し続けている。そして、なんとも言い難い怒りが、躰の中から溢れんとしていた。
　冴子、お前に何が許されているというのだ？　どれだけの事が、許されているというのか？
　――お前が殺した。
　それは、確信よりももっと強い感情だった。
　薫は思わず、震える肩を自分で抱き締めていた。間違った事をしたのではないかという思いが、頭の中を過る。
「私は、鎖を解いてしまったのか…」
　薫は、呟いた。
　山本が、心配気にそんな薫を見詰めている。

　スローバラードが終わった。
　叩き上げるようなリズムが、次第に大きくなっていく。
「月島さん、デスクにアメリカ行かせろって食いついたっつうの、本当なんですか」
　大音響に負けないぐらいの大声で、東野が俊の耳元で叫んだ。
「本当だよ。それが、どうしたって」
　俊が問うと、２つ年下の東野は丸い目をくるっと回した。
「だから、月島さんがクラブなんて珍しいでしょ」
　陽気に答える。
「で、駄目だったんですか」
　俊は苦笑する。
「自腹切るには遠すぎるよな」
　呟きは誰にも届かない。
　俊はウォッカのグラスに口をつけた。
　速いビートが、躰を走る。音になぶられているという感覚は、他の感覚を奪う。それは不安だが、不快ではない。無意識に、足がリズムを刻み始める。
「ハーイ」
　顔馴染みのモデルが、声をかけてくる。
「月島さん、踊ってきますよ」
　東野は、モデルと連れ立ってフロアへ出ていく。フロアのライトの中、人が熱帯魚のようにうごめいている。
　目が止まった。
　長い髪の女が踊っていた。
　ダンガリーのシャツ、黒いタイトのミニスカート。地味な服装なのに、彼女には他を圧倒する雰囲気があった。それが、激しい動きのせいだけとは思えない。
　彼女は、あれだけの人に囲まれながら、たった一人、別の世界にいるようだった。
　ライトがあたり、一瞬顔がはっきりする。
「――水城冴子」
　俊は絶句した。
　冴子は、狂おしく、熱く、激しく、ビートを刻み続けている。