Ｌｏｎｅｌｙ　Ａｖｅｎｕｅ2

　春休みのせいか、空港はごった返していた。
｢車、回してくるから、お前荷物取って来いよ」
　飛行機から降りると、俊はそう言い捨てて拓馬の返事も聞かず人ごみの中に紛れていった。
｢俊兄ぃ」
　呼んでみたが、右手を上げただけで振り向きもしない。俊は早足に人の間をすり抜けて行く。濃いオリーブ色のコートはすぐ見えなくなった。
　あいかわらずだな、と拓馬は苦笑する。と、誰かが軽くぶつかり、その勢いで拓馬は人の波に飲まれるように歩き始めた。
　赤い野球帽をかぶった男の子が、脇を駆け抜けて行く。
｢お父さん、早く」
　振り向いて呼ぶ声が響く。答える声。又、２、３人の子供が、ぶつかりながら走って行った。甲高いアナウンスが、英語で何か言ってる。
　向こうにターンテーブルが見え始めた。
　拓馬は時計に目をやると、足を速めた。急ぐのだと、俊は言った。締め切りを理由にしてたけれど、本当は早く一人になりたいのだ。彼は、泣きたい。あれほど激しい悲哀は、黒いサングラスで顔を隠していても、読まれまいと心を閉ざしていても、否応無しに流れ込んでくる。解放されない感情。彼は人前で感情を見せる事を嫌悪している。そして、それは拓馬が原因なのだ。
　拓馬は溜息をついた。
　と、足が止まった。人がぶつかっていく。けれど、彼は動けない。頭をゆっくり上げる。固唾を飲んだ。
　人の波間に女がいた。長い髪、ほっそりとした四肢、濃紺のワンピースのその女は、見え隠れしながらこちらに近づいている。
｢蒼いオーラが」
　拓馬は、茫然と呟いた。人が邪魔だと言わんばかりにぶつかっていく。それでも彼女から目が離せず、立ち尽くしていた。
　女は、大きな旅行鞄を持っているにもかかわらず、人の間を軽やかにすり抜けて行く。彼女を囲むオーラは、後光か光臨のように燦然と蒼く輝いている。彼だけに見える輝き。喜びの波動。
　彼女は、もう５ｍ程にまで近づいている。そこまで来て、意外に幼いのにようやく気付く。高校生ぐらいだ。
　端正な、どこか無国籍風な雰囲気のある顔立ち、不思議に光を帯びた黒にも暗緑色にも見える瞳、くっと結ばれた赤く薄い唇。彼女はきつい表情で早足に行く。
「あ、あの」
　無意識のうちに声を掛けていた。彼女は立ち止まり、彼を見た。視線を上から下へを走らせる。
｢…名前聞かせてもらえませんか？　お、俺、Ｋ大２回生、いや今度３回生になる、月島…」
「ＮＯ」
　遮るように彼女は言った。金属質の冷ややかな声だった。間近で見ると、唇も鼻梁も細いせいか、冷酷そうな印象がある。それでも、目や頬の線がまだ幼く、それが妙にアンバランスだった。
　すっと、彼女は人の流れに入った。
　髪がふわっと舞う。
｢君」
　追い掛けようとしたが、彼女はあっという間に人に紛れて見えなくなった。オーラの残光が目に痛い。胸が、急にキリッと疼いた。
｢逢いたかった」
　彼は呟いていた。

　人の声、執拗なアナウンス、アライバルは一段と騒がしい。
　憂鬱だった。
　冴子は溜息をついた。今朝からのそれは、飛行機に乗ったり人ごみにもまれたりで、むかつく程ひどくなっている。
　そして今、最大の憂鬱が姿を表した。
　薫は、慌てて辺りを見回している。けれど、冴子を見つけることは出来ない。上品なオフホワイトのスーツを固く着こなしている。２年の間に随分女らしくなったものだ。もっとも、今年で２３歳になる筈だから当たり前かもしれない。
　薫はイライラと腕時計に目をやる。柱の影の冴子を見つけられない。
　冴子は又、溜息をついた。冴子が薫を好いていないことを知っている祖父は、今朝になって始めて薫が迎えに行くと告げた。それを聞いてからすっかり憂鬱になったのだ。
　ロビーのデジタル時計が、変わる。
　できるなら、薫に会わないでいたかった。どうせ、冴子が嫌う以上に、彼女も冴子を嫌っているのだ。表面はどうであれ、信頼も好意も持っていない。それは、初対面の時から既にわかっていた。きっと、お互い決して相容れることの出来ない存在なのだ。日本語を教え、話し相手になってくれた。それらに感謝していない訳ではないけど。
　冴子は、前髪をかきあげた。
　帰国がもう２年遅かったら祖父は薫を養女に迎えていたのだと知った時、なんとなく薫の憎悪の理由がわかった。祖父だって、本当はその方が良かったと思っているのかもしてない。日本へ来るべきじゃなかった。それしか取る道が無かったとしても。ここは、狭すぎて息が詰まる。
　薫が、しきりと時計を気にしている。心配そうに眉を寄せている。冴子は諦めて肩をすくめた。視界の隅に、さっきの学生がボストンバックを２つも下げてこちらに近づいて来ているのが映った。冴子は、薫の方へ歩き出した。
「冴子さん」
　薫が、手を上げて呼ぶ。駆け寄って来ると、手を差し出し旅行鞄を取った。
「疲れたでしょう」
　にこやかに言う。
「いいわ」
　冴子は素っ気なく言って、鞄を自分で持とうとした。が、薫はにこにこ笑って手を放さなかった。
「２年ぶりね。見違えてしまったわ」
「薫、元気そうね」
　見下すように言った。薫は、ほんの少し顔をしかめた。と、冴子の方が２、３㎝背が高くなっているのに気付いたのか、
「背、伸びたのね。２年前には、ヒールはかなくて同じぐらいだったのに」
　と、言った。そして、何も答えない冴子に苦笑しながら、空港を出ようと促した。
「行きましょう。編入する高校に案内するように言われてますから」
　冴子は溜息混じりにうなづく。
　正面の自動ドアが開いて、背の高い男が入ってきた。黒いサングラスをかけている。前髪が長い。マスコミ関係によくいるタイプだ。なんとなく視線があった。けれど、それは一瞬だけで男は連れを見つけたらしく人をぬって歩きだした。
　冴子は、薫に続いて自動ドアを抜ける。
　男の姿が、印象に残った。もっとも、こういった印象の残り方は、警戒しろと本能が告げているのだが。
「冴子さん」
　すぐ前に止めてあった、白いクレスタのドアを開けながら、薫が呼ぶ。彼女の銀のフレームの眼鏡が、早春のやわらかい日差しに煌く。冴子は、ゆっくり車に近づく。薫はすでに運転席に座っている。後部ドアを開けると、シートには大きな赤い薔薇の花束があった。それを寄せて座ろうかと思ったが、それはそれで不愉快な気がして、そのままドアを閉めた。助手席のドアを開けてシートに滑り込む。
　車は、緩やかに走り出した。
　ふと、さっきの黒いサングラスの男が濃紺のファミリアのドアを開けているのが、目に入った。月島を名乗った学生もいる。どうやら知り合いだったらしい。
　クレスタはその側を、走り抜けて行った。
　冴子はふっと笑った。
「どうかしたの」
　薫がチラッと見て言う。
「いいえ、別に」
　冴子は首を振りながら言った。
　ミラーの隅にチラチラと濃紺のファミリアが映る。冴子は、ミラーから目を戻すと前方を見据えた。
　喧騒の日々が又、始まる。

　相変わらず無愛想な子だ。薫は苦笑した。
　結局、未だに器用なのか不器用なのかわからない。もっと愛想よく、要領良く振舞っていれば、ああ問題を起こすことも、転校を繰り返すこともなかっただろう。それでも、決して自分の否にならないように小細工が出来るのだから、必ずしも不器用で要領が悪い訳ではない。そういう風にしか行動できないだけなのかもしれない。無意識にしろ。
　薫はそうやって人間不信の悪循環に落ち込んでいる冴子を、哀れに思う。もう５つばかり歳が離れていれば、憎まずにすんだのだろう。少なくとも、こんな胸の疼く憎み方はしなかったはずだ。
「大学、卒業したのでしょう。おめでとう」
　急に冴子が言った。驚いて横を見ると、何を思ったのかにっこり笑っている。
「高橋は元気なの」
「―ええ、父は元気です」
　薫は目を反らしながら答えた。
　そんな風に笑わないで欲しかった。いつものように、小馬鹿したように笑えばよかったのに。
　冴子が窓を下げた。風が吹き込んでくる。
「今度の学校、どんなとこなの」
　いつのも金属質の声になっていた。薫は、ほっとした気分になる。
「御令嬢の集まる上品な女子校です」
　つい思い出し笑いが出た。
「会長が、騒ぎを起こすな、この学校で卒業しろと―」
「お祖父様の言いそうなことね」
　冴子は、顔を背けた。
　『別れ道』が近づくのを知らせる標識が、後方へ流れていく。刻は、満ちたのか？
　薫は、大きく息を吐いた。アクセルを踏み込む。
「冴子さん、先に病院に寄りましょうか？」
　きょとんとした表情で、冴子が薫を見る。
「どうせ、御見舞いに行くのでしょう」
「何のこと」
　冴子は、遮るように言った。眉をしかめる。なびく髪を、手で抑え付ける。
「お花も買ってあってよ」
「薫」
　冴子が、声を強めた。案外もろい。それとも、これは演技なのだろうか。薫は、自分でも意外に思う程冷静だった。ゆっくり、口を開く。
「相田一美」
　冴子の顔が強張った。奥歯をギリッと噛む音がする。
「それから、Ｍａｒｉａ＝Ｗｈｉｔｅ」
　冴子の見開いた双眸が、暗緑色に輝き始める。顔つきが、微妙に変化する。獲物を狙う獣のようだ。
「私、あなたが何か知っているわ」
　冴子の握り締めた手が、膝の上で白くなっている。沈着そうな振りをしていても、これくらいで動揺してしまう。まだ、子供なのだ。
　薫は続ける。決定付けるために。
「あなた、ＣＡＴ　ＰＥＯＰＬＥ」
　冴子は、茫然と薫を見た。と、顔を背ける。血の気を失った頬に、髪がかかる。
「何を、根拠に…」
　声が掠れている。
「一つわからないことがあるのよ」
　薫は無視して言う。
「なぜ、見殺しにしたの？　７年前、ロスで、なぜ父親を見捨てて逃げたの？」
　冴子が、はっと顔を上げた。凍りついた顔。
「そうでしょう。父親も助けられたはずよ。現にあなたは無傷で生き延びたのだから」
「ＮＯ！」
　冴子が叫ぶ。悲痛に顔が歪む。
「ＮＯ…」
　薫は息を吐いた。『別れ道』にさしかかる。
「曲がるわよ。病院へ行きましょう」
　冴子は答えない。ぐったりと、シートに身を沈めている。薫は、ウィンカーを上げる。
　右折する為に止まった白いクレスタの脇を、他の車が走り抜けていく。濃紺のファミリアも。
「――何が望みなの」
　車が走り出すと、冴子が言った。姿勢は変わらないが、声はもう冷静さを取り戻している。髪が、顔にかかって表情は読めない。
「あなたに＜水城＞を継いでもらいたいのよ」
　冴子が、顔を上げた。少し考え、小さく頷く。
「薫、あなた、男に生まれるべきだったわね」
　そして、冷酷そうな薄い唇をもたげて笑った。