Lonely　Avenue28

　「聞いてるの？」　
　薫が、ヒステリックにわめく。冴子は溜息をつき、シャーペンを投げ出した。
「聞いてるわ」
　舌打ちする。
「邪魔しないでよ」
　薫を見やって言う。せっかく組み立てていた関数が、あっけなく崩れていく。
「明日提出しなきゃならないんだから」
　もう一度、シャーペンを持ち直して問題に挑む。解き方はあっていると思う。でも答えが出ない。何を抜かしているのだろうか。
「あなたの事、嗅ぎ回っている記者がいるのよ」
「そう」
　横でカチッという音がした。ふわっとセイラムの煙が流れてくる。
「別にまずいことなんてないわよ」
　ああ、条件を一つ見落としていた。
「まずいわよ。＜水城＞だって、潰せるものと、そうでないものがあるのよ」
　今日の薫は、ひどく苛ついている。アレなんだろうか。冴子は、等式の合間に思った。
「それと、拓馬とは関係ないでしょ」
　答えを書き、ノートを閉じる。
「その記者、月島俊っていうの」
　冴子は振り仰ぐように、ゆっくり薫に顔を向けた。薫が煙を吐き出す。
「他人ではないと思うわ。よく似ていたから」
　冴子は、引きつった笑みを浮かべた。
「その為に近づいたのではないなんて、言い切れないでしょう」
　薫の赤い唇が動く度に、冷たい怒りが湧いてくる。何に怒っているのか、理解できないけれど。
「その記者、拓馬の何なの」
　どのみち、とるべき道は決まっている。
　薫がソーサーで煙草を揉み消しながら、首を振る。
「２．３日中には、わかるわ。ただ、知っておいて欲しいのよ」
　冴子が立ち上がった。薫の前を横切り、壁のインターホンを押した。
「はい、何でしょう」
　山本の硬い声がした。
「薫が帰るわ。それから、私もう寝るから」
　冴子は、薫の方に向き直ると、髪をかき上げた。
「帰るわ、わからないのね、あなたは」
　薫は、小さく息をつき言った。部屋を横切り、ノブに手を掛ける。
「薫」
　振り向く。眼鏡が光を反射して、表情が読めない。
「薫、私が＜水城＞になった時には、あなたには償ってもらうわよ」
　冴子は冷ややかに笑った。
「調査室を私物化した責任、きっちり取ってもらうから」
　薫は、音を立ててドアを閉め行ってしまった。
　急に笑えてきた。含むような笑いは、次第に哄笑になる。笑いながら、冴子はドアに鍵を掛け、クローゼットから靴を薄いレインコートを取り出した。髪をポニーテールに結ぶ。笑いは止まらない。
　部屋の灯を消した。冴子は、夜の街へと走り出す。

　雨が降っている。あえかな霧雨。気にはならない。街の灯が煙っている。マンションの屋上から見る東京の夜は、絵画のように美しいと思う。特に、深夜になり、灯が少なくなってくると宗教画のようでさえある。
　冴子は息を整える。
　フェンスから下を見やる。ベランダは屋上より内にあるらしく、眼下には黒々としたアスファルトが横たわっていた。
「はっ」
　冴子は小さく叫ぶと、フェンスを飛び越えた。落下する躰をねじる。
　苦もなく、１０階のベランダに降り立った。音は全くしていない。
　部屋の灯は消えている。窓に、鍵も掛けていない。冴子は窓をゆっくり開けた。
　音も光もない部屋。これ程夜目が効かなければ、１歩も歩けないだろう。……「光があると眠れない」「朝型だから、夜は早いんだ」
　ありがとう、拓馬。色々教えてくれて。そして、SO　LONG。
　拓馬の寝息の響くベッドに近づく。コートのポケットから、薄い皮の手袋を取り出した。右手を入れ、左手を入れる。拓馬の白い寝顔に顔を近づける。自分の光彩の色が、緑がかってくるのがわかる。
　手を握ると、キュッという音がした。
　ベッドサイドには厚い本が何冊が積み上げられている。難解そうな本達。中の１冊は洋書、しかも英語じゃない。
　拓馬、知り合わなければまっとうな大学生のままでいられたのに。「未来」を手に出来たのに。
　冴子は、手袋の感触を確かめる。
　すきだから、手にかけてあげる。私の手で殺してあげる。
　冴子は、拓馬の寝顔を覗き込んだ。安らかな寝息。目覚める気配もない。無防備で、子供のよう。
　守られて育ったんだね。
　冴子は苦笑する。
　愛してくれる人が側にいてくれた者に、この喪失感はわからないと思う。愛してくれたのはDaddyだけ。回りは全て敵だ。身を守って何が悪い！　ばれれば、血祭りにあげられる。魔女狩りだ。
　冴子は、小さく身を震わせた。
　脳裏に、あのLAの血まみれの岩石砂漠が蘇る。
　拓馬から離れ、自分の肩を抱いた。どうすれば、この不幸な記憶から逃れられるのか？
「――苦い芽は、摘み取れ」
　呟いた。
　今更、手を汚す事に何の躊躇がいるだろうか。この両手は、既に血に染まっている。暗闇に浸っている。
　冴子は、自分の両手を見つめる。
　これからも、手を汚すだろう。その度、拓馬を思い出すのかもしれない。
　冴子は右手を伸ばし、拓馬の首にあてた。ゆっくり、左手を添える。
　拓馬、好きだから殺してあげる。事故になんか見せかけないで、ちゃんと殺してあげる。
　冴子は、手に力を込めた。
「――冴子」
　ビクッとして、手を緩めた。
「冴子、駄目だ。……ここは」
　拓馬の瞼の下で、眼球が動いている。寝言だ。冴子は、短く息を吐いた。もう一度、首に手をかけ力を込める。歯を食いしばる。躰が、震える。
「できないっ」
　冴子は手を離し、自らの口を覆った。
「どうしてっ」
　くぐもった声が漏れる。躰が細かく震え続けている。背を向けた。
　ベランダに出ると、冴子はふわっと手摺りを飛び越えた。躰をねじって、軽くアルファルトに着地する。霧雨が顔を打っている。
　冴子は、重い足取りで歩き始めた。