Lonely　Avenue45

　コールが空しく響く。
　冴子は溜息と一緒に、受話器を置いた。微かに震える手が、受話器からなかなか離れようとしない。
　どうして、出ない。
　苛立ちが怒りになる。廊下の暗い灯が、にじんだ星のようだ。キリキリ、奥歯を噛む。
「――冴子ちゃん」
　反射的に、躰が動いた。移動して、壁を背中にする。
「冴子ちゃん、寝ないの？」
　水伊が立っていた。冴子は躰を硬くする。水伊は疲れた笑みを浮かべ、近づいてくる。
　どうして、わかったのかと思う。
　一人になりたかったから、最上階から１階の公衆電話まで降りてきたというのに。
　１２時を過ぎた病院で、水伊と向かい合うのは怖いと思った。そう怖い。冴子は、言い知れぬ恐怖を始めて感じた。子供なのだ。保護してくれるものを失いかけ、外界に対して怯えている。悔しいぐらい子供なのだ。
「薫が、探していたよ」
「おじ様は、眠らないの？」
　水伊は、皮肉に笑った。すぐ横の長椅子に腰を降ろす。
「心配で、寝る気なんかしないよ」
　本気で言っているとは思えない。がその疲れた様子だけは、本当のようだった。
　冴子は、水伊の正面に立つ。水伊が、顔を上げる。
「今夜中に意識が戻らないと、駄目だそうだ」
　深い溜息をつく。
「元気だと思っていたが、考えてみれば会長ももう御高齢だから」
　手で、額を押さえる。冴子は壁にもたれる。腕を組む。
　拓馬はいない。いて欲しい時に、いてくれない。決心しなければならないのは、自分自身だ。
　冴子は、唇を嘗める。
「おじ様、結婚なさらないの？」
　水伊が、怪訝な顔をする。
　冴子はにっこり笑って見せた。そういう笑い方が一番静音に似ているのを知っている。
「春に、おじ様、私にプロポーズされたでしょう。あれ、本気？」
　水伊の目が大きく開かれる。
　冴子は、壁から離れすくっと立った。笑顔のまま、水伊を見つめる。
　拓馬はいない。拓馬にはすがれない。自分の身は自分で守る。
「おじ様」
　冴子は、ゆっくりブラウスの第一ボタンを外した。肩に羽織っていたカーディガンが、滑り落ちる。続けて、第二ボタンも外す。白い胸の谷間が、青白い照明に浮かび上がる。第三ボタン。フロントホックのブラに手をかける。
「冴子ちゃん……」
　水伊が、ひきつった笑みを浮かべながら首を振った。
「……大人をからかうものじゃないよ」
　声が掠れている。冴子は、肩をすくめる。麻美を相手にしている彼に、色仕掛けをしようなんて、無駄だ。
　では、どうやって保身をはかる。
　不安が躰の中から、溢れてくる。
　水伊が立ち上がる。
「もう、寝なさい。休める時に休んでおかないと」
　背を向けて立ち去ろうとする。
「おじ様！」
　思わず、鋭い声が漏れた。水伊が振り向く。
「気に食わないのよね」
　躰を反転させ、向かい合う。怒りに躰が震えている。
「あなた達のやり方って、気に食わない」
　水伊は肩をすくめた。背を向ける。そして、ゆっくり歩いて行った。
　足音が遠ざかる。
　拓馬、どうして今、いてくれない。
　冴子は自分の肩を抱き締める。

　最上階、特別室の前の長椅子で、麻美が足を組み煙草を吸っていた。
「眠れないのは、私だけじゃないってことね」
　煙を吐き出しながら、麻美は水伊に笑いかけた。
「会長は？」
　麻美がアルカイックに笑う。立ち上がり、水伊の耳元に口を近づけた。
「大丈夫だと思うけど……。万が一、本当に死んでしまったらどうするの」
　麻美の瞳の中に、不安の影が走る。
　全く――。彼女らしくないことだ。水伊は胸の中で呟く。胸ポケットから葉巻を取り出し、くわえる。
「遺書通りになれば、私達に入る余地はないわ」
　ライラックパープルのワンピースが、廊下の暗い光で青灰色になっている。その色は麻美に似合っていない。
「わかっている。お前は安心して、私の手管を見ていればいいんだ」
　腰を引き寄せ耳元で囁く。麻美は、抗い躰を引いた。思いがけない動作にたじろぐ。
「そういう訳にはいかないでしょう」
　表情が硬い。今更、何を迷っているのだと歯痒くなる。
「何が言いたいんだ」
　声のトーンを落として問う。麻美は、煙草を吐き出す。何かをじっと考えているようだ。
　廊下はしんとしている。
　集中治療室の音は、ここには届かない。他の連中は仮眠している。高橋と薫は、何かを仕切りに行ったり来たりしている。
　空気が張り詰めている。
　この＜気＞を断てば、老人は帰らぬ人になるのかもしれない。水伊はゆっくり煙を吐いた。しかし、それはまだ早い。
　麻美が髪をかき上げた。
　笑う。
「ごめんなさい。みっともないこと言って。動揺しているのよ、わかっていても」
　水伊も笑いながら、頷いて見せた。
「しっかりしてくれよ。頼りにしているのだから」
　麻美は、アッシュトレイに煙草を押し付けた。
「ねぇ、正樹。どうしても、冴子を排除しなかればならないの？　たかが、17の小娘じゃない。裏で操ることぐらい出来るわよ」
　水伊も、葉巻を揉み消した。首を振る。
｢他の17の娘なら、可能かもしれないがね。麻美、お前がもし、17で誰かに操られる身になったら、どうする」
　麻美の瞳が燃える。
「いや、そんなの絶対、許さない」
「同じことだよ。水城の連中はうんざりするぐらいの自尊心を抱えている」
　水伊は、もう一度麻美の腰を引き寄せた。今度は抗わず、麻美は水伊の胸の中にすっと入り込んだ。
「……ただ、小さな仔犬を殺すのは、可哀想だと思ったの……」
　麻美には、冴子は子供にしか見えないらしい。水伊は、小さく頭を振る。もう15も若ければ、さっきの冴子に一も二もなく溺れていただろう。大人になりきっていない未熟な色香。人を狂わせる匂いが潜んでいる。白い胸だった。赤い唇だった。たおやかな首筋だった……。
「痛いわ。腕、緩めて」
　麻美が吐息と共に囁く。
「２、３日中にはペンタゴンから人が来る」
　努めて硬い表情をして、硬い声で言った。麻美には、独り言にしか聞こえてなかったようだが。
　口付ける。
　甘い息が流れ込んでくる。口紅の味が、微かに残っている。
　一抹の不安と冴子の影が、水伊の脳裏を行き交う。躰を動かすことが、出来なかった。このまま、この暗がりの中で麻美と抱き合っていたいと思う。
「――正樹」
　麻美が胸の中で囁く。
「ねぇ、知っている？」
「何？」
　麻美がゆっくり、一言一言区切るように言った。
「冴子がね、月島拓馬って、川西の隠し子と付き合っているってこと――」
　水伊は、血が逆流するのを感じた。