Lonely　Avenue46

　＜水城コンチェルン＞会長が倒れたという割りに、雑誌の扱いは小さかった。拓馬には、それがかえって＜水城＞の大きさを示しているように思えた。
　記事は簡単に、４日前心臓発作で倒れ、持ち直しはしたが当分安静が続くとあった。だから、冴子が遅れたにしろ来るとは思ってなかった。
　音もなく助手席に滑り込む。拓馬が雑誌から顔を上げると、さっきからずっとそこにいたように冴子は座っていた。
「……冴子」
「３０分も遅れて、悪かったわ」
　無表情で言う。
「早く出して」
　慌てて、エンジンをかけ発進させた。冴子は制服のタイをシュッと音を立てて外す。鞄を持っている所を見ると、ちゃんと登校していたらしい。
「お祖父さんのこと、雑誌に書いてあった。大変だね」
「やめて」
　冴子はうんざりする様に遮る。
「中途半端に助かったりするから」
　続きは言わずに、唇をキリッと噛んだ。
「――どこへ行く？」
　聞くと、冴子は顔を向けた。
「あなたの部屋。抱いて欲しいの」
　無表情のままで言った。無表情なのに、冴子の瞳の奥には人を狂わせる光がある。

　小型のデイバックだけのその男は、人のごったがえす中でも目立っていた。ブルージーンズの上下、黒いサングラス、年齢も国籍もよくわからない。
　彼は、税関を抜ける。ブルーグレイのスーツの男が、彼に向かって手を上げた。彼は大股で近づく。
「――どうぞ」
　スーツの男が、先に歩き始めた。
　後に続きながら、彼はなぜ成田はこんなに暗いのか疑問に思う。よく磨かれた床が、キュッと音をたてる。
「揺れませんでしたか？」
　スーツの男の英語には、ブロンクス訛りがある。顔立ちはまるで日本人なのに、動作が日本人じゃない。チャイナタウンによくいるタイプだ。
「いや、快適だった」
　彼は、サングラスのブリッジを指で押し上げる。それでようやく、暗いのがサングラスのせいだと気付いた。
　日本語のざわめきは、落ち着かない気分にさせる。同じような顔立ち。同じような服装。極東に島に来たのだと実感させられる。
　空港ビルを出る。
　黒い、日本車にしては大きい車の、後部ドアを男が開けた。
「どうぞ」
　彼は、車に乗り込む。
　続いて男が乗り、ドアを閉めた。車は滑らかに走り始める。
　大型車のようだが、国産車に比べるとどこか狭い気がする。運転手との仕切りガラスがないのも、気に入らない。
「これが、最新のレポートです」
　男が、薄いレポートを差し出した。彼は受け取り、めくる。
　まず写真があった。
　望遠を引き伸ばしたらしい。荒い粒子の下手な女のポートレートだ。アーモンド型の瞳、細い鼻梁、薄い唇。日本人に見えない。
「全面的に協力するように言われています」
　それから男は、キム＝スフィルだと名乗った。チャイニーズではなくコリアンだ。
　彼は、素早くレポートに目を通していく。読む終えると、写真ごと丸めてデイバックに詰め込んだ。
「ダミーを用意できないか？」
「何でしょう」
　キムが聞き返す。テンポのいい返答は心地いいものだ。
「＜水城＞は、水城冴子の死を望んでいるが、我々は彼女のボディが目的だ。できれば、遺体ではなく生け捕りにしたい」
「行方不明という訳にはいかないのですか」
　彼は、大きく首を振った。
「ダミーを用意してくれ。似ているにこしたことはないが、同じ年齢ならなんとかできる」
「わかりました」
　キムは手帳を取り出し癖のある字で書きつけた。
「川西代議士と水伊社長には、会われますか。向こうは会いたいと言ってますが」
　彼は考える。肩をすくめる。
「少し考えさせてくれ」
　人と会うのは面倒だ。が、面通しは役に立つはずだ。
　とりあえず、早く熱いシャワーと浴びて眠りたかった。
「人は、何人ぐらい用意すればいいのですか」
　キムが、手帳を構えた姿勢で問う。
「まず、３人。あとで追加してもらう」
「はい」
　東京もステーツも、あまり変わらないと感じる。車と人とアルファルトの道と……。それは、どうでもいいことだ。
「日本語の上手い、できたら日本人を入れておいてくれ」
　キムは笑み、頷いた。
「ミスター、日本語は？」
「全くわからない」
　そう答えた彼の脳裏に、青いドレスの女が舞う。

　有栖川は、深い溜息をついた。
　もう、追いかけてくるような視線は感じない。彼は、ふらっとすぐ側の喫茶店に入った。
　隅の席で、又溜息をつく。短いスカートのウェイトレスにコーヒーを頼む。
　この２日ほどだ。気がつくと、何かに追われているように感じていた。振り向いても誰もいない。気のせいだと思うのに、背中は視線にひりひりしている。
　疲れいるのだ。
　やってきたコーヒーに、砂糖とミルクを多目に入れてかき混ぜる。甘さが、躰に染み透っていくようだ。
　ふと顔を上げると、壁の猫の写真と目があった。アビシニアンとかいう高価そうなやつだ。エジプトの彫刻によくあるすくっと座ったポーズととっている。綺麗な猫だ。ここの店主の飼い猫なのだろう。写真は素人っぽい。
　有栖川はそれを、見ることもなしに見詰めていた。
　誰かに似ている気がした。それと同時に、何か大切なことを忘れているような気がし始めた。何か、何か、肝心なことを忘れていて、それ故に繋がらない。
　有栖川は、苦笑しコーヒーを飲み干した。
　思い出せないのは、歳のせいだと思う。
　有栖川は、立ち上がり黄昏の街へと歩き始めた。聞き込みには辛い季節になってくる。

　冴子は、シーツを躰に巻きつけた格好のまま夕暮れに染まる街を見ていた。時報が響き、前のビルに一斉に灯がともる。
　拓馬は、ベッドで軽い寝息をたてている。当分、目覚めそうにない。
　冴子は、バスルームへ行く。
　鏡の前で、シーツを落とす。見慣れた躰が現れる。
　鎖骨の赤くなった跡に、指で触れた。それから、胸に。
　何も変わっていない。
　確かに、胸と腰は少し丸くなったようにも見える。でも、それは変化のうちには入らない。
　何も変わっていない。躰も、心も。
　何も変えられない。
　鏡の向こうで、暗い目の女が唇を噛んでいる。有栖川も、近いうちに始末しなければならない。
　冴子は、シャワーのコックを開けた。