Lonely　Avenue49

　台所から、温かい湯気と醤油の甘辛い匂いが、流れてくる。
　俊は冷酒を飲みながら、ぼんやりＴＶを見ていた。音量を絞っているので、ニュースが何を言っているのかよくわからない。ただ、大破した車の映像で事故があったのかとわかる。
「―――俊」
　背後の声にゆっくり視線を移す。微笑した薫が、手慣れた動作でてーぶるに小皿や箸を並べていく。
「もう少し待っててね」
　又、台所へ入っていった。
　俊はＴＶに、視線を戻す。杯を重ねる。酔っているのか、いないのか、よくわからない。
　映像は、天気図に変わる。
　雪が、又一つ南下してきていた。
　俊は、微かに笑む。
「雪が南下している」
　小さく口に出した。
「――何か言った？」
　湯気と共に、薫が聞いた。俊は首を振る。彼女は気に止める風でもなく、そう、と答えた。
「飲み過ぎよ」
　手を伸ばし、俊の手からグラスを取った。そして、残っていた酒を飲み干し、ふうと息をついた。
「いただきます」
　手を合わせて、箸を取り上げた。食べ始める。炊き合わせに、澄まし汁、天麩羅、酢の物、と、随分意外なメニューだと思った。薫が、箸を止め俊を見詰める。
「食欲ないって顔、してるわ」
　俊は、笑って首を振り箸を取り上げた。
「食べなきゃ駄目よ。人間、食欲を失ったら、もう死ぬしかないの。食べれば、気持ちも落ち着くわ」
　薫の目の奥で、冷たい光がギラッと光った。そして、又箸を動かし始めた。
　この前の混乱し打ちひしがれた様が、嘘のようだ。目の前の薫は、生気に溢れ緊張感が瞳に光を与えている。が、それも彼女の食べ方と同じように、どこか無理があるように見えないでもない。
　俊は箸を動かす。薄味のそれらは、嗜好にあうものだった。が、酒に荒れた舌は、味覚を正確に伝えられない。
「心配したのよ。あれ以来、音沙汰ないし、連絡取れないし」
「うん」
「会社には、出てたの？」
「多少、はね」
　薫は何か言いたそうに俊を見詰め、咀嚼を繰り返している。俊も言葉を見失い、そんな風に沈黙したまま食事を終えた。
　煙草の煙が、ゆっくり上がっていく。
　確かに空腹感が去ると、気持ちが安定してきたようだ。俊は改めて、自分が長い間まともな食事を取っていなかったのを思い返していた。
「――俊、聞いていい？」
　俊の肩にもたれかかり、マグカップでコーヒーを飲んでいた薫が言った。
「川西代議士は、冴子と月島拓馬のこと、知っているの？」
　俊は、薫を見やった。薫も躰を起こし、俊を見た。
「俺も聞きたい。お前、どうしてここにいる？　なぜ、事が動かない？」
　薫は、あえかに笑んだ。
「動けないの」
　そして、首をすくめた。
「会長はあの状態で、冴子はまだ１８じゃない。こうなると総会の決定が、優先するわ。丁度、嵐の前の静けさね。この状況が少しで崩れれば」
　その均衡を崩すのは、誰か。俊は考える。薫、水伊、川西。それとも、会長の死か？
　薫が大きく溜息をついた。
「総会から、もう半年。この状況は辛いわ。いつも緊張して休まる時がないの」
　右手で左肩を抱いた。その手が、微かに震えている。
「でも、いつか均衡は崩れるわ。水伊だって、私だって、崩れる時を待っている。今、なんとかしないと、時期に冴子が筆頭株主になるのだもの。それがわかっているのに、怖いの。どうしようもなく、私、怖いの」
　俊は、煙草を揉み消すと、腕を回し薫の震える躰を抱き締めた。耳に囁く。
「ペンダゴンが、介入している」
「知っているわ」
　薫は吐息と共に答えた。
「川西は、拓馬と水城冴子のことは知らないと思う。そういう繋がりを、想像したこともないだろう」
　互いの肩に回した手に、力が入る。
「巻き込むな、拓馬を」
「巻き込みたくないのよ」
　同時に、口から転がり出た。
　思わず、顔を見合わせた。互いに引きつった笑みを浮かべ、そのまま口付けた。
　――電話がなった。
　俊は立ち上がり、受話器を取った。
　ブーという、コインの落ちる音がした。
「もしも……」
「……すけて下さい。近づいてくる。月島さん、助けて」
　いきなり、切迫した男の声がした。
「あれが、近づいてくる。近づいて……。殺される」
「有栖川さん？」
「牙が、……緑の……」
　有栖川は混乱し、何が言いたいのが要領を得ない。ただ、その尋常でない様子だけははっきりしていた。
「有栖川さん、今、どこです」
「き、来た！！」
　悲痛な、絶望的な叫び。と、続いて絶叫が響いた。長い断末魔の声。そして、途切れた。
「有栖川さん、有栖川さん」
　呼び掛けに答えない。
「有栖川さん」
　音が一瞬消え失せ、続いて発信音に変わった。
　受話器をのろのろと降ろす。躰が震えている。
「俊」
　振り向くと、不安げな薫が立っていた。
「有栖川刑事が殺された」
　薫を押し退ける様に、部屋を横切り椅子に掛けてあったコートを取った。
「水城冴子に殺されたんだ」
「何を言い出すの」
　薫が甲高い声で言った。
「何を証拠に……」
「証拠なんて、くそったれだ」
　コートを羽織ると、俊は部屋を飛び出して行った。
　薫が呆然と立っているのが、視界の隅に残った。

　有栖川刑事の遺体が見つかったのは、午前零時。俊のところに電話があってから、３時間が経っていた。
　電話ボックスは、血の海だ。切り裂かれた遺体が、ゆっくり救急車に乗せられる。周りを囲っている警官が、口々に、
「こりゃひどい」
　と、呟いている。
　急ぐ必要のない車が、去っていく。
「月島さん」
　東野が、横で唇を噛んでいた。
「東野、これから帰って、資料を全部処分しろ。何一つ残すな。会社にあるものも全部だ」
　憤りに、手が冷たくなっている。
「いいか、何一つ、写真一枚、メモ一枚も残すな。命が惜しいなら、すぐにそうしろ」
　血のすでに変色し始めた濁った赤が、脳裏に焼き付く。俊は、拳を握り締める。
　＜決して、会うてはいけん＞
　祖母の言葉は正しく、それは成就された。

　ソファで躰を抱えた薫が、ゆっくり顔を上げる。水城冴子に似た、細い顎。
「本当に、有栖川刑事、死んだの」
「他殺だ」
　俊は、立ったまま煙草に火をつけた。薫は、無表情で虚ろな眼差しをしていた。
「……動かないの」
　ふいに小さな声で言った。
「何？」
「動かないの」
　少しづつ、取り乱していく。
「動かないの、私の肩。動かないの、感じないの。私の左腕！」
　混乱し、泣き出す。実際、左腕は麻痺しているように、ピクともしていなかった。
　俊は、乱暴に薫の肩を掴み自分の方を向かせた。
「全部言うんだ。水城冴子が何で、今まで何をしてきたか。ケン＝オダのことも、お前が知っていることを全部話すんだ。それが、楽になれる唯一の方法だ」
　薫は一瞬、全身を強張らせた。そして、震えるように首を振った。
「言えない、それだけは絶対、言えない」
　激しく首を振り、その場に崩れていった。
　ようやく明けてきた冷たい冬の陽が、ビルの間を照らしていた。