Ｌｏｎｅｌｙ　Ａｖｅｎｕｅ５

　あてもなく歩き続けていた。
　夜の繁華街は、人で溢れている。冴子は、人を縫って軽いフットワークで歩いていく。赤いレザージャケットと黒いミニスカートを着た彼女は、それでも髪をポニーテールにしているせいか少し幼く見えた。ポケットに手を突っ込み、少しうつむき加減に黙々と歩く。
　怒りや苛立ちが、諸々の不快感が圧縮されたように胸の中に詰まっていた。それを忘れるには、ファイトするのが一番だ。彼女は今までの経験でよく知っている。そして、こうやってさ迷っていると必ず向こうからやってくることも。
「お前は、Ｋｅｎ＝Ｏｄａに似てくる」
　ふいに、２時間前の祖父の言葉を思い出した。冴子は顔をしかめる。夕食後、冴子を書斎に呼んだ彼は、いきなりそう言った。
　奥歯を、ぎりっと噛んだ。
　祖父は続けた。
「もう少し、静音に似てくると思ったが」
　苦笑する。
　祖父の怒りは理不尽だ。
　冴子が父、Ｋｅｎ＝Ｏｄａに似ているのも、母、静音が殺されたのも、伯父、和正が行方不明なのも、ましてや我が子を失ったショックで祖母が狂いかけているのも、冴子のせいではない。それがわかっていて、祖父は父を全ての原因にし、父を冴子を憎み続けている。
　その祖父の憎悪を理解できない訳ではない。ただ、大人しくしているには、全てが煩わしすぎる。
「１２月に１８歳になるな」
　祖父は、顎で前の椅子に座るように示しながら言った。
「それがどういう事かわかっているな」
　大きなマホガニーの机をはさんで祖父と向かい合う。冴子は、曖昧に笑って見せる。
「覚悟はできているな」
　祖父の真剣な口調に、冴子は投げやりに答えた。
「薫にでも継がさればいいのよ。私は、ステーツに帰るわ」
　祖父は、にっと笑って首を振る。
「それだけは、無理だ」
「なぜ」
「２年前に話したはずだ」
　冴子は唇を噛み、祖父から視線をそらせた。
「…私が、今までお祖父様の言いなりになっていたのは、それ以外に道がなかったからで、納得していた訳ではないわ」
「言いなり？」
　祖父が笑った。
「問題ばかり起こしておいて、言いなりだと。挙句の果てにあの事件だ」
「あれは正当防衛だわ」
　冴子は早口に叫んだ。
「行き過ぎれば、正当防衛とは言わない」
　ビクッと躰が震えた。重い息を吐く。
「知らなかっただけよ。自分がどれほど異質か、気付くのが遅かっただけ。だから、この２年何も起こさずにいたわ」
「そうだな。この調子であと１年、大人しくしてもらいたいものだ」
　祖父の皮肉な口調に、冴子はキッと彼を見た。が、すぐ目を伏せ、首を振った。
「わからない。誰にも……決して、わかりはしない」
　独り言のように呟いた。
「それは違う」
　顔を上げる。祖父の真っ直ぐな視線が射るようだ。
「それは、お前が人を拒絶しているということだ。わかってもらおうとしなければ、理解してもらえない」
　自分は祖父を畏れているのだろうか。冴子は自問する。
「冴子、お前は高慢すぎる。お前は、自尊心と高慢を取り違えている」
　前髪が、パラッと額にかかって視線を遮る。一番わからないのは、自分自身だと思う。それで、人間が信用できる訳がない。信じたくもない。
　カタッと音がして、祖父が老眼鏡を取り出した。書類をめくり始める。
「もう、いいのですか」
　冴子は立ち上がった。
「明日から、学校だな」
　祖父は書類に目を落したままだ。
「大丈夫だな？　お前は、もう子供ではないのだから」
　冴子は何も言わず、背を向けた。
「冴子」
　振り返る。祖父が顔を上げている。
「冴子、何か言いたいことはないのか？　…例えば、薫……」
「言えはしないわ」
　冴子は苦々しく呟いた。擦れ違った若いサラリーマン風の男が、肩をすくめて通りすぎる。
「言っても、自分の首を締めるだけだわ。あなたは、薫には甘い」
　口の中が、苦いような気がして仕方ない。立ち止まって仰いだ空は、イルミネーションだけが輝き月も星もない。
　なんという暗さなんだろう。
　なんて一人なんだろう。
　溜息と共に肩を落す。又、歩き始める。
　ふいに、肩を掴まれた。同時に脇腹に何か先の尖った棒のような物を押しつけられた。
「こっちに来な」
「大人しくするんだ」
　熱い息と共に、耳元で言われた。
　冴子は、気付かれない程度に小さく笑った。
　左横の髪を赤く染めた女が、親しげに肩を抱く。右横の女が、肩を掴んだ手に力を込める。その女のコートに隠した手には、ナイフが握られている。
　彼女達はかなり強引に、しかし傍目には自然に見える程度に、冴子を路地の方へ引き摺り込んでいく。冴子が無抵抗なのを、怯えているせいだと思っているようだ。真っ赤に塗った唇に、薄笑いが浮かんでいる。１５、６歳だろうか。安っぽい化粧は、少しも似合っていない。
　カツアゲなんてやめて、大人しく【セール】でもしていればいいものを。
「逃げようなんて、思うんじゃないぜ」
　使い慣れたドスの効いた声。冴子は口元だけで冷笑した。
　狭い路地の奥からは、３人の女の匂いがした。微かに残る汗と、血の匂い。つい１時間ほど前にもここで同じ事があったようだ。
　路地は細長く、三方をビルに囲まれている。街の明かりも奥には届かない。その影に溶け込む様に、髪を染めた女が3人壁にもたれて立っていた。成熟した躰に不似合いな、隠しきれないベビーフェイス。
「金出しな」
　冴子が彼女達の前に押し出されると、一番拗ねた目をした女が言った。相変わらず両肩は二人に掴まれ、脇腹にはナイフを当てられている。
　冴子はにぃと笑い、発達した犬歯を見せた。
「くそったれ」
「これが見えないのかよぉ」
　女の一人が叫び、右手の指の奥から剃刀の刃を突き出した。手を振り上げる。ヒュッという音がして、冴子の髪の何本かが切れた。冴子はちっと舌を鳴らした。
「次は顔だ」
　剃刀の刃が、鈍く光る。冴子は、息を吐く。
「欲しいなら、力で取りな」
　言い捨てると、身を屈めた。上空を剃刀とナイフが横切る。躰を起こしながら一人の膝を後ろから蹴り上げた。蹴られた女は、その場にガクッとつんのめった。膝の皿が割れたかもしれない。
「や、やっちまいな
　リーダーの声が掛る。ナイフに剃刀、鉄パイプ、お決まりの得物が風を切ってくる。
　冴子は、身軽に避ける。からかうように彼女達の間を擦り抜ける。その頭上でさえ、飛び越える。異様な身軽さだ。
　又一人、鳩尾を蹴り上げられて気を失った。逆上し、恐怖におののく人間から発するアドレナリンの匂いが濃い。
　冴子は、小気味良さそうに笑った。
　と、
「やめろ！」
　若い男の大きな声が響いた。一瞬、全ての動きが止まる。それを破るように、男が、路地に駆け込んでくる。
　次の瞬間、眉間を蹴られたリーダーがあっけなく悶絶した。逆上して前後不覚になったナイフが左右に鋭く突き出される。それを助けて、剃刀が風を切る。
　男が３人の間に割り込んでくる。そして、冴子の腕を掴んだ。明るい方へ、引っ張る。
「邪魔するんじゃねぇよ。オジンは引っ込んでな」
　剃刀が男に迫る。男に引っ張られながら、冴子はつま先をナイフの女の鳩尾に沈ませた。その瞬間、ダンという音がして剃刀の女が壁に激突した。
「早く」
　男は、強引に冴子を引っ張る。なのに、冴子は女が壁に貼り付けられたような状態で気を失っている姿に目が離せずにいた。
　車の音にはっとした。
　男は冴子の腕を握ったまま、立ち止まり肩で息をしていた。
「怪我してない？」
「いいえ」
　男の手を払い、硬い声で答えた。見覚えのある顔だった。どこで見たかは、思い出せない。
　紺のスタジャン、Ｇパン、どこにでもいる学生風の男だ。
「……空港で会ったね。１０日ほど前に。覚えていない？」
　人の流れが、二人をビルの狭間に押しやる。立ち止まって、男が冴子を覗き込む。顔を背けると、苦笑した。
「俺、月島拓馬っていいます。君は？」
「冴子…水城冴子。空港で、紺のファミリア、乗ってた？」
　つられて言って、肩をすくめた。拓馬が屈託のない笑顔を見せる。
「うん。もっとも、あれは俊兄ぃの車だけど」
「血、出てる。左の頬」
　冴子の言葉に、拓馬が慌てて左頬を押さえる。指に少し血がついた。
　冴子は、覗き込む。
「たいしたことないよ。掠っただけだね」
　冴子は言いながら、調子が狂うと思った。ファイトを邪魔されて腹が立っている。その上、腕を握られた。なのに、そうしてこんなに大人しくしている？
「余計なことをするからよ」
　きつい表情のまま言った。でも、様になりはしない。感情の棘が鈍くなっている。それが、彼のせいとは思わないけれど。
　それでも、馬鹿にするように鼻で笑って見せた。人と、関わりあいになりたくない。
「――君だったから」
　暗緑色の光を帯びた冴子の瞳に目眩を感じながら、拓馬は吐き出すように言った。
　冴子の鋭い表情が、瞬間戸惑うように緩む。
「君だったから、ただ、夢中で……あれから、ずっと君に会いたかった。会いたくて君を探していた」
　冴子が、右手を上げて髪を解いた。軽く頭を振る。髪が、風になびく。
　拓馬は、冴子を見詰める。あの時、思わず念力で女を飛ばしてしまったのを妙に思われていないか、それが不安だった。