Lonely　Avenue53

　吉田美奈子が行方不明だと山本から告げられた時、冴子は逃げだのだと思った。
　彼女が情報を流していたらしいということは、薫から聞いた。だから、有栖川の死に危険を感じて、裏で手を回していた者が隠したのだと思った。
　が、今夜道を行く月島俊は、彼女の居場所を知ってる様子ではなかった。
　まぁいい。彼女の事等、取るに足らないことだ。
　月が雲に隠れる。
　月島俊はコートに両手を突っ込んで、早足に歩いている。繁華街を抜け、マンションに向っている。黒い雲が、早いスピードで流れる。湿り気を帯びた冷たい風が吹く。雪が降りそうだ。
　月島俊を殺せば、拓馬と薫はどんな反応をするだろうか。冴子は上唇を嘗める。
　彼と薫の関係は、意外だった。が、同時に納得してしまった。薫はいつでも裏切れる。売ろうと思えば、すぐに冴子を売れる。月島俊は、その為の繋がりだ。
　冴子は小さく息を吐き、持っていた輪ゴムで髪を束ねた。
　殺さなければならない。自分が何か知っているもの、知ろうとしているもの。全て消さなければ、いつかどこかから漏れていく。
　どうせ、拓馬とは行けないのだ。
　冴子は唇を噛み、月島俊に近づく。そのまま。彼の横を擦り抜けた。
「お、おい」
　声を無視して、少し走り出す。思惑通り追い掛けて来るのが、ショウウィンドに映った。
　追い着かれず、又見失われない速度で、冴子は走り続ける。来た道を戻る。繁華街に入り、抜ける。工事現場があるのを、来る時に見ている。
　その闇の中で、冴子は立ち止まり振り返った。
　月島俊がやって来る。冴子を見て、立ち止まる。
　冴子は、アルカイックに笑った。

　頭痛が激しくなった。
　拓馬は、ベッドから起き上がり、薬を探し始めた。頭はキリキリと、耐え難いほど痛む。しかめっぱなしの顔が、そのまま固定してしまいそうだ。
　ふいに、顔を上げた。姿見が目に入った。
　違和感……。なぜ、自分の姿が映っていない。
　鏡は暗い水を湛えたように、しんとして所々が仄かに輝いている。拓馬はゆっくり鏡に近づく。水底に、人がいた。
「冴子、俊兄ぃ――」
　二人が何をしているのか、一目瞭然だった。既に、俊の頬は切られ、血が流れている。
「やめろ、冴子」
　冴子は軽いフットワークで、徐々に俊を追い詰めている。工事中のビル。コンクリートが剥き出しの階段を登っていく。
　躰が震える。
「やめてくれ。冴子、やめるんだ！」
　叫んだ瞬間、又激しい痛みが全身を走った。冷気が躰を包む。周りが暗い。……部屋じゃない。
「拓馬」
「拓馬」
　同時に違う方向から声がした。右に冴子が、左に俊がいる。これが夢でないなら、空間を移動したというのか？
「冴子」
　拓馬は俊を庇う様に、冴子の前に立ちはだかった。
「拓馬、退いて」
　冴子の冷たい声。拓馬は首を振る。
「やめるんだ、冴子」
　冴子も首を振る。
「苦い芽は摘まなければ……。私だってこんなこと、したくないのよ。でも、仕方ないじゃない。誰が私を守ってくれるの。人間は、私を追うことしかしないじゃない」
　瞳が緑色に燃える。知らぬ人のような顔。
「拓馬、退いてろ。言ってわかるような女じゃない」
　俊が、ぺっと唾棄する。
「俺を殺っても同じことだ。誰かがお前の異質さに気付く。お前は、そうやって殺し続けなければならないんだ」
　冴子が、床を蹴った。拓馬を飛び越え、俊に襲いかかる。
「俊兄ぃ」
　【力】がスパークした。撥ね飛ばされた冴子が、壁に激突した。
「拓馬――」
　身を切るような叫び。
「わかって。狩られるのよ。このままでは」
「……違う」
　拓馬は、呻く。
「今、わかった。違うんだ。狩っているのは、お前だ。お前は、楽しみで人を殺している」
　冴子の顔から、哀願するような色が消えていく。俊が、壁を背に立ち上がる。
「お前は、こうやって狩りを楽しんでいる」
「違うわ」
　冴子の声は、掠れていた。
「違うの。どうして、わかってくれないの？」
　冴子が、手を差し伸ばす。でも、わかってしまったことは、変わらない。決して、人の痛みの解からない美しい獣。
「拓馬、私を選んだんでしょ。お願い、そこを退いて。私の不安を取り除かせて」
　瞳が、冷たい緑に光っている。言葉は哀願していても、瞳は冷酷なままだ。
「――拓馬」
　と、カツンという足音が、小さくした。躰が、ビクッと動く。
　足音は、次第に上がってくる。ゆっくり、でも確実に。３人は躰を堅くして階段を見詰める。
　ふいに、拓馬は鼻の奥に火薬の匂いを感じた。続いて、激しい破壊音を聞いた。
　目の前の闇は、薄墨色に沈んだままだ。
　【力】のコントロールを失っている。幻臭と幻聴は続く。
　足音の主が、姿を表す。
　短く刈った髪。緑に光る瞳。細長い輪郭。薄い唇。男は階段を登りきると、そこで立ち止まった。
　雲が切れ、月の光が射してくる。
　しなやかな影が、長く伸びた。
「……まさか」
　俊が、呻いた。
「――Ｄａｄｄｙ」
　冴子の躰が、震えた。
「Ｄａｄｄｙ」
　男が頷いたようだった。冴子が、一歩近づく。男がゆっくり腕を広げる。
「Ｄａｄｄｙ」
　冴子は、何かに憑かれた様にふらふらと歩き始めた。
「冴子」
　ふいに、立ち止まった。首を振る。
「違う……」
　首を振り続ける。
「違う、これは、違うわ」
　叫んだ。
「冴子、伏せろ！」
　拓馬は叫び、俊を押し倒すようにして床に伏せた。とたん、爆音と火薬の臭いが、頭をかすめた。爆風と熱が、背中を焼く。冴子が気になったが、顔を上げることが出来ない。
　音は、始まった時と同じように、ふいに止んだ。拓馬は、躰を起こした。冴子が、窓から飛び降りようとしている。
「冴子」
　顔を向ける。冷たい目だった。
「あなたの言ったことは、嘘だった。あなたは、私を本当に選んだのではなかった」
　そして、闇に消えた。
「冴子！」
　追い掛けようとするのを、俊が肩を掴んで止めた。
「やめろ、もう。これで良かったんだ」
「冴子、違う。こんな風に、追い詰めるつもりはなかったんだ、冴子」
　冴子の消えた方向に叫ぶ。
「拓馬」
「俊兄ぃ、ごめん」
　拓馬は、俊の腕を振り解くと、闇の中へ駆け出した。