「ＮＯ！」
　金切り声を上げ、彼女は跳ね起きた。
　息が乱れている。布団を強く握った手が、色を失って白く闇に浮かんでいる。
　彼女は溜息をつき、髪をかきあげた。足を引き寄せ、膝を抱える。呼吸がようやく落ち着いてくる。
「ダディ」
　彼女は小さくささやいてみた。答える人は、７年前のあの日に逝ってしまったのに。血の記憶。未だに血は拭えない。
　彼女は、頭を軽く振った。すっとベッドから滑り降りた。窓に近寄り、カーテンを少し開けた。街の灯火が、点々と見える。そのほのかな光を受けて、それ故影を濃くした端正な横顔が浮かび上がる。長い髪を無造作にかきあげる。伸びやかな四肢が、大きなシャツから覗いている。
　彼女は、窓を開けるとベランダに出た。マンションの最上階のそこには、いつも風が吹いている。風は、３月の末にしては冷ややかだ。南の地方都市でこれでは、明日の東京は寒いかもしれない。
　又、髪をかきあげた。
　２年ぐらいでは、まだあの事件を覚えている人だっている筈だ。それなのに、祖父は東京へ戻れと言う。18になって正式に日本国籍を取り、＜水城＞を継がせるために。祖父は、はっきり言いはしないが、それ以外に理由なんてありはしない。彼は決して自由に、してはくれない。
　溜息をつく。
　部屋に戻り、窓を閉めた。と、小さな緑色の光が２つ、ぽっと浮かび上がった。しかし、それは一瞬だけで、すっと闇に消えた。
　ベッドサイドの明かりをつける。
　彼女は、ベッドに身体を投げ出した。
「それでも、いつか帰る」
　灯りを見詰めて、彼女は呟いた。なのに、どこへ帰るのかわからない。自分が自分でいられる所。そんな所があるのだろうか。
「それでも…」
【クォ・ヴァデス（何処へ行かん）】
　彼女は、まだその答えを知らない。

　そして、薫は溜息をついた。
　眼鏡を外し、頭を振る。何を迷うことがあるのだろう。何に怯えることがあるのだろう。彼女はそっと自分の肩を抱いた。肩は微かに震えていた。彼女は、苦々しく笑った。
　机の上には、さっきまで目を通していたレポートが積まれている。『水城冴子に関する素行調査』それには、そんなタイトルが書かれている。側には、英文の同じようなレポートが散在している。
　４年にも渡った調査だった。これ以上のものは、現状では望めないだろう。
　薫は、引き出しから煙草と灰皿を取り出した。煙草をくわえる。
　だから、結論を出すのを躊躇っていたのだ。
　大振りのデュポンのライターで火をつける。煙を吐き出しながら、軽く目を閉じた。
　１＋１が２になるように、たとえ推論の域を出ないとしても、それが全ての調査から出た答えなのだ。水城冴子、水城コンチェルン総裁唯一の孫娘。異質なるもの。
　始めて会った時から憎んでいた。まず、水城冴子という名に。そして、彼女自身に。理由を必要としない憎悪。あの高慢さや自意識は、確かに癇に触った。かれど、憎しみはもっと根深い処から来るものだった。これは、本能からくる憎悪だ。そして、それは正しかった。
　階下の時計が、１時を打つのが小さく聞こえた。
　薫は、レポートの束を集める。一番下の引き出しに入れ、鍵を掛けた。それから、煙草をもみ消した。
　髪を束ねていたゴムを取り、頭を軽く振る。
　明日、その冴子が帰ってくる。２年ぶりの東京だ。それは１２月に１８歳になる彼女に、＜水城＞を継がせるためなのだろう。もしかすると、もう婿養子も考えているかもしれない。だとすれば、急がなければならない。
　立ち上がり、スタンドの灯を消した。ベッドの横の灯だけが、密かに残る。
　許せないと思う。人間でないものが＜水城＞を継ぐなんて、許されることではない。
「私は、お前が何か知っている」
　告発したところで、誰も信じなだろう。だから彼女を利用して、この野心を、欲望を、満たしてやりたい。そうやって、二度と立ちあがれないほど、彼女を傷つけたい。
　薫は、ふっと鼻で笑った。
　明日１０時、羽田に迎えに行くことになっている。カードは揃った。刻は満ちんとしている。この震えは、戦いを前にして感情の高まりなのだ。
　彼女は成功を信じて疑わない。

　瀬戸内の波は穏やかだった。
　向いの島の灯台の光が点滅している。それ以外の光はなく、島影達は夜の海に混ざり合っていた。
　波が、足元で白く砕ける。
　そして、拓馬は砂浜に腰を降ろした。パジャマの上に羽織ったコートのポケットから湯呑を取り出す。葬儀の席から持って来た一升瓶の、その残り少ない中身を注ぐと、一気にあおった。そして、
「ばあちゃん、まだいるんだろう」
　２ｍほど先の波の上を見て行った。闇が、その一部だけ切り取られたように蠢く気配がした。
「俺の声は、届くの？　俺には、もうばあちゃんの声は聞こえん」
　闇が、振動する。頷いて見せるように。
「急だったね。こんなに早いなんて、思っとらんかった」
　拓馬は溜息をつき、膝を抱え込んだ。手で目を覆う。しばらくして、又酒を注ぐとあおり、瓶を砂浜に置いた。
「…本当に俺が神社継がん方がいいんやね」
　顔を上げると、真剣な表情で言った。
「ばあちゃんみたいに、口寄せはできんけど、似たような事ならできるんで」
　とたん波が高まり、飛沫が彼の頬にかかった。彼は、むっとして続けた。
「島出て、東京行って２年だよ。ばあちゃんの言っとった【運命の少女】なんて、俺の【力】を必要とする者なんて、おらんかった。俺、このままやと、あいつの後継者ってことにされる。それよか、島帰って…」
　飛沫が、続けざまに散った。
「ばあちゃん！」
　一瞬、風が凪いだ。潮の匂いに混ざって、白檀の香りがした。
「…そうだね。おいちゃんに悪いよね。今更、でも俺、あいつの私生児だから結構肩身狭いんだ。…それにこの【力】――」
　ふっと、一升瓶に目をやった。目を細める。瞬間、瓶は粉々に、文字通り砂のように砕けてしまった。
　彼自身が驚いたように顔を強張らせた。
「ばあちゃん、俺は」
　立ち上がり、天を仰ぐように叫んだ。空は、星さえ途絶え深淵のように黙している。
　拓馬は引きつった笑みを浮かべながら首を振った。ゆっくり、口を開く。握った手に力が入ってくる。彼は、悲痛に顔を歪めた。
「――――！」
　身をよじって絶叫した。
　ザッという音と共に、彼を囲むように砂が舞い上がった。波がうねる。ぶつかる。叫びは大音響となりわんわんと広がっていった。
　我に帰ると、何事もなかったように波は穏やかに打ち寄せては引いていた。
　肩で息をしていた。
「…わかった。何か、意味があるんやろうな。うん、そやね」
　波の音が、やさしく谺する。彼を慰めるように。寄せては返し、全てはここから生まれ、ここに還ると。
「明日東京に帰るけんど、四十九日に又来るけんね。でも、その時には、おらんね。遠くへ逝っとるんやね」
　風が、頬を撫でた。
「行くわ。俊兄ぃが、目を覚ましたら心配するけん」
　波が、彼の足元に纏いつくようにヒタヒタと寄せてくる。
「さよなら。おやすみなさい。……本当に、おやすみなさい」
　砂を踏みしめて、拓馬は歩き出した。
　振り向きはしなかった。