Lonely　Avenue30

　水伊は、震える手で細い葉巻に火をつけた。
　深く息を吸い、吐く。耐え切れないまでに高まっていた緊張感が、瞬間ほぐれる。手の震えが止まる。けれど、指先は氷のように冷たい。
　水城老はやって来ない。
　ばれたと考えるのが、自然なのだろう。今日、館に来るように告げたのは、秘書でも山本でも高橋でもなく水城老自身だった。水伊はそれだけで、事の重要さを嗅ぎ取ってしまう。水伊化学が上向きな今、こんな所に呼び出される用件はアレしかない。
　水伊は、灰皿を探す。苦笑する。離れの茶室にそんなものがある訳がない。
　内ポケットから、シガレットケースを取り出す。蓋を開け、中に灰を落した。
　と、微かな足音がした。が、老人の足音ではない。もっと軽い、若いものだ。
「失礼します」
　若い女の声がして、戸が開いた。吉田とかいう使用人だ。
「もうすぐ来られますから。これ、お使い下さい」
　そう言って、クリスタルの灰皿を前に置いた。そして一礼し出て行こうとした。
「君」
　戸を閉めかけた手を止める。
「冴子ちゃん、いるの？」
　質問に戸惑うような表情をする。
「は、はい。お部屋で。薫様がいわして、お勉強を」
　水伊は笑いながら頷いた。
「失礼します」
　吉田は出て行った。
　葉巻を吸う。土曜の午後なのに薫はよくやる。
　溜息が漏れた。今更悔やんでも仕方ないのだと思う。薫の事にしろ、この状況が動かなければ手の出しようがない。それがわかっていながら、水伊は自分の中の後悔の念に囚われる。そして、それは暗い熱情の形を取る。
　又、足音がした。
　水伊は、葉巻を揉み消す。
　戸が開き、老人が入ってきた。水伊は正座し、深く頭を下げた。
「元気か？」
　茶の用意をしながら、老人は問うた。
「お蔭様で、会社の方も順調です」
　茶筅を動かす。そそとした音が、部屋に響く。水伊は又指先が冷えていくのを感じた。
　この＜水城＞への畏怖は、血の中に脈々と流れ続けたものにしか過ぎない。それは理解しても、現に畏れている自分がいる。このプリンティングは強すぎる。
　老人が、茶を置いた。唐焼きの花鳥風月だ。茶器のことはわからない自分に合わせたのだろうと、水伊は思う。
「頂戴いたします」
　水伊は、ゆっくり作法通りに茶碗を取った。濃い緑の茶を見る。ふっと、何時だったか冴子の目が緑に見えた事があったのを思い出した。多分、光のせいだったのだろうが、妙に鮮明な印象だった。
　飲み干す。
「結構なお手前でした」
　茶碗を返すと、老人は一礼し頷いた。それから、立ち上がり水伊の正面に座った。
「さて、今日来てもらったのは」
　老人の口調は柔らかいが、目の奥は冷たく光っている。
「率直に言おう。お前＜水城＞をどうするつもりだ？」
　瞬間、水伊はぐっと奥歯を噛んだ。
「会長、何のことですか」
　声が平静に出たのに安堵する。老人は少し考え、薄く笑った。
「お前が＜水城＞になる為には、冴子が邪魔だな」
「会長」
　握った手が、じっと汗ばんでくる。彼は知っている。知らぬ筈がない。彼は＜水城＞なのだから。でも、どこまでを知っている？
「―――それとも、冴子と結婚するかね」
　水伊は引きつった笑みを浮かべた。
「会長、幾つ歳が離れているが御存知でしょう。第一、冴子の方が嫌がりますよ」
　からかっているのかと思った。煙草が欲しい。手が冷たい。
「確かに、冴子は嫌がるだろう。でも、あれは何でも嫌がるから……。ああ、煙草吸ってもかまわんよ」
　老人の言葉につられるように、水伊はシガレットケースを取り出した。くわえて火をつける。大きく息を吐く。
「だから、お前が本気なら無理強いしてもいい。お前を婿に迎える」
　老人の表情に、水伊は真摯なものを感じた。普段はどうであれ、やはり唯一の孫というものは可愛いらしい。でも、この違和感は何だろう。何か変だ。何か回りくどい。
　水伊は首を振った。
「無理強いなんか…。それに、若すぎます」
　そう、今更計画を止める訳にはいかない。既にそれは水伊の手を離れ自力で動き始めている。もう遅いのだ。
　老人が、何が言いた気に見ている。水伊は、続ける。
「実は来年にでも、麻美と結婚しようかと思っています。お互い、年貢の納め時だと思いますので」
　嘘だ。麻美と結婚する事は絶対にない。
「それは、めでたいことだな」
　老人の言葉に、水伊は頭を下げた。
　暗い熱情が、胸の中に湧き上がる。
　ずっと静音を愛しているからだと思っていた。冴子にひかれるのは、彼女が静音の娘だからだと思っていた。でも、違っていた。２年振りに会った時にわかった。冴子は冴子だ。静音の代わりではない。
　水伊は煙草を揉み消す。
　冴子を手に入れたい。
　その情熱の暗さは、自分自身が一番よく知っている。
「――好きにするといい。私は手出しはせん」
　老人が神託のように告げた。
「けれど、伝えておく。運命の星は、変わらぬものだぞ」
　水伊の噛んだ唇が震えた。
「冴子は６つになった時、定められた時刻に、定められた部屋に入らなかった。我々がそうしたように、彼女はしなかった。冴子には＜水城＞だとういう証がない」
　それが重要なポイントなのだ。
「あの時、お前は何も見えなかった筈だ」
　老人の目は冴え冴えとしている。
　沈黙が続いた。
「わかった」
　老人は、腕を組んだままだ。
「行って、お前のすべき事をするがいい」
　言葉を疑う。
「会長、私は何も」
「＜水城＞が道を選ぶ。先へ行けない場合は、冴子の力がそこまでだったということだ」
　残酷な言葉。水伊は冴子を哀れに思う。
「……では、これで失礼します」
　水伊は一礼し、立ち上がった。そして、離れを出て行った。苦笑しながら。
　――行ってすべきことをせよ――
　イエスがユダに言った台詞じゃないか。

　水伊が出て行くと、老人は大きな溜息をついた。今の会話を高橋が聞いていたら、怒涛のごとく激しただろう。
　何もしないで、二人の男を惑わせた静音を老人は自分の娘ながらたいしたものだったと思う。男の一人はその忘れ形見に仕え、一人は征服しようとしている。蓄積される人の気持ちとは、強い（こわい）ものだ。
　そして当の娘は、たいしたものであったが故にＫｅｎ＝Ｏｄａに走り、死んだ。
「それにしても、冴子をどうしたものか」
　老人は、又溜息をつく。
「＜水城＞が血塗られた統主を受け入れるかのう」
　一人ごちながら、立ち上がり離れを出る。見上げた館、早々と冴子の部屋の灯がともっている。
　宇宙が膨張しているが故に、宇宙（そら）は暗く星は輝いて見える。
　人の理と宇宙は相似している。
　水伊は＜水城＞の中でノヴァを導くつもりなのか？
　老人はゆっくり館に向かって歩き出した。