Lonely　Avenue33

　ふいに、女の白い肩が震えた。
「うっ」
　低い押し殺した声が漏れ、俊の裸の胸に暖かく濡れたものが落ちた。
　高橋薫が、躰を小さく震わせながら泣く。俊の胸の中で、何かに耐えるように泣いている。俊は腕を回し、薫を包み込むように強く抱き締めた。
　情緒不安定なのだろう。
　オフィスから食事へ、食事からホテルへ、誘ったのは俊だが、薫は少しも躊躇わずについて来た。その間の言動に、俊は多重人格か精神分裂の触感を感じ続けていた。潜在的な、でも彼女によってきちんとコントロールされているもの。
　そのコントロールが、今崩れた。
「……最低よね。躰と精神のバランスが取れないなんて」
　しばらくして、震えの止まった彼女が言った。胸を顔に押し付けているせいか、くぐもった掠れた声だった。
「諦めて、病院へ行くことにするわ」
　そう言って、溜息をついた。
「何？」
　問うと、彼女はくくっと笑った。
「自律神経失調症みたいなものよ。このところ、やってなかったから、欲求不満のせいだと思いたかったのだけど」
　照れ隠しのように、淀みなく話す。
「でも、違ったみたい。あなた良かったし……。私ひどいことを言ってるわね。でも、私正直なのよ。自分の欲望や生理に対して。そして、罪悪感も持っていない。煩悩全てを受け入れてるつもり。なのに、こんなのって、ひどいと思う」
　最後の一言を早口に言って、彼女は黙ってしまった。顔は胸に埋めたまま、動かそうともしない。
「よくわからないけど、結婚でもすれば？」
　俊の言葉に、又くくっと笑った。
「そういうタイプじゃないのよ。多分、私って。支配欲が強すぎて、夫も子供も駄目にしちゃうと思う」
　彼女がそう言うならそうだろうと思う。この彼女の自己批判と思いの溝が、多重人格の触感の一端になっているのかもしれない。
「１６歳の時は、結婚したかったのよ。でも、彼、調停中だったけど奥さんいたし、離婚したとたんアフリカ行ってそれっきり。逃げたのよね。奥さんからも、私からも。そういう人だった。結局、私ってないものねだりしか出来ないのよ」
「多かれ少なかれ、誰だってそんなものだよ。自分はこうだからって、思い込むのは良くないな」
　余計な事、言ったかなと思った。案の定、彼女はむっとしたように黙った。
「思い込みは視野を狭める。視野を限定すれば思考も閉じる。それが又、新たな思い込みを造る。悪循環だよ」
　もうよせ。頭の隅で囁いている。なのに口が、勝手に動く。
「そうやって、思い込みの造った自分の像に囚われていくんだ。いつの間にか。もう少し、自分の本音と相談するんだね。あんたは、自分で思っているほど、ＨＡＲＤじゃない」
　きりっと胸に痛みが走った。俊は顔をしかめる。薫が綺麗にマニキュアした爪を立てている。
「……勝手なこと言わないでよ」
　冷たいスティールのような声。拒絶する口調のくせに、躰を押し付け爪を立て続けている。
「あなたに、何がわかるの？　役割が決まっている私の人生に、何が言えるの？」
「――爪立てるの、止めろ」
　薫が手を伸ばし、俊の頬に触れた。痛みは一瞬失せたが、鈍い、ジーンとした疼きがゆっくりやってきた。薫の血のついた指先は、這い上がり額に触れる。額の傷に触れる。
「人のこと、言えないでしょ。あなただって。どうして、砂漠に行かなかったのよ」
「――」
「言いなさいよ。内定していたＡＰ通信社蹴ってまで、日本に残ったのはなぜよ。あなたこそ、自分の思い込みに囚われているんじゃない」
　薫の早口を聞きながら、俊は頭の隅がしんと醒めてくるのを感じた。経歴が全てばれているのはわかる。でも、それを、感情に任せてそれを問う薫の真意がわからない。
「言いなさい」
　激しい口調で言う。でも本当に激した様子はなく、声だけがヘタな吹き替えのように響く。これも又、彼女の触感だと思う。口調と感情と表情に一貫性がない。
「言いなさいよ。月島拓馬の為なんでしょう？」
　無意識に、躰がビクっと動いた。カマをかけただけだと感じていたが、躰は言い当てられた事に動揺している。
「……違う。拓馬は関係ない」
　言ってみても、薫は信じないだろうと思った。そういう鋭さを持った女だ。
　俊は、祖母の目を思い出す。
　〔逃げるつもりかえ、……どうやっても逃げ切れるものじゃない。お前がそうやって、閉じとる限りはな。それに、お前がおらんと拓馬の＜力＞は大人しゅうならんて……〕
　深遠のような瞳だった。拓馬程には愛されていないと思った。そして情の薄い人間には、それくらいが妥当だとも思った。
　ふいに、薫の腕が首に回り、強く抱き締められた。
「……もういい」
　首筋に頬を摺り寄せて囁く。
「もうやめて。辛くなるから」
「――傷のせいだよ、多分」
　薫の頬に口付けながら言った。
「アラブに行きたかったのも、行けなかったのも、傷のせいだ」
　薫の目尻はまだ濡れていた。
「あんたの初恋の人みたいに、逃げたかったんだよ。でも逃げ切る勇気がなくて、結局こうやってヤサぐれている」
「惨めにしないで、自分を」
　薫は優しい。全てを包み込んでしまうように、優しい。でも、これでは傷つくばかりだ。あの水城冴子が、この優しさを理解しているなんて思えない。
「――道化だな」
　低く呟き、躰を起こした。水城冴子を中心に誰も彼も踊らされている。薫とこういうことになったことすら、道化じみている。
　煙草を取り火をつけた。
　ベッドから降りた薫が、服を着ていく。
「――髪、上げちゃいなさいね」
　ボタンを止めながら言った。
「トラウマはね、閉ざしているとその痛みで肉を巻くの。だから開放されないんだよ」
「ああ、わかる」
　薫が、振り向いて微笑んだ。
「でも、人は、解放されないものなのよね」
　片頬に笑みを残したまま、小さな寂しげな声で言った。俊は、煙草を揉み消し服を着始める。薫が髪をとく音が、しゅっと響く。
「次、いつ会える？」
「……わかない。……電話して、オフィスに」
「わかった」
　俊は頷き、ジャケットに袖を通した。