Ｌｏｎｅｌｙ　Ａｖｅｎｕｅ７

　それまで混み合っていた喫茶店が、急に静かになった。
「３時から授業があるので」
　林田は、俊の気配を察して呟いた。そう言われれば、客の大半を占めていた予備校生達が、いつの間にかいなくなっている。
「先生、授業はいいのですか？」
　問いかけに、林田は小さく頷いた。
「それで」
　林田は、言葉を区切り息をつく。
「何を話せとおっしゃるのですか」
　意外な言葉に、俊は耳を疑った。話す気になったというのか？　彼は、慌ててサングラスを取った。
「電話で、お話した…」
「だから、何もお話することはありません」
　強い口調に遮られて、俊は小さく息を吐いた。林田は、早口にまくしたてる。
「私が、水城冴子の担任だったのは、僅か半年のことです。何もない。何もお話することはないのです」
　この男は、そういった頑なな態度が余計に疑惑を抱かせるということを知らないのだろうか。俊は、この１週間聞かされ続けた受話器を叩きつける音を思い出して苦笑した。
「何もないという事はないでしょう。彼女、かなり目立つ生徒だった筈ですよ」
「え、ええ。確かに目立つ生徒でした。でも、欠席が多くて」
　林田は早く話を切り上げようとしている。苛々と膝を揺らし、何度も眼鏡のフレームをずり上げている。中学の教諭もこう神経質では、きついだけだったろう。もっとも、水城冴子が相手では誰でも同じだったようだが。
　水城冴子。誰もがその名を口にすると顔を曇らせた。『高慢、冷酷、気紛れ』担任だった教師達、同級生、皆判でついたようにそう言った。転校を繰り返し、その先々で問題を起こし転出していく。中学の３年間で、彼女は８回転校している。普通とは言えない数だ。
「あいつ、人間じゃない」
　冴子に、腕を折られた少女は絞り出すように言った。
「あたしの腕折った時、あいつ笑ってたんだ。薄ら笑いを浮かべて、あたしの腕を折ったんだ」
　その時は、５人を相手にそれぞれ１週間から１ヶ月の怪我を負わせている。常に素手で、常に正当防衛を立証する。彼女は、加えて転校することで、全てを揉み消してきていた。
　が、そんな事もここ２年、突然長崎の高校に入学して以降はなくなっている。
「林田先生、私の知りたいのは、２年前に何があったかです」
　林田の躰が、ビクッと跳ね上がった。
「２年前」
「なぜ、彼女は急に長崎の高校に行ったのですか。あなたはその時の担任だ。彼女の進学について、知っていた筈です。２年前の３月に何があったのです」
　林田が何か言おうと口を開いているが、声にならない。震える手で、グラスを掴む。水を一気に飲み干す。
「一体、何のことです。３月って」
「先生、いい加減にしましょうや」
　俊は、声のトーンを落した。そして、ゆっくり前髪をかきあげた。額の中央、人を威嚇するに充分な大きさの傷が現れる。
　林田の顔が、引きつる。
「先生、調べはついているんですよ」
　俊は煙草をくわえ、火をつけた。
「彼女、Ｎ高校に進学することが決まっていましたね。なのに、なぜ、長崎に行ったのです」
　林田は答えない。威嚇しすぎてしまったのかもしれない。
「私が、言いましょうか。３月１５日に、校内で男子生徒３人と女子生徒２人が、野犬に噛み殺されるという事件がありましたね。水城が、Ｎ高を取り止めたのが３月１６日」
「何が言いたいのです」
　林田が、テーブルを拳で叩いた。苛々と躰が動く。
「一人生き残った女子生徒がいましたね。水城と仲がよかったという」
「いい加減にして下さい。私は、何も知らないのです」
　林田のそれは哀願する口調だ。
「では、なぜ、あの学校を辞めたのですか」
　激しく怒鳴る。
「なぜ、辞めたのです。辞めさせられたのではないのですか。あの事件に水城冴子が関わっているから、辞めさせられたのではないのですか」
　林田が、あぁと喘いで両手で顔を覆った。
　紫煙が、舞い上がる。なんて、静かな午後なんだろう。
「……自分で、自分の意思で辞めたのです」
　手の隙間から、くぐもった声が漏れた。
「今でも、夢に、……血の海だった。判別もつかないほど、ズタズタに引き裂かれて、相田一美の泣く細い声だけが……」
　息を吐く。聞きたいのは、そんなことではない。
「確か、藤川と言いましたね。その死亡した生徒のリーダー格だったのは」
「ええ、水城が転校した時から、何かと絡んでいたようでした」
　林田が、手を下ろし肩を落した。
「記事にされるのですか」
　俊は笑って首を振った。
「さあ、まだ何とも言えません。私は、水城冴子が何か、知りたいだけです」
　俊は言いながら、自分の言葉に引っかかるものを感じた。
「でも、警察に通報したのは、水城自身なのですよ」
　林田の声は、乾いている。
「知ってますよ」
　林田が、テーブルの上で手を組み合わせる。その指はひどく震えている。唇を噛み、視線をチラチラと動かす。
「先生」
「私の知っているのは、ただ、あの日、藤川達がケリをつけると言っているのを聞いただけなのです」
　吐き出すように、一気にしゃべった。
「相田一美を使って、誘い出して、ケリをつけると」
　林田は、テーブルに突っ伏した。
「私は、知っていたのに、知っていたのに、何もせず、誰にも告げず、……逃げ出したのです」
　俊は、冴え冴えとした思いで林田も背中を見た。こういう時、自分はやはり情に薄い人間のだと感じてしまう。
　煙草を揉み消した。
「水城冴子が、相田一美を助けに行ったと思いますか」
　俊の問いが以外だったらしく、林田が顔を上げた。
「え、でも」
「行くような少女でしたか？」
「い、いえ、多分、他人のことには全く興味を示しませんでしたから」
　その言葉で、水城冴子の像を得たと感じた。
「どうも、お手数を取らせて申し訳ありませんでした」
　林田が戸惑う。俊はレシートを取り、立ち上がる。
「ところで、あの事件の担当だった刑事の名前、覚えていませんか？」
　もういい。この男は、何も知らない。
「確か、えっと、有栖川とか。珍しい名前だったので。あの、もういいのですか」
　林田が、つられて立ち上がる。もう、顔には安堵の色が浮かんでいる。
「有栖川さんですね。ええ、本当に、どうもありがとうございました」
　俊は一礼すると、林田を残して店を出た。空を仰いで、サングラスをかける。
「有栖川か」
　口の中で小さく呟いた。ツイていると思う。