Lonely　Avenue8

　ノックしたが、返事がなかった。
　構わずドアを開ける。部屋は薄暗く、足元には紺色の制服の上着が脱ぎ捨てられていた。薫は、苦笑する。
　衣類は、上着に続いてエンジ色のリボンタイ、ジャンバースカート、ブラウス、下着と点々と落ちている。その先のバスルームから光と水音が漏れていた。薫は、部屋の明かりをつけ衣類を次々を拾い上げていった。そして、すぐ側のソファに置いた。一つ息をつく。バスルームの前に行き、
「冴子さん」
　と、声を掛けた。返事を待たずにドアを開ける。
　どちらかといえば白い裸体が、背を向けている。しなやかな曲線。細く、まだ幼さが残ってはいるが、薫の知る限りでは一番美しい躰だ。
「冴子さん」
　もう一度声を掛ける。冴子がやっと薫を見る。躰ごと薫の方をむく。別に驚いたような表情もしなければ、躰を隠そうともしない。洗いかけの髪に手を当て、冴子はその完璧ともいえる肢体を堂々と見せつけている。
　冴子の道徳性や羞恥心の欠落は、彼女の強い選民意識のせいた。彼女にとって、他の人間は劣ったもの、虫ケラみたいなものだ。一体どこに虫ケラに肌を隠す人がいるだろうか？
「何か用なの？」
　冴子が苛ついた声で言う。彼女の救い様のないのは、選民意識等、微塵も持ち合わせていないと信じていることだ。その認識が甘いことだ。
　冴子が、シャワーを止めた。
「話があるの。向こうで待っているわ」
　薫が、バスルームのドアを閉めると同時に、又水音がし始めた。
　洗い髪を拭きながら冴子が姿を表したのは、それから５分ほどたってからだった。
　制服が片付けられているのに気付いたのか、ソファに座っている薫を見やって、ふんと鼻を鳴らした。
「それで、あなたに、全てを譲るって遺言書でも書けばいいわけ」
　向いに座りながら、うんざりしたように言った。青いロングTシャツから覗く脚が、優美に組まれる。
「私は、継ぎたくない。あなたは継ぎたい。私が消えればいい。簡単じゃない」
「馬鹿言わないでよ。できもしないことを」
　つい口調がきつくなった。冴子が髪を拭いている手を止める。
「どうして？　あなただって＜水城＞じゃない」
　薫は、唇を歪めた。ポケットから煙草を取り出す。
「又従妹殿、血縁というだけで継げるのなら問題ないのよ」
　冴子が、タオルをテーブルに放り、頭を振った。濡れた髪が、重く揺れる。
「吸うわよ」
　煙草をくわえ、火をつけた。煙がふわっと舞い上がる。冴子が、それを横目で見て呟いた。
「セイラムって、嫌いだな」
　それは知っている。Ken=Odaが、セイラムを吸っていたことぐらい知っている。
　薫は、又深く息を吸った。
「ところで、今日校門であなたを乗せて行ったシルバーグレイのＭＲ２は、何なの」
　冴子の表情は堅い。
「あなたには、関係ないわ」
　躰を横に向け、脚を抱え込んだ。薫は、その冴子の視線を追う。開け放たれた窓の向こうで、森が暗いシルエットを描いている。防犯灯の明かりが、チラチラと見える。その灯火に桜の花弁が、ほんのりと浮かんでいる。
　赤外線光波までそ捕らえる彼女の瞳には、この暗い森は一体、どんな風景に見えているのだろうか。人と同じ視聴覚を持たないのは、不幸でしかない。それには、同情する。けれど、それは『理解』ではない。
「冴子さん、あなた自分の立場が、わかっていないわ」
　冴子が、きつい眼差しで向き直った。
「私＜水城＞を継ぎはしない。私、ステーツに帰る」
　駄々をこねているように思えて、むかっとした。
「逃げないでよ」
「逃げる？」
　意外そうな顔をする。
「そうよ。あなたは、逃げているのよ」
「私、逃げてなんかないわ」
　冴子が、声を荒げた。
「いいかげんにしなさい」
　右手でテーブルを叩いた。
「あなたに、帰る処なんてないのよ。あなた、ステーツからも、逃げてきたのじゃない。しかも父親を見捨てて」
　冴子の躰が、小刻みに震えた。
「あなたに、何がわかるの。何もしらないくせに。何が言えるっていうの！」
　叫ぶ。怒りが、全身から発するのがまるで見えるようだ。薫は冴子が激すればする程、冷めてくる自分に驚いていた。煙を吐き出す。
「私に、あなたの事がわかる訳ないでしょ。私、あなたを理解しようとも思わないわ」
　どうしてこんなにも憎めるのだろう。憎み過ぎて胸が熱い。
　冴子が、ふっと鼻で笑った。
「本音が出た訳？　はっきり言ったら？　私が憎いって。あなた、昔からそうじゃない。聖人のような顔をして、私を傷つけるのよ、言葉で。あなた、私にも感情があるのを知らない！」
　薫は、テーブルに置いてあったティーカップの受け皿で煙草を揉み消した。冴子のヒステリックな言葉に、うんざりする。
「冴子さん、よしましょう。お互いの嫌悪をぶつけあったって何にもならないのよ」
「そういう風に仕向けたのは、あなたじゃないの」
　顔を歪めていると妙に幼く見える。
「もう、いいかげんにして。私＜水城＞じゃない。私には人を超えた洞察力だの、先読みする能力なんてない」
　又、膝を抱え込んでしまう。そうやって、自分の殻に閉じこもるのだ。
「そう、そうね。あなたは本当の意味では＜水城＞ではないのかも知れないわね。でも、あなた以外に＜水城＞に近い者は、もういないわ」
　ＮＥＷ　ＴＹＰＥ。　ＳＦで使われていた言葉だが、＜水城＞との類似点が多いのに苦笑した記憶がある。「人は変わっていく」と、訴えていたＳＦ。深い洞察力、共鳴、予見、重力から解かれた人間が、変わっていく姿。なら、人は神へ還えるのか？　＜水城＞は、神の末裔なのだと言われ信じられてきた。有史以前より、脈々と受け継がれてきた神の血。なのに、その神の末裔が、遺伝の袋小路につまづき人類亜種に寄生せざる得なくなっているなんて、お笑い草でしかない。
　そして、薫はそういう意味での＜水城＞にはなれない自分を嫌悪して止まない。薫は笑って見せる。嘲るように。
「冴子さん、私はゲームがしたいのよ。世界を相手にした巨大なチェスゲーム。あなたは、クイーン。しっかりしてよ」
　冴子は唇を噛んで、じっと考えている。
「……私が駒ってわけなの？」
　声が震えていた。こういうことが冴子の気に障るのはよく解っている。気位ばかりが高い女。屈辱に耐える忍耐力なんて、持ち合わせていない。
「まあ、そういうことね」
　薫は、もう１本煙草に火をつけた。
「あなたは、私に従うしかないのよ。あなたの事、公表されたら困るでしょ。視覚聴範囲が違うって、それだけでも学界は狂気乱舞するのに、あなたときたら――」
「わかった」
　冴子が叫ぶ。薫は、軽く頭を振った。
「いいえ、あなたはわかっていな――」
「私を追い詰めないで！」
　悲痛に叫ぶ。
「殺すわ。追い詰めれば、私、あなたを殺すわ。私に、牙を剥かせないで！」
　それは、冴子の正直な願いなのだ。が、応えてやる事は出来ない。
「私に、もしものことがあったら、あなた事、公にする手筈が整っているわ。それも日本だけではなく国際レベルで。又、殺しに来るかもしれないわね」
　冴子が眉を寄せた。親指の爪を噛む。
　重い時間が、ゆっくりと流れていった。
「………わかったわ。あなたの好きにすればいい。でも、その代わり教えて、知っているなら。７年前、ロスでダディを殺したのは、何だったの」
　父を見捨てた事、思っていた以上に罪悪感を感じていたのだ。
　薫はゆっくり息を吐き出して、おもむろに言った。
「グリーン・ベレー」
　冴子の表情が強張る。
「確証はないわ。ただ、あの年の９月２３日、ロスでグリーン・ベレーの１個小隊が全滅しているわ。それだけ」
「な、ぜ」
　乾いた声。それは誰にもわからない。なぜ、Ｋｅｎ=Ｏｄａ　と冴子が、追われなければならなかったのか。なぜ、静音は殺されたのか。
　薫は、煙草を揉み消した。
「冴子さん、私、見たいのよ。あなた本来の姿を」
　冴子が顔を向けた。
「あなたの、本当の姿が見たいと言ったのよ」
　冴子は立ち上がり、上から薫を見下ろす。仮面のような無表情。鋭く、冷たい、冴子本来の表情。
「あなたも狂いたいの」
　冴子の目の色が変わる。黒から、暗緑色に、それが次第に明るさを増してくる。冴子の唇の端が持ちあがった。薫は固唾を飲んだ。ふいに恐怖が、どうしようもない説明のつかない恐怖が薫の躰を包んだ。胃が痛む。吐き気がする。冴子は嘲笑している。双眸は、緑色に発光していた。
「やめて！！」
　思わず薫は叫んでしまった。
「もう、いいわ。やめて…」
　動揺を、恐怖を知られまいと、精一杯冷静な声を出したつもりだったけれど、それは全く上手くいってなかった。
「人間、知ってはならないこともあるのよ」
　冴子の瞳から、光が消えた。薫は、無意識のうちに安堵の息をついていた。
　開け放たれた窓から、風が吹き込む。その度に散っていく桜の花弁が、ひらひらを舞い込んでくる。